虹の架かる空(中編)
銀髪の男の瞳が、ガラスケースに収められた「椿」を見つめていることに、香織はほどなくして気付いた。
以前、オリオンもこの店に来たときに目を引かれていた。大型工芸菓子。
夭折したがゆえに「椿」を背負うこともなく、職人を名乗ることすらなかった男の作。
咲き誇るは艶やかな白椿。
雪降る銀の世界で、姿を見せぬまま香り、落ちていく。
うつくしい盛りに散りゆくのが運命と割り切っているかのように。
それが「椿」の生き様にして、終わり方なのだと。
真摯な、仰ぎ見るような横顔。
香織は声をかけようとしたが、不意に耳の奥に彼の声が甦る。
――なんだ、細く見えていたけど上背がある。健康そうだ
(……ああ、そうか)
一目見た瞬間から見抜かれていたのだ、「椿」の人間だと。健康ではなく、長くも生きられなかった今は亡きひとと、比べられていた。
「椿香助の作です。僕の父です。もしかしてお知り合いですか」
生きていれば、同じくらいの年代かもしれない。
尋ねた香織に、男は視線を戻して目元に笑みを滲ませた。思いがけないほど、瞳の光は柔らかだ。
「若かったってな。知ったのはずいぶん後だ。長生きできそうにない奴だとは思っていたが」
死という決定的な言葉を避けるかのように、さらりと紡がれる。遠くにいて、知ることもなく、葬式に参列することもなかったとか、そういう意味のことを。
「ずっと海外ですか」
重ねて問いかけてから、この風貌、この来歴と香織はようやく思い当たる。
おとなしく湯呑に口を付けている明菜にちらりと視線を流してから、男に向き直って尋ねた。
「岩清水シェフですね」
明菜が湯呑を下ろす。黒目がちな目を大きく見開いている。
男は明るい表情で片目を瞑ってから、立ち上がった。
「長居したな。さてそろそろ、あいつは準備ができたかな」
さっとブーツを履き始めた男の横に立ち、香織は明菜に素早く頷いてから男に声をかけた。
「『海の星』にお食事に行かれるのですか」
「察しがいいところは父親によく似ている」
気が急く性格なのか、ブーツを履ききらないまま一歩踏み出し、バランスを崩す。香織は咄嗟に手を出して支えた。
香辛料が混ざり合ったような複雑な香りが髪や身体から立ち上る。職業的に香水も使わないだろうから、それはそのまま本物の香辛料なのだろう。食欲を疼かせるような、刺激的な匂い。
一方、香織に腕をとられた男は、くしゃっと顔を歪めて笑った。
「匂いも同じだ。『椿屋』の餡の匂い」
「よく言われます。落ちないんです」
間近で見つめ合う形になりながら、香織は淡く微笑んだ。
身体を洗い流した後さえ、甘く薫るとはよく言われる。染みついてしまっているのだ。湛もそんな話をしていた。和嘉那に言われると、惚気。
この家にいる限り、今も昔も変わらず、まるでその道に身を捧げた証のように。
(父親に似ているとか、匂いも同じだとか)
その人の中に息づく父の影に胸が締め付けられる。
花の盛りに、落ちて死にました。白い椿の花の如く。
もっと聞きたいような、知るのが恐ろしいような。男が知る、在りし日の彼のひとを。
(父が終わりを迎えた年齢を超えてさえ、深みに引きずり込まれそうな恐れが俺の奥底にある)
「ありがとう」
香織の腕から、男がそっと身を引く。
咄嗟に声をかけようとした香織の脳裏に、由春の言葉がじわりと浸みた。
――あんまり、長くないんじゃないかと。寿命の話な。
――姿を見た瞬間、それがあの人の望みなら、『海の星』を返すべきなんじゃないかと思ってしまった。世界に名だたる料理人が最後をあの店でと望んでいるなら、自分が身を引くくらいどうってことない。
「父の……。いえ、なんでもありません」
何を言おうとしたのか、瞬間的に飛んでしまった。
遅れて思い出すが、言わなくて良かった、と自分に言い聞かせる。
父の仏壇か墓前に、などと。関係性も曖昧な相手を誘うような場ではない。
もし会いに来てくれたなら、会って行ってくださいと言いたかったけれど、ただの気休めだ。
死んだ人間にはどうあっても会えない。どれほど望んでも。
唇を噛みしめた香織の顔をのぞきこみ、男は包み込むように笑いかけた。
「俺が会いにきたのは息子の方だ。早死にしたくせに、ずいぶんと立派な跡継ぎを作っていたもんだな。おかげで『椿屋』は安泰か」
息子の方。
香織は瞑目した。
言葉の一つ一つに動揺を誘われ、心を奪われそうになる。
目を開いて見つめると、男は差し伸べかけていた手を、そっとひっこめた。それを視界の端にしっかりとみとめて、香織はゆっくりと唇に笑みを浮かべる。
目に力をこめて、浮かびそうになっていた涙を押し込めた。いたずらっぽく言った。
「頭撫でそうになりました? 思った以上にでかくて年いってたんじゃないですか、俺」
少し、くだけた口調で。
「まあ、そうだな。あいつが死んだ年齢を思えば、随分経っているし、子どもは大人になっているとは思っていたが……」
呟きのような調子で返され、香織から畳みかける。
「お子さんは?」
ぶしつけとはわかっていたが、敢えて。
男はさっと両手を開いて「残念ながら」と答える。
香織はくすっと笑った。
「継ぐものがあるというのは、俺にとっては良し悪しでした。いや、悪しにしない為にいつも戦っています。逃げないでこの場に留まって、全部受け継ぐと決めたのは俺自身なので。なまじ親父が早死にでしたからね、俺も期待されない子どもでした。あの親にしてこの子あり、長生きできないかもしれないと、先代、祖父は頭のどこかで考えていたと思います。継げとか、やれとか、何一つ言われないできました。おまけに有望な弟子までいたので、店をたたまずともやっていける見通しもあって。俺無しでも。むしろ、俺もいる、って周りに認めてもらうまでは大変でした。今でも認めていないひともいるし」
(こんな話を、したいわけじゃないんだけど、なぁ)
自分の話なんか。
そんなもの、このひとには必要ない。わかってる。ただ自分が聞いて欲しいだけ。
志、道半ばで死んだあと、残った人間が何を思い、どう生きるのか。
長くは生きられないと言われて、その通りに死んだ父が息子に残した世界を。
ガラスケースに収められた椿の大木を背に、男は寡黙に見返してくる。
口を閉ざしてしまえば本当に静かなそのひとを、香織もまた見つめた。
その顔のどこに死の影があるのか、探るように。
(どんな最後を、どこで迎えようとしているのですか。「海の星」で、シェフとしてですか。本当に?)
「『海の星』にはいつ行かれるんですか。お一人で?」
茶化すように軽く尋ねると、沈黙が壊れる。
ハッと鼻で笑い飛ばされた。
「連れもいないのかと、聞こえたぞ。そうだな、どうせなら楽しい食事にしたい」
「彼女はどうです? ちょうど『海の星』に予約を入れたいみたいでしたけど」
立ち上がって靴を履いていた明菜に、視線を向けた。
おそらく、一緒に男を見送るつもりで待機していたのだろうが、不意に話の俎上にのせられて「えっ」と小さく悲鳴を上げる。
「おっと、確かにこちらのお嬢さんはかなり俺好みだが、お誘い申し上げて良いものだろうか」
控え目に言っているわりに、俄然乗り気になった男に、明菜は「いえいえそれには及びませんで」と慌てて言っていたが、香織は黙殺を決め込んだ。
「ぜひ。岩清水の……ええと、『海の星の岩清水』のやる気が全然違います。何せ彼女はあいつの婚約者にして、未来の『海の星』のマダムです。これ以上ない連れです」
「香織さんっ」
明菜は、男と由春の関係がわかっていないなりに、首を突っ込んだらまずいと思っているのだろう。その判断及び警戒心は非常に正しい。
しかし男はいまや明菜に抱いた興味を隠す気は無いらしいし、香織もまた何も撤回する気はなかった。
「明菜ちゃん。あいつに本気を出させるのも、明菜ちゃんの仕事のひとつだよ」
「何言ってるんですか!? 私がいようがいまいが、春さんはいつだって本気で完璧で……」
わかってないない、と香織は首を振った。
「あいつも失敗するし、落ち込むし、間違える。気が弱くなるときもあるし、判断ミスもする。完璧には程遠い普通の男だって。でも、そういう敗北が一切許されない場面も人生にある。それが今。どうするの明菜ちゃん。あいつが一番助けが必要なときに見捨てるの?」
「なんだろう。言いくるめられている気がする。絶対どこかに反論の隙があるはずなのに、押し切られそうになっている」
納得いかないなりに一度引いた明菜を見て、香織は実に爽やかに笑った。
「逃げ場も言い訳も全部潰してやんなよ。じゃないと明菜ちゃん、『海の星』がなくなっちゃうんだ。就職先がなくなるのは困るでしょ?」
「困ります」
目覚ましい反応だった。恋人云々よりもやはり明菜にはこの方が手っ取り早いらしい。
「そんなわけで、岩清水シェフ、提案は以上です」
鮮やかな手際を見せつけて香織が笑顔で言うと、男も笑い声をあげて言った。
「事情はわかった。そういうことなら俺としても彼女を逃す手はない。お嬢さん、ぜひ一緒に」
「……大変申し上げにくいのですが、念のため事前に釘を刺させて頂きます。どこの誰ともわからない方に万が一にもごちそうになるわけにもいきませんので。ぜひとも会計は折半にして頂きたく」
んー、と香織は思案するような声をもらしてから結局口を挟んだ。
「明菜ちゃん、死ぬほど面倒なこと言っている。このひとが明菜ちゃんみたいな若い女の子からお金を受け取るわけがないし、岩清水も受け取る気はないだろうし。でも気になるなら俺が払っちゃおうか」
「やめてください!! 香織さんになんの関係があるんですか!?」
正しい。しかしとても冷たい。
完全なる拒絶をされた香織は「観劇料的な……」と呟くも、「だったら自分も行けばいいんじゃないですか」と言い返されて終わり。
噴き出した男は「そうだ、来るか? 美人を前に食事は実に楽しい」と嘯いていた。