虹の架かる空(後編)
「あーーーー、最近のお前ほんっとーにだめっ。もっと命かけろよふざけてんじゃねえぞ!」
ガシャアアアアンという派手な音が、聖の怒声に続く。
昼下がり、ランチとディナーの間のアイドルタイム。
ノーゲストの「海の星」店内で、ピアノに向かっていた齋勝光樹は鍵盤の上から指を離した。
「なんか割れた?」
近くの客席で料理雑誌を読んでいた伊久磨は、顔を上げてキッチンに目を向ける。
「たぶんレードルとか鍋が散乱してるんじゃないかな。あのひとたち、さすがに刃物でやりあうことはないけど、リアルにレードルは武器だし鍋の蓋は防具だから」
「レードルってなに?」
「お玉。目盛りがついていたりして用途は他にも……」
落ち着き払って説明をする伊久磨に呆れたように、光樹は足を上げて座り直し、身体ごと振り返る。
「調理器具で戦うの? 殴り合ったら壊れるよね。御法度だと思うんだけど」
「だめなことくらいはわかっているはず、子どもじゃないんだし。ただなんというか、血が沸騰するとバイオレンスなんだよな」
伊久磨はぺらっと雑誌のページを繰る。
光樹は辟易とした様子で呟いた。
「料理人怖ぇ」
火曜日。前の週の金曜日以来、いまだ岩清水大豪現れず。
聖と由春は連日連夜試作を続けており、大喧嘩を繰り広げている。
「あんまり寝てないんだよ。営業は普通にしているし」
話している間に、キッチンから心愛が足早に出てきたのを見て、伊久磨は立ちあがった。
「佐々木さん。あそこ危ないから正面から帰った方がいいですよ」
流れ弾が当たったら大変です、と真面目な顔をして言う。
帰り支度を整えてコートを着込んだ心愛は、伊久磨のもとに歩み寄ると「ちょっと」と目配せをして、エントランスに誘った。
「明日の夜……、予約お願いしていたでしょ? あの件で」
「キャンセルはしないでくださいね。佐々木さんの最終日、きちんと送らせてください」
最近はランチタイムの洗い場やまかないを担当していた心愛だが、身体の負担を考えていよいよ産休に入る。その最終日、夜の席に二人で予約を入れていた。同席者が明菜であるというのは、伊久磨だけが知っている。由春にはサプライズ。
しかし、店全体に落ち着かない空気がある今、心愛の性格であれば身内が煩わせてはいけないとキャンセルしそうだと思って先回りをしてみた
「ううん……なんていうか。人数増やしてもらっていいかな。あと、できれば個室で」
とても言いにくそうに視線を彷徨わせて、ぼそぼそと言う。
伊久磨はぱっと表情を輝かせて「喜んで」と胸に手をあてた。
「佐々木さんのお好きな席でと思っていたんですが、個室で気兼ねなくということであれば、それも良いですね。他にはどなたが?」
はあ、と心愛は重い溜息をついてそのまま呟いた。
「明菜は変わらず。他に、香織さんと岩清水シェフ」
笑顔のまま、伊久磨は動きを止めた。
少し考えてから「経緯を……おしえてください」と言葉を絞り出した。
心愛はその反応を予期していたように、首を振る。
「さっぱりわからない。明菜から連絡があったの。人数増やして欲しい、香織さんとシェフが一緒って」
「どういう繋がりなんですか?」
なぜその組み合わせになるのかがわからない。
とても深刻な表情で、心愛は再び首を振った。
「本当にわからないの。さっき見たら連絡が入っていて、明菜と今から会うんだけど、詳しい話はまだ何もない。これ、さすがに春さんに秘密にしない方がいいと思うんだけど……」
「ですね。事情がわからないとしても、知っていると知っていないでは心構えが違いますし。すぐに」
思わずキッチンに向かいかけた伊久磨の腕を、心愛がひしっと掴んだ。
「……佐々木さん?」
「明菜が。言わないで欲しいって」
「なんでですか」
「わからない」
要領を得ない。
心愛も困惑しきりの表情をしている。
伊久磨は話の抜け穴を探そうと思考を巡らせる。
「言わないで欲しいのは、自分がいること? 同席が岩清水シェフだということ? 香織……」
考えれば考えるほど、なんでだよ、という感想にしかならない。
(お前はどうしてそこにいるんだ)
「この後明菜に会って、話を聞いて、何を言って良くて、何を伏せたいかを確認して、蜷川くんに連絡する。自分だけで抱えておくのが辛くて。ごめんね」
申し訳なさそうに言われて、伊久磨はいえいえ、と答えた。
「言ってくれて良かったです。もしかしたら、明菜さんもあのシェフに口留めされているのかもしれませんね。同席者の情報が無い予約席なんて普通です」
「黙っているのがすごく苦しいんだけど、シェフは抜き打ちで試験をしたいのかもしれないし、実際ハルさんたちもそのつもりでいるわけだから、下手に気を回さない方がいいかもしれないし」
憶測と推測の乱れうちで、伊久磨も心愛も気をもむことしかできず、話はぐるぐる回り続けている。
「お疲れ様。正面から帰る。明日よろしくお願いします、楽しみにしてる」
「はい。お気をつけて」
ドアの鍵を開けて送り出してから、伊久磨はカウンターに戻った。予約用のパソコンを開いて、心愛の予約を個室に移し、人数変更をする。
(佐々木さんの連れが明菜さんというのは、シェフも薄々勘付いている様子だったけど……)
予約情報には「友人と会食」とある。
心愛の最終日ということもあり、内緒で花屋に花束を注文したり、店側でもサプライズは進めてきていたのだが。
店は心愛に、心愛は由春に秘密を抱えている。すべてはサプライズ。
「サプライズ、面倒くせぇな……」
両方の秘密がのしかかってきた今、本音が口をついて出てしまった。
とはいえ、心愛をきちんと見送りたい気持ちは本物だ。大切な仕事仲間だから。
(ひとまず佐々木さんの連絡待ちか。もしくは香織に……)
スマホをポケットから取り出して見て、溜息。ホーム画面を表示しても、着信やメッセージはなく。
静香と連絡を取っていない。
木曜日に電話をしたときは普通だった。金曜日には電話が繋がらなかった。
土日は忙し過ぎて、日曜日の夜に「何してる? 忙しい?」とメッセージを送ったら、既読になって「YES」というスタンプが返ってきた。
それは「忙しい」という意味なのか、「電話をしても大丈夫」という意味なのか。
もともと帰宅が遅かった上に、考えているうちに一時を回ってしまって、結局電話しなかった。
なぜいつも自分からで、静香から連絡がくることはないのだろうという疑問で、月曜日も電話しないまま終わってしまった。
(意地……?)
悪い兆候だとわかっているのに、どうにもできない。
ホールに戻ると、光樹がピアノを弾く手をやめて振り返った。
「そうだ、伊久磨さんの休みって木曜日だけなんですよね。姉ちゃんと会ったりするんですか」
伊久磨はスマホをポケットに収めながら苦笑を浮かべて「難しい質問だな」と答えた。
キッチンでは相変わらず怒声が飛び交っている。騒々しい。
その馴染みのある騒々しさに身を浸していたら、いろんな憂さを忘れられる。ここは自分の居場所なのだと、安心できる。
「今はお互い仕事があるから。お姉さんも東京でまだやりたいこともあるだろうし、いきなり生活は変えられないかな」
伊久磨が考えながら言うと、光樹は「そうですよね」と呟いて、ぼやっとどこか遠くを見た。
「姉ちゃん、仕事に穴開けられないからって、うちの母さんが東京行きっぱなしになっちゃって。腕折るって大変だよな。仕事も日常生活もいきなり支障きたしちゃって」
「腕?」
なんの話だと思いながら聞き返して、伊久磨は息を止めた。背筋に悪寒。
笑うつもりはないのに、顔が笑ってしまう。頬が引き攣れて。
「……もしかして伊久磨さん、聞いてない?」
「数日、連絡がとれてない。メッセージは既読になるから、生死までは」
膝が震えている。
「蜷川さん?」
個室にいたエレナがホールに顔を出して、顔色を失った伊久磨に気付いて声をかけた。
「伊久磨さん?」
同じく、異変に気付いた光樹も名前を呼ぶ。
二人の様子を見てとったエレナは、素早くキッチンに飛び込み「シェフ!」と叫んだ。
ばたばたと走り込んできた由春は、立ち尽くしている伊久磨を見て眉を寄せ、唇を噛みしめた。
後ろから顔を見せた聖が「ああ……」と低く呻く。
その声に促されたように由春は歩き出して、伊久磨の前に立った。
「顔色おかしいぞ。まず座れ」
「はい。すみません。大丈夫です」
伊久磨の腕を掴んで、そばの客席の椅子に無理やり座らせて、膝を落としながら由春はその顔をのぞきこんだ。
「どうした」
伊久磨は目を瞑り、手で顔をおさえた。
「ごめんなさい。ええと……数日前から静香と連絡がつかなくて。たまたまだと思おうとしていたんですけど、家族と連絡がつかなかったときのこと思い出して。すみません、何を言っているかわからない」
由春は光樹に目を向け、「何があった」と鋭い口調で尋ねる。
「先週、姉ちゃんグリーンの搬入のときに什器の下敷きになって右腕折ったって。当日は入院したみたいだけど、命に別状はないから退院してる。日常生活も無理だから母さんが東京行ってて。仕事関係の代打頼んだり色々やっていたみたいだけど、都合がつかない現場は母さんと行っているらしい。一応うちの母親も華道師範だから、フラワーディスプレイは姉ちゃんがそばでイメージ伝えればできるみたいで。『銀座のレストランでほめられちゃった』って昨日写真送ってきていたけど」
光樹の声を聞きながら、伊久磨は顔を覆ったまま深い溜息をついた。
虫の知らせ。普段連絡していなかった実家に電話をしたその日、誰も出なかった。
静香に電話をして、折り返しがなかったときから、ずっとそのときの恐怖に囚われていた。
連絡するのがどんどん怖くなっていた。これは意地というより。
(恐怖が。離れ暮らしていると、知らないうちに「虹の橋」を渡って)
手の届かないどこかへ。
伊久磨に向き直った由春は、速やかに言い放った。
「伊久磨、東京に行け。今すぐ」
相内充希さま作
連作短編と言いつつ、おそらくこれまでで最長になった「32 風の吹く場所」はこれにて終了です。
第214にて70万字到達しております。ここまでお付き合いくださっている皆さまどうもありがとうございます。
感想欄で書き込みを頂いてその後の展開に見落としを加えたり、没にしようとした原稿の相談にのってもらったり、たくさん誤字報告を頂いたり、皆さまのおかげで続いています!
最近「面白いけどエタっている作品に出会うと、もっと早く出会って感想を送っていれば作者は書き続けていたのでは……」というツイートを見かけたんですけど、わかる。ありますそれ確実に。需要があるのかないのかわからない作品を書き続けていると、作者もだんだん確信がもてなくなってしんどくなりますので……。
この作品は、ふつう読者がほぼつかないヒューマンジャンル現代もの流行り要素なし(グルメだけ掠る?)ながら、幸運にも第一話をなろう内の個人企画で普段私の作品を読まない方にも読んで頂けました。そのまま読み続けてくださっている方がいたり、初期から感想を書いてくださる方がいるのでなんとか書けています。大変ありがたく。
自分がひとに助けられている実感があるからこそつくづく思うのですが、書き手に限らず読み専を自認する方もぜひ、「推しは推せるときに推せ」ということで、好きな作品にはエールを送ってみてください(私に限らず)。たぶん本当に作者のモチベーションが違ってきます( *´艸`)
ということでまだまだステラマリスも続きます! いつもありがとうございます!!