My Fair Lady
――ちょい悪オヤジなんか、大っ嫌い。
(と、言っている。あの目は、間違いなく)
黒目がちな瞳の奥に炎が燃え盛っている。ツヤツヤでサラサラの黒髪も、静電気でも発しているかのようにふわっと持ち上がって見えた。
きっかけは岩清水何某のひとこと。
「良いレストランに行くなら女を磨いていかないと。レストランは腹を満たすだけの場じゃない。楽しまなきゃ」
ばちっとウインクしながら言われた明菜は、大変迷惑そうに柳眉険しくまなざしも厳しくした。
「もちろん、春さんのお店に行くわけですから、失礼のない服装でとは思っていましたが」
レストラン「海の星」は、ドレスコードこそないが、価格帯や利用目的からして「ハレ」の場である。記念日やデート利用の客でにぎわうディナータイムともなれば、普段着ではいささか心許無い。
実は予約自体はすでにこっそりと心愛経由ですませていて、「明日の夜に行く予定がある」と明菜が打ち明けてきたことで、香織と岩清水もそこに同席すると話はすぐにまとまったものの。
明菜の返答を受けて、銀髪の岩清水は豪快に笑いながら言い放ったのだ。
「失礼のないどころか、相手をその気にさせるくらいのドレスアップが必要だ」
「その気……?」
明菜の目がはっきりとした苛立ちを湛えて目の前の男を睨み返すも、とどめの一言は止められなかった。
「男が女を食事に誘うときは『今晩脱がすぞ』だ。それ以外にない。お嬢さんもう少し、お洒落を」
素材は悪くないんだから、と遠慮なく言い続ける男を前に、明菜は冷たく言い返した。
「大きなお世話ですっ。な、なんですかそれ。ぬ、ぬが」
言えていない。
香織はそこで、ようやく口を挟む。
「落ち着いて、明菜ちゃん。いまのは物の例えだよ。何もこっちの岩清水さんが明菜ちゃんをどうこうっていう意味じゃなくて」
たぶん。
心の中ですばやく言い添えてから、続ける。
「ようは岩清水、春のほうね、あっちをドキドキさせるくらい綺麗になって行って驚かしてやれって話だと思うよ」
たぶん。
(あんまり自信ないけど)
岩清水何某の、年齢不詳ながら有り余る精力のようなものを前にすると、言葉に責任を持てる気がしなくなってくる。
岩清水の名を持つ二人に共通するのは、翳りのない華やかさ。
由春は母親似の繊細さを留めた容貌をしているが、こちらはひたすら粗削りで男くさい印象だ。それでいて、奇妙に垢ぬけて洗練された雰囲気がある。
端的に言えば、これまで何人の女性を落としてきたのかわかったものではない、という。
「春さんは私にドキドキなんかしませんよ。そういう感じじゃないし。結婚もやむなくって感じだし」
明菜はといえば、挙動不審気味に視線を彷徨わせたまま、何かとんでもないことを口走っている。
(結婚? 岩清水、やっぱりそこまで明言してるの? 独占欲と嫉妬と心配の権化だな。囲い込んで一生手放す気がないって感じか)
たしか二人は、先日数年ぶりの再会を果たしただけのはず。それなのにすでに結婚という単語が出ているのが空恐ろしい。どういう会話運びでそうなるのか想像を絶する。
「結婚するの? そこもう少し詳しく。やむなく結婚ってどういう意味? 明菜ちゃんは岩清水ええと、ごめんなさい。俺あっちの岩清水を苗字で呼んでて。あなたのことはなんて呼べば?」
明菜と会話しつつ香織は銀髪の男に目を向ける。
鮮やかな笑みを浮かべながら「ヒロで」と即答された。
香織は「わかりました」と素早く返してから、再び明菜に向き直る。
「好きでしょ? 岩清水のこと」
顔を赤く染めて、明菜は一瞬瞑目する。目を見開いた後は、何か言い逃れしようと思案している空気を醸し出していたが、香織は厳然として首を振って見せた。念押しに「だめ」と口にだしてはっきりと言う。
観念したのか、明菜はようやく呟いた。
「……すき、です、けど。春さんは……」
「春さんは何? 『私のことはべつに』とか言うの? この期に及んで? プロポーズさせておいて? いや、明菜ちゃんからしたのかもしれないけど、そこはともかく。あいつが明菜ちゃんを好きじゃないなんてことないでしょ? なんでそういうどうでもいい憶測を言うの? 誰も信じないよ?」
畳みかけると、明菜は萎れた様子で「すみません」と頭を垂れた。畳の上なら土下座していたかもしれない平謝りぶりであったが、香織はつい口を滑らせてさらに言ってしまった。
「好きなんでしょ? あいつに脱がされたいって思わないの?」
「香織さん! 思っても言わないでください、そういうこと!」
今までで、一番怒られた。
が、よくよく考えてみると、爆発したのは怒りではなく惚気のような気がしなくもない。
香織ももはや退くに退けなくなりつつ言った。
「ここ大切なところだよ。『セクハラですよ』って泣いちゃうならもう聞かないけど、明菜ちゃん真剣に答えてね。あいつをその気にしたいって本当に思わないの?」
「なんの話ですかこれ……なんの……。ああもう、そんな私がどう思うかじゃなくて春さんが」
「明菜ちゃんがどう思うかが大切なんだよ。あいつの店に、あいつに会いに食事しに行くんだよ。一番綺麗な自分を見せたいと思わない?」
はう。と明菜は妙な声を上げて動きを止めてしまった。
言い返せば言い返せないこともなかったのだろうが、想像してしまったに違いない。「一番綺麗な自分」を見て、由春がどういう反応をするのか。
「私じゃなくて……。メインは心愛のお疲れ様会なんですけど……」
と、小声で言っている。その明菜をしげしげと香織は見つめた。
(どういう反応するんだろう。気になる。すっごく見てみたい)
野次馬根性120%で妄想してしまう。
ぜひとも着飾った明菜を由春の眼前に差し出してみたい。
「女の子を綺麗にするってどうすればいいんだろう。エステと美容院、あとは服を選べばいいのかな」
さすがに女性向けの施設には詳しくないが、市内にはそういう場もあるはず。自分の知り合い関係を思い浮かべて、詳しいのは誰だろう、と考えていたところで。
岩清水“ヒロ”がどこかに電話をしていた。「ああ、そう、それじゃ全部手配よろしく」おそろしく手短に用件を終えて電話を切っている。
なんだろう、と明菜と香織が顔を向けると、朗らかに言い切った。
「東京の知り合いに連絡しておいた。今から行くって。今晩のディナー。一泊してから明日はエステと美容院とドレス選び。新幹線でそのまま帰ってくれば、由春の店の予約に間に合う」
しん、と一瞬耳に痛いほど場が静まり返る。
先に我に返って噴き出したのは香織だった。
(そ、そこまでやるのか。さすが岩清水家、面白ぇ)
ただでさえ憎からず感じた明菜が、あの由春の婚約者と聞いて、本気になってしまっているらしい。
明菜はといえば、ようやく事態を飲み込んでから「まさか」と呟いている。
「今から東京に行ってその行程って……あの」
「大丈夫大丈夫、費用は全部ヒロさん持ちでしょ。明日岩清水が負ければ明菜ちゃんどうなるか知らないけど、少なくとも今晩は手を出されないんじゃな」
つかつかと歩み寄ってきた明菜に、香織は思い切り胸倉を掴まれた。
「冗談が過ぎません?」
額を打ち付けそうなほど近距離で凄まれて、一度笑いをおさめる。
「ほら、乗りかかった船だし」
「それを言うなら香織さんこそ。本気で私にそれをやれと言うなら、もちろん責任もって同行しますよね?」
「俺が!?」
(んん!? なんかすっごく巻き込まれてるぞ……!?)
無責任に楽しみ過ぎたつけがまわってきている。
しかし、考えてみれば致し方ない気もしてきた。自分は明菜に手を出す気は一切ないが、“ヒロ”はわからない。二人で東京に行って来いと送り出すのはたしかに無責任過ぎる。
かといって、止める気はさらさらない。だとすれば、行くしかない。
「わかった。とりあえず色々用件済ませて、あとで駅で会おう。俺も休み入れてこないと。遊びすぎって怒られそう」
腹をくくって言うと、明菜は虚を突かれたように目を大きく見開く。
「え、え、え、ええっ。止める方向じゃなくて、行く方向になるんですか!?」
そこでようやく香織も自分の思い違いに気付く。明菜としては、同行を強要すれば、現実的に無理と香織が言い出すのを期待していたらしい。
完全に行き違ったが、後の祭り。
香織はにっこりと笑いかけて押し切った。
「決まりだね」
* * *
まさか売り言葉に買い言葉で、“ヒロ”プロデュースの本気ドレスアップで「海の星」に食事に行くことになるとは。
明菜は一度解散したあと心愛に会ったらしいが、「絶対に由春に事前に知られたくない」と口封じをしたとのメッセージが。確かに、前日から曰くアリの岩清水“ヒロ”と女磨き東京一泊旅行(※保護者として香織同伴)という妙な状況は、説明が面倒くさすぎる。
何かあるなら香織がガードする心積もりではあるし、必要とあらば由春に連絡もするが、ひとまず様子を見ることにした。
夕方に駅のみどりの窓口で待ち合わせ。
香織が着いたときにはすでに“ヒロ”が来ていて、雑踏の中で見知った人物と向き合っていた。
背の高い、黒づくめの男。
見間違いようのない。
(伊久磨……?)
横顔が見えたが、頬が強張っていて、恐ろしく顔色が悪い。伊久磨の口が動いているか、なんと言っているかは聞こえない。
周囲のざわめきが消える。
良くないことが起きている、その直感に貫かれて息が止まった。
視線に気づいたように、伊久磨がふと顔を上げて辺りを見回す。香織に目を止めると、唇の動きだけで何か言った。
人の行き交う足音、話し声。雑多な音が甦ってきて、香織は足早に二人のいる場所に駆け寄った。
「伊久磨、何してるの?」
きわめてなんでもないように。平静を装って尋ねる。
近くで見かけてもひどい顔色のまま、伊久磨は目を逸らして重々しく言った。
「静香が怪我をしたらしい。今から会いに行く」
茫漠とした黒の瞳は光を失っていて、まるで星も月もない闇夜の暗がりのようであった。
「32 風の吹く場所」アフターSS
本当は「呉越同舟」の英訳は「Bitter enemies in the same boat」のようですが、「憎い敵同士」というほどでもないしなぁ……ということで章タイトルは「in the same boat」のみになっています。乗りかかった船だし。
そしてMy Fair Lady
なんだかよくわからない面子で東京に行くことになりました( *´艸`)