事後報告
「せっかく来てもらっているのに、どこにも行けないでごめんね」
夕暮れ時の雑踏。
ひんやりとした薄暮の空気に、灯り始めたライトが滲む。
ビル街を足早に行き過ぎる人影が、徐々に増えてきている。ぶつからないように注意を払いつつ、齋勝静香は自分より十センチ低い母親に目を向けた。
右腕が、動かせない。
少なくとも三週間はギプスで固定。完治まで三か月かかるとのこと。もちろんその間無理に動かせば期間が延びたり、下手をすれば後遺症も。
――仕事が。生活も出来ないんですけど。
フリーランスで、一人暮らし。怪我や病気には気を付けてきたのに、全治三か月とは。腕の痛みよりもその間のことを思って目の前が暗くなった。
(「仕事」が出来なくなれば、収入はすぐに途絶える。その上、生活も……)
買い物だって一苦労だし、掃除洗濯風呂といった日常のありとあらゆる場面で困難が生じる。
電話ひとつ、満足にできない。
困り果てて実家に連絡したら、母親が都合をつけてすぐに上京してくれたのはありがたかったが。
各所へ連絡するのにスマホをスピーカー状態にしてメモを取ってもらったり、代打の都合がつかない現場には一緒に出向いて仕事をしてもらったりと、来るなり働きづめ。フラワーコーディネートと華道師範という、職種的に似通った技術・知識を共有していたおかげで話の通りが良いのは幸いしたものの、ひたすら申し訳ない。
ここまで、自立した生活をしてきたつもりなのに。
三十歳を前にして、仕事も生活も親に面倒を見てもらわなければいけない、とは。
さらには、右腕が動かないせいで、箸を持つこともできず、外食もままならない。
用事が済んだら混雑を避けて速やかに電車に乗り、マンションに帰るだけだ。
親子の間柄とはいえ、静香としては気まずさがある。
しかし母親の紀子はといえば、終始楽しそうにニコニコとしていた。
「気にしないで。こうやって東京歩いているだけでも十分楽しい。静香の仕事も色々見ることができたし、どこに行っても親切にしてもらえて感心しちゃった。ずいぶん信頼されているのね」
どことなく、誇らしく感じているらしい空気に、静香は曖昧に微笑んだ。
「フリーになる前に勤めていたところが良かったの。お客さんを紹介してもらえたし。後はほら、あたし体が頑丈で仕事に穴開けないし、プライベートに優先するものもなかったから、急な仕事も無理をきいてきたから。使い勝手が良いの」
真面目というより、愚直に仕事に邁進してきた。力の抜き方がわかっていなかった。一人旅などの趣味も持たなかったので、ほとんど東京を離れることもなく、ルーティンワークは確実にこなしてきた。
(……最近は少し、わがままだった)
実際、「二週間に一回程度、遠くにいる彼氏に会いたい」がどの程度のわがままなのか、静香には判断がつかない。恋人がいれば普通のような気もする。だが、これまでそういう時間の使い方をしてこなかったので、「たるんでいる」という後ろめたさや罪悪感があったのも事実だ。
そこに、この怪我。
罰を受けたような感覚。
毎日電話したり、会いたいと相手のことで頭がいっぱいになっていたり。
そんな状態だったから。
「静香はすぐ謙遜するけど、そんなことないと思うよ。今まできちんと働いてきたから、信頼されているんでしょ」
紀子はまだ静香の仕事にこだわっている。実際、行先ではみんな心配してくれたし、母の技術にも文句をつけることなく、受け入れてくれた。
(それも今日だけ。二回も三回も許してもらえるわけがない)
「仕事に穴を開ければ困るのお客さんだから。今持っている現場も、出来る限り知り合いあたって引き継ぐ。その後は」
自分に、仕事が戻ってくる保証はない。代打がきちんと仕事を果たせば、そのままそちらにということも十分あり得る。
人材なんか、いくらだっているのだ。「絶対に自分でなければ」ということはない。
ほとんど自動的にそこまで考えて、ひっそりと息を吐きだした。
(違う。……これでいいんだ)
すぐに先々まで考える癖がついているが、そもそも地元に戻るつもりだったのだ。引き継ぎはそのまま仕事の終わり。予定が早まっただけ。
隣を歩いていた紀子からは、のんびりとした調子で聞かれる。
「本当に、納得している? 一度地元に戻ったら、もう今みたいな仕事は出来ないでしょ。せっかくこっちで築いた信頼関係や実績があるのに。もったいないとは思わない?」
足早に駆けてきたスーツの男性と、すれすれですれ違う。腕にぶつかられないように、立ち止まって安全を確保してから、再び歩き始めた。
「それは、みんな言う。地元に帰るって言うと、『都落ち』みたいな感じがあるのかな。もっと東京で頑張ればいいのに、って」
少しずつ、得意先の中でも信頼している相手には話すようにしていた。遠からず仕事から身を引くことになると。
そのたびに、ずいぶん言われたのだ。
――あなたにとって「仕事」ってそんなものだったの?
――もっと他に、良い相手がいるんじゃないの?
(まるで、間違った決断をしたみたい。考え直すのを促される)
仕事と恋愛。自立した女が恋愛を選ぶのはどことなくカッコ悪い。「両方手に入れればいいのに」そう言われているかのようだ。
その裏にあるのは「選ばせるような男で、この先大丈夫か」との問いかけだ。「地元の彼氏」は「そこまでの甲斐性があるのか」と「前時代的で女性の自立に理解のない『田舎の男』じゃないのか」という意味合いを含んでいる。
問われるたびに、「決めたことなので」と笑顔で答えるようにしてきた。足元がぐらつかないように。
今はただ彼氏ができたことにのぼせあがっている、と蔑まれているように感じることもあったが、気付かないふりをしてきた。
仕事だけは、最後まで、誰にも文句を言わせない形でやり切って、完璧な引き継ぎをしてから身を引く。
そのはずだったのに、予定は大いに狂ってしまった。
自分自身のことすら満足にできず、周りに迷惑をかけて、どこに行っても謝りっぱなし。
自己嫌悪しかない。
「静香、蜷川さんには連絡してる? 電話はしていないみたいだけど」
母親に探るように言われて、静香は空を見上げた。
ビルが夕焼け色に染まっている。どこかで陽が落ちている。
まだまだ春の気配もなく、冷たい風を頬に感じつつ、早口で言った。
「うん。短いメッセージはなんとか。既読になるから連絡は取れているつもり。具体的には言ってないけど、言っても仕方ないから。伊久磨くんも仕事だし、休みも少ないし。こっちに来てもらっても、お母さんいるからやることあるわけでもないし」
口を挟まれないように言ったのに、紀子からは一言で返される。
「無理してない?」
(無理って)
唇が震える。油断すると涙がこみあげてきそうで、もう一度空を見上げた。紺色に透き通った空。
「言っても仕方ないから」
結局、同じことを繰り返して言ってしまった。
「仕方がないってことはないと思うけど。なんで言ってくれなかったのって話にならない?」
「いいの」
涙声。長く喋れずに、強く言い切る。
(知らせたところで、現実的に意味がない。来れないし、来てもやることがない。命にかかわる怪我じゃないし)
それならそうと言っても良い気がするのだが、どうしても伝える気にならない。
心のどこかに、葛藤と抵抗がある。
離れているけれど、毎日の電話がない時点で、異変に気付いて欲しい。心配して欲しい。
さらに言えば、伊久磨のせいではないのは知っているが、これが恋愛にうつつを抜かした罰だというのなら、一緒に反省して欲しい。
ひとえにその感情を、「八つ当たり」という。
(たぶん電話で話したりしたら、ほんっとーにしょ~~もない八つ当たりしちゃう。うちで落ち着いて電話しようにも、お母さんがそばにいるから、結局何を言っても恥ずかしいし)
「お母さんのことなら気にしないでいいからね。蜷川さん仕事遅いんでしょ? お母さん寝てから電話したら? もう、お母さん夜の十時にはぐっすりよ」
「いいから。本当に大丈夫。まだまだこっちの仕事もごちゃごちゃしているし、目途がついてから話す」
目途……。
三か月復帰できないとなれば、実質的に契約終了になる現場がほとんどだ。この一~二週間で、あちこちの得意先に最後の挨拶をする心構えでいなければならない。正直、恋愛は頭から追いやってしまいたい。
もっとも、地元に帰る時期が想定していたより早くなりそうということ自体は、言った方が良いような気もするが。
意地。
「早くしないと帰宅ラッシュに巻き込まれちゃうから急ごう。お母さん……」
声をかけて見ると、紀子はバッグからスマホを取り出したところだった。
「光樹から電話。ちょっと待ってね」
断りを入れながら通話にする。
道の端に、と紀子を誘導しつつ、静香は視線を道路へと向けた。スマホをいじろうにも、左手で取り出して眺めるのは面倒だと、人の行き交う姿を眺める。が、仕事関係の連絡がないかと思い直してコートのポケットからスマホを取り出した。
(メッセージ。伊久磨くん)
全文は見えないが何かメッセージがあるのを確認して、ロックを解除する。
伊久磨からメッセージがくることは、多くない。「伊久磨くんの文章はわかりにくい」と以前言ってしまったせいで、電話がメインになっている。
ここ数日の連絡の少なさがようやく気になったのかな? と思って見てみたところで。
画像。乗り換えアプリの、新幹線が東京駅に着く時間の部分のスクショ。
――乗りました。向かってます。またあとで連絡します。
横で通話をしていた紀子が「え、蜷川さんが東京に向かっている?」と光樹に聞き返しながら静香に目を向けてくる。静香のスマホを目で示して「連絡ある?」と聞いてきた。
(事後報告です)
頬が引き攣って、不自然な笑みを浮かべてしまう。
「だから、伊久磨くんのメッセージってわかりにくいんだって……」
思わず呟いていた。