虹の架かる空(前編)
店舗に通じる暖簾を手で軽くかきわけて、椿香織は店内を見渡した。
長い黒髪をさらりと肩から滑らせて、お辞儀している人物が視界に入る。
「明菜ちゃん。いらっしゃい」
真っ白の作務衣姿のまま、香織はカウンターの内側を通り過ぎ、入口近くに立っていた花坂明菜の元に歩み寄った。
「こんにちは。お忙しいかと思ったんですけど。水島さんが、声かけてくれるって……」
明菜がレジの前に立つ緑の三角巾をした店員に視線を送る。
眼鏡をかけたふくよかな女性で、にこにこと笑いながら「ほら、懐かしいひとが来ているって言ったでしょ?」と香織に向かって言った。
数年前、明菜がこの近所で「ボナペティ」という由春の店で働いていたときからの、顔見知り。それ以来と思っているらしい女性の態度に、香織は破顔した。
「懐かしいけど、実は先週再会したばっかりなんですよ。ね、明菜ちゃん。どうしたの、今日はお休み? 山を下りてきたんだ?」
お茶をご用意しますよ、と言っている店員に「ありがとう」と香織は答えながら「時間あるなら休んで行きなよ」と奥の座敷に明菜を導いた。
「実はうちのオーナーがぎっくり腰になってしまって……。やむを得ず少しの間休業になりました。もともとお休み頂こうかと思っていたんですけど、この機会に一週間くらい実家に帰ろうかなって」
香織は靴を脱いで一段高くなった板敷きに上がり、座敷に続く襖を開け、灯りと灯油ストーブをてきぱきとつける。
「そうなの。岩清水には連絡してる?」
寒くてごめんね、と言いながら畳に座布団を置き、明菜に座るように促した。
「実はまだ。連絡ってタイミングが難しいです。用事があるわけでもないですし……」
明菜の正面に、座布団を敷くことなく胡坐をかいて座った香織は「ええ?」と強い調子で聞き返した。
「用事なんかなくても『声が聞きたい』だけで良いんだよ。恋人なんだよね?」
「あ、あの……」
思いがけない責めにあったとばかりに、明菜は頬を染めて俯いてしまう。
すぐに、そんな場合ではないと思い直したのか、目元を朱に染めたまま顔を上げた。
「忙しいと思いますし、ご迷惑をかけるわけには」
「何言ってんの? あいつ普通の男だし、好きな相手から電話もらったら絶対嬉しいって。それに……ほら。あいつだって、落ち込むことあるからさ。そういうときに、声だけでも聞けたら全然違うよ」
どことなく歯切れ悪く付け足して、香織は曖昧に微笑む。
固まったまま耳を傾けていた明菜は、「春さんが……」と呟いてから、不意に香織の瞳をまっすぐに見つめた。
「香織さんも……、そうなんですか?」
「ん?」
流れを掴み損ねた香織が首を傾げる。明菜は居住まいを正してしっかりとした声で言った。
「好きな相手からの電話は嬉しいですか?」
どなたかからの電話を、待っているのですか。
言葉にされなかった部分を感じ取って、香織は苦笑を浮かべた。
そのまま明菜の目を見つめ返す。少し見つめ合った後、笑ったまま、結局白状した。
「嬉しいに決まってる。たった一言でも、嬉し過ぎて寝られなくなるよ。好きってそういうことだから」
明菜は畳に手をついて身を乗り出した。
「そういう相手がいるなら、待つんじゃなくて、自分から……」
「出来るなら、してる」
香織の囁きのような返答に、明菜はさらに何かを言おうとして唇を開く。
その瞬間、からり、と通りに面した引き戸が開く音がした。
香織が反射的に立ち上がる。
「いらっしゃいませ……」
語尾に戸惑いが滲んだ。
見事な銀髪に、よく日に焼けた褐色の肌。体格が良く、そこにいるだけで圧迫感が凄まじい男。濃紺のコートを身に着け、足元には黒革のブーツ。
粗削りで男くさい容貌をしているが、野卑な印象は一切なく妙に洗練されている。
香織を見ると、顔の皺を深めてにやりと笑った。
「ここの職人か。えらい美形だな。人形かと思った」
香織はすうっと目を細める。業務用の笑みは頬にのせたまま、穏やかに言った。
「何かお探しですか?」
容姿の件には一切触れずに切り返す。
「そうだな。日本数年ぶりで、いまの和菓子ってどんな感じなのか見に来た。この店のスペシャリテを」
張りのある声が、びりびりと空気を震わせる。
香織は、明菜を振り返ることなく小さな声で「同業者」と呟いてから、板敷きを下りて靴を履いた。
「アレルギーですとか、召し上がれないものはございますか」
男の側まで歩み寄る。男は、グレーがかった目を大きく見開いて、顔全体で笑いかけた。
「なんだ、細く見えていたけど上背がある。健康そうだ」
香織もまたにこりと愛想よく微笑みかけた。
「うち和菓子屋なんで。菓子の話をしませんか?」
俺の話はいいから。
言外の拒否は思った以上にスムーズに伝わったようで、男は「店内で食べて行けるのか? 相席オーケー?」とハンズアップしながら言った。
笑顔のまま香織は拒否しようとしたが、明菜が気を利かせて腰を浮かせていた。
「構いません、どうぞ。むしろ私がどけます」
「いいよ、そのままで」
男と香織の声がぴたりと重なる。香織は片眉を跳ね上げたが、男はいかにも楽しそうに噴き出した。
「ありがとうお嬢さん」
意外なくらい俊敏な動作で男は店内を横切り、板敷きの前で靴を脱ぐ。「和式だねえ」と呟きながら。
目を逸らさぬまま注視していた香織は、お盆に湯呑を二つのせて現れた女性店員からお盆を受け取り、有無をいわせぬ強さで告げた。
「『虹』を。二人分、皿は『和かな』でお願いします」
明菜の向かいに腰を下ろして胡坐をかいていた男が、視線を流してくる。それを受けて、香織は素早く歩み寄った。
「菓子は今ご用意しています。ストーブつけたばかりで冷えていてすみません。座布団いま……」
言いながら目を見開く。すでに男は座布団に座っていた。
「さっき出してもらったから、場所はわかっていたので。勝手にごめんなさい」
どうやら香織と男が立ち話をしている間に、明菜が用意していたらしい。その素早さに香織は苦笑を漏らした。
「ありがとう。頼りになるね」
お茶は明菜、男の順番で出してから香織は正座して改めて男を見た。
「どこか遠くから?」
「そうだね。ちょっと顔見たい奴がいて。そうだ、アレルギーはない。さすがだね、最近は和菓子屋でもそこまで聞くか」
話している間に、粉ひきのような凹凸のある雪白の皿に、手毬型の練り切りがのせられて届いた。
ベースは白で、側面に黄色、薄紅、紫、緑とグラデーションが浮かび上がっている。
「綺麗ですね」
明菜が小さな声で呟いた。
男は無言でじっと見つめていたが、やがて目を瞑り、嘆息した。
「綺麗すぎる。食べられないね」
その表情の変化を見つめていた香織は、低い声で鋭く尋ねる。
「本当に食べたく無さそうですね。理由をお伺いをしてもよろしいですか」
香織に視線を流して、男はよく通る明瞭な声で答えた。
「料理を表現のひとつとみなし、芸術品に近づけること、それ自体は否定しない。だが、芸術であってはならない。この菓子はもう、食べ物じゃない。芸術家の手慰みみたいなものだ。もちろん、詩人や画家は自分自身の感情や気分を作品にさらけ出しても良い。人生の悲哀を、社会への憤りを、個人的な悩みを。己の秘めたる狂気すら」
そこまで言って、男は香織の方へと身体ごと向き直る。
「だが食べ物でそれをすることは許されない。ひとが喜びとともに口にし、血となり肉となり活力の源となるそれは、常にポジティブな創造品でなければならない。もちろん料理人に思想や哲学はあっても良い。むしろなければやっていけない。ただし、個人のネガティブな感情はすべて脇に置いて、誠心誠意食材を向き合うこと、それだけは絶対だ。この菓子が君のスペシャリテなのだとすれば、あまりに感傷的過ぎる。まるで悲歌のように」
その猛々しさすら漂わせた風貌には似合わず、声は穏やかで優しい。説明は、まるで子どもに言い聞かせるように丁寧だ。
男は香織を見つめて今一度言った。
「これは店に出しているのか」
香織は男の前でゆっくりと頭を垂れた。
うつくしく正座したまま両膝に手を置き、神妙な声で告げる。
「ありがとうございます。少し考え直してみようと思います」
やりとりを見守っていた明菜は、皿に添えられていた黒文字で練り切りを半分に切り分けて口に運び、ぱくりと食べる。
「味は凄くいいです。甘さが上品。お客様も、まず食べてみたら良いと思います」
水を向けられた男は、何? というように首を傾げるが、明菜は手を伸ばして男の前に置かれた皿を男の方に押した。
「綺麗すぎて驚いて御託を並べているみたいですけど、食べ物は食べてこそです。味わってみてください。きちんと、食べる方のことを思って作られているのがわかります。お客様は、何か、見ただけでわかってしまう達人なのかもしれませんが、いつもそんなことを言って若い芽を潰しているんですか?」
ぼんやりと聞いていた香織は、はっと我に返ったように「明菜ちゃんっ」と名を呼んだ。
一方の明菜は、泰然として男をまっすぐに見つめている。
男は明菜の視線を受けて、頷いた。
「なるほど。それはそうだ。スペシャリテを出せと言っておいて、食べずに文句だけを言っていたら、それは確かにものすごく嫌な客だ。お嬢さんの言う通りだ。店主、すまなかった」
香織に向き直り、頭を下げる。
「謝って頂く必要はありません。僕自身すごく納得するところがありました。自分の菓子作りを振り返る機会を頂いたような……。申し遅れました、店主の椿です」
香織は香織で再び深々と頭を下げる。名乗る前に店主と呼ばれたが、胸元に椿香織の刺繍が入っているせいかと推測しながら。
男は一口で練り切りを食べてしまってから、飲み込んで呟いた。
「うん。見た目通りの繊細な味だ」
香織は額をおさえそうになったが、明菜がすかさず口を挟む。
「伸びしろありますよね?」
押し切られた形になった男は、おかしそうに噴き出して、笑い声をあげた。