ひとには言える
東京行きの新幹線は二列シート前後で四人分、岩清水大豪がすでに確保済みだった。
「飲むか?」
席を回転させ、ボックスシート状態。
車内販売を呼び止めた大豪が缶ビールを買おうとしたが、香織が「とりあえず良いです」と断りを入れる。
窓際に大豪、隣に香織。向かい側は窓際に伊久磨で通路側が明菜。なお、伊久磨が凄まじく暗い。濃厚な暗黒オーラを全身から放ち、表情は沈み切っている。隣の明菜は明らかに戸惑っていた。
(席順これで良かったのかな)
明菜と場所変わった方がいいのかな、と香織は考えてみた。しかし明菜が大豪の隣というのも違う気がする。
ひとまずあの伊久磨をどうにかせねば、と口火を切った。
「命に別状はないなら、そこまで心配しなくても。仕事しているんでしょ?」
要領を得ない伊久磨から聞き出した限り、静香の怪我は「ただの怪我」のようだ。右腕を使えないだけで、大きな手術をしたわけでもなければ、意識不明の重体というわけでもない。
(右腕……)
職人である香織としては、もちろんそこにはひっかかっている。
しかし口に出してしまえば、伊久磨の状態が悪化する恐れがあるので、敢えて黙殺して話を進めた。
自分に話しかけられていると遅まきながら気付いた伊久磨が、顔を上げた。
瞳に、光がない。
「気付くタイミングはあったのに。気付くのが遅れた」
声に後悔が滲んでいる。自分を責めているのが容易に知れた。
伊久磨は、そのまま瞑目してしまう。体面を取り繕っている余裕もないらしい。
わずかに逡巡したものの、香織は言い聞かせるように声をかけた。
「それは静香の問題じゃないの? 手が不自由でも連絡くらいできたでしょ」
だいたい。
二、三日遅れたところで、死ぬわけじゃないんだから。
その一言を飲み込む。
今がどんな状態なのか、本当のところはわからない。心配させないように、怪我の具合を加減して伝えてきている線も十分にあり得る。
(情報の出どころが光樹なら、ある程度正確だとは思うけど)
なんといっても、身内なのだし。
伊久磨は窓ガラスにごつんと頭をぶつけて、目を開けた。そのまま流れる景色をぼんやりと見つめる。
「香織の言う通りだと思った。俺の方から、変に意地を張らないでもっとマメに連絡していれば良かった。少なくとも、違和感があった時点で、きちんと話を聞くべきだったんだ。……隠されるとは、思っていなかったから」
最後の一言に、じわりと暗い感情が滲んでいる。
何故教えてもらえなかったのか、割り切れていない様子。
「現実的に、お前には仕事があるし、静香も生死に関わる状態じゃないんだろ。しかも……、静香の、母親、がついているなら、何かと面倒見てもらっているんだろうし。わざわざ伊久磨に来てもらっても、って考えそう。静香だし」
不自然にブツ切れた言葉。「静香の母親」をなんと表現していいのか、悩んだ。お母さん、と口にすることが出来ず。
普段の伊久磨なら気付いただろうが、今日はただただぼんやりとしている。
やがてぽつりと呟く。
「やることならある。たくさん、ありすぎるくらい。死んでいたら葬式以外何もできないけど、生きている相手にはいろんなことができる」
明菜が伏し目がちに視線を向けた。伊久磨の事情をどれだけ知っているかは定かではないが、ヒヤリとした空気は感じたのだろう。
血の気の失せた顔。染み付いた影が背後に見えるかのようだ。
「腕の自由がきかないって、実際すごく怖いと思う。帰り道一緒に歩くだけでもいいから、そばにいたい。転ばないように横で支えたり。それこそ痴漢や物取りに狙われるかもしれない。これ以上悪いことが起きないように、そばにいれば出来ることも……」
たしかに、それはそうだ。
(でも、一回、二回の話だ。生活がある。ずっと向こうにはいられない。だとすれば焼石に水じゃないのか。「相手のために何かした」という自己満足を得て、日常に戻る。自分を安心させたいだけだ)
言えない。
目の前に問題はある。正解はない。
「彼女さんの気持ちも少しわかります。『気にかけて欲しい』けど『負担になりたくない』……。私は自分が体調崩したときに、言いたい相手に言える間柄でもなかったので言いませんでしたし、今後同じ状況でも自分がどうするかもわかりません。結局『気持ちの問題』ですよね。彼女さんからすると、蜷川さんが距離的に遠くにいて、仕事があることは『理屈として頭ではわかっている』と思います。でも『会いたい』とか『寂しい』という感情が消えるわけではないから」
これまでの会話内容から状況を推し量るように、明菜が慎重な口調で言った。
香織と目が合うと、淡く微笑む。
「『助けて』っていうのは、本当に難しいです。相手を自分の人生に巻き込むことなので。そこまでしてもらう価値が自分にあるのか、そもそも自分はそこまで深刻な状況なのか。他人の手を煩わせなくてもなんとかできるんじゃないか。そういうこと考えると……」
話しながら、視線が逸れる。大豪の方を見て、口をつぐんだ。
三人が話すのに任せて、腕を組んで深く座っていた大豪は、明菜と目が合うと「ん~~」と唸った。
香織は身を乗り出して、大豪の顔を下から覗き込む。
「ヒロさん。なんか面白いこと言ってください」
「なんだそれは」
ちらりと目を向けられた香織は、形の良い唇に品のある笑みを浮かべて言った。
「年長者はこういうとき、何かいい感じのこと言って、格の違いを見せつけるべきですよ」
向かい側の席で明菜が「うわぁ」という形に口を開いて、逃げるように背を背もたれに押し付けていた。
一度解散してから集合するまでの間に「岩清水大豪」について調べたらしい。駅で合流したときに「恐ろしい経歴がいっぱい出て来ました」と香織に耳打ちしてきたくらいだ。おそらく、彼が働いてきた界隈では「神」のような存在なのであろう。知れば知るほど、口をきくことすら躊躇われるほどの。
大豪は物言いたげに香織をじーっと見てから、ふっと笑った。
「むずがゆくて」
「だと思いました。ヒロさんはこういうときどうするんですか? 遠くの彼女が、命に別状はない程度の怪我。顔を見に行こうにも仕事があるからとんぼ返りするしかない。行きます?」
「お前はどうするんだ」
質問に質問で返される。香織はかがめていた背を伸ばして、にこりと微笑んでみせた。
「俺の場合、もし好きなひとに何かあったとしたら、何もかも全部投げ捨ててその人のところに行きます。立場も責任も仕事もしがらみも全部。他人の参考になるような意見じゃない」
視線を感じて明菜に顔を向けると「そうなんですか?」と小声で聞かれた。
香織は「うん」と頷いて満面の笑みを浮かべたまま続けた。
「重いでしょ。ドン引きされても構わない。逃がす気ないから。愛の重さで死ねって感じ」
明菜は頭痛を覚えたように目を閉じた。
予想通りの反応に気をよくしつつ、香織は大豪に顔を向ける。
微苦笑を浮かべていた大豪は、やれやれといった様子で口を開いた。
「椿の当主が」
「そうですよ。そんな俺のことを周りが盛り立ててくれているし、わがままも聞いてくれますから。俺の大切な人の一大事は俺の一大事。『全部任せた』って投げても、誰かが穴を埋めてくれます。どうにもできないなら店を閉めたってかまわない。一月や二月、和菓子を食べなくてもみんな死なないでしょ」
ぶふっと大豪は噴き出して「そりゃそうだ」と言う。堪えきれなかったらしく、声を出して笑った。
「なるほど。椿の考えはわかった」
香織は素早く「香織です。名前で」と口を挟む。自分以外の「椿」を知る人間には、ぜひとも区別して欲しいとの強い気持ちを込めて。大豪はにやりと笑って頷いてから、明菜に目を向けた。
「由春をしめておこう。愛が足りない」
「何を言っているんですか。これは由春さんの問題ではなく私の問題です! 由春さんに何か言うのはやめてください!!」
「明菜ちゃん、この際全部ヒロさんにお任せしちゃいな? じゃないと一生あいつに仕事を優先される人生になるよ? プロポーズがすでにそうだったんじゃないの? 『俺は仕事が忙しい男だが、それでもついてきてくれるか』とか言ったんじゃないのあいつ。時代錯誤だなー」
前のめりになりながら明菜が「違いますから!!」と声を張り上げた。
言ってしまってから、車内だと思い出したように慌てて口を閉ざす。
「言わないとわからないんだ、本当に。男は馬鹿だぞ」
「あの、岩清水シェフ、そういう決めつけもどうかと思います。『男は』なんて。由春さんはそういう人じゃないです。むしろ私が思った以上に私のことを心配してくれて、それが申し訳ないくらいで」
むっとした明菜に、香織がすぐに茶々を入れる。
「申し訳ないって感覚が良くない。そこは『当然』だって思おうよ? ふんぞり返って顎で使おう」
「とんでもない!! そんなことできませんっ。大体香織さんだって、相手に何かあれば駆けつけるって言う割に、自分に何かあったときは連絡できるんですか? 普段からできないのに?」
何かいまとても痛いことを言われた気がするが、言い返す前に香織は(伊久磨)と思い出して目を向ける。忘れていた。
「静香に連絡はついた?」
「……メッセージわかりにくいっていわれるから、到着時間だけ送っておいた。返事はまだ」
伊久磨はスマホを取り出して画面を表示する。ちょうどそのとき、静香からの着信があった。
「新幹線に乗ったって伝えたのに」
ぼそっと伊久磨が言うのを聞きながら、香織は「右手使えないからメッセージ打てないんじゃないの?」と言うも、伊久磨は立つ気配がない。
(面倒くさい)
「出ないなら俺が出るよ、何やってんだよ」
スマホを奪い取り、通路を足早に過ぎてデッキに向かう。
「はい。ごめんね、俺だよ。静香、怪我ってなに? 大丈夫なの?」
電話の向こうの反応が鈍い。
「静香?」
ややして、とても躊躇いがちに、電話の向こうから呼びかけがあった。椿さん? と。