自分以外にはなれない
岩清水大豪からその後連絡はなく、いつ現れるとも知れず。
店は通常通りの営業を続けていたが。
日曜日、ディナータイム。閉店三十分前。
店内には異様な空気が色濃く漂っていた。
とあるカップルの席で、会計上、大きなミスがあった。
担当したエレナは客から罵声を浴びせかけられ、責任者である由春も、他の客にも聞こえる音量で叱り飛ばされた。
なんとか謝り倒して場を収めたものの、まだ店全体がぎくしゃくとしている。
エントランスのカウンターで、顔色を失い、表情もなくなってしまったエレナに、伊久磨は「個室の片付け……を、しながら少し休んでください」と声をかけた。
「そういうわけには。まだ他にお客様も。仕事も」
反射的に言い返してきたエレナに対し、伊久磨は敢えて厳しい口調で断言した。
「笑えていません。騒ぎがあったこと自体は他のお客様もご存知です。藤崎さんがそういう表情でいる限り、気になる方はいると思います。自分のミスだから自分でリカバリしたいと思うかもしれませんが、少なくとも今日は無理です。少し頭と心を休めた方がいいです」
普段ならキッチンに下がっているはずの由春が、ホールで客と談笑している。
流れでカードを受け取って会計を受けているのを見て、思わず伊久磨は(シェフにやらせるわけには)と視線を送ってしまったが、(いいから、藤崎)と目で言い返される。
ごく軽く、背中に手をあてて歩くように促した。
カウンターに向かう由春とすれ違いながら、ホールを通り抜け、奥の個室へ。
ドアを開けて先に中へと通し、躊躇いながら自分も入って後ろ手でドアを閉める。
歩き出したエレナは、食事用のテーブルに手をかけたところで、膝をついて崩れ落ちてしまった。
「藤崎さん」
足早に駆け寄って、そばの床に片膝をつく。背中が震えている。苦し気な息が聞こえて、伊久磨は肩にそっと手をのせた。
「過呼吸になりますよ。ゆっくり呼吸を整えてください」
う、ううう、と呻きが聞こえる。自分でもどうにもならない感情の奔流に苦しめられているようだ。
「立てますか? ソファまでいきましょう。無理なら手を貸しますので、掴まってください」
伊久磨が声をかけると、エレナはのろのろと立ち上がった。そこで動きを止めてしまったので、伊久磨から手を取ってソファまで導く。
「座って。今日はもう仕事はいいですから、何か飲み物でもお持ちします」
キッチンに戻ろうとすると、離したばかりの手を両手で掴まれた。すがるように。
振り払うことができずに固まっていると、ゆっくり息を整えたエレナが、恐縮し切った様子で言った。
「あの……。いま、言葉が出なくて」
涙に濡れた声。震えている指。強引に引き留めたのを後悔したように、手を引っ込める。
伊久磨は、こっそりと吐息してから、大股で近寄り、ソファに腰を落とした。
触れ合わないように反対側の肘掛に寄りかかり、足を組む。
「わかりました。俺でよければ、落ち着くまでいます」
「すみません。忙しい時間帯なのに」
「大丈夫です。気になるようでしたら、藤崎さんのタイムカード切っておきますから。家に自力で帰れるくらいまで立ち直ってください」
すらっと言ってから、視線を流す。憔悴しきった横顔。涙を堪えているのかもしれないが、喉がひくっと苦しそうに鳴っている。
伊久磨は視線を遠くへ投げて、穏やかに言った。
「遠慮しないで泣いていいですよ。藤崎さんが落ち込んでいるのはみんな知っていますから、俺が泣かせたという誤解は生まれないはずです。どうぞ」
「ごめんなさい。お店にもシェフにも申し訳ないことをしてしまいました」
今にも泣きそうな表情。伊久磨は目を細めた。
「あれは不可抗力とまでは言いませんけど、仕方ない面もあると思います。経験と割り切るしかないです」
エレナの会計ミス。
男女のカップル客で、男性からの会計を受けたのが発端だった。
予約名は女性であり、男性のバースデーの席だったので不審に思ったエレナが、一度は受け取りを断り「ご予約者様に確認してから」と言ったのを、強引に押し切られた形での会計。「今日は自分の誕生日だから、彼女が予約を入れて段取りをしてくれただけで、自分が払うのは彼女も了承済みだから」と。
ちょうど女性が化粧室に席を立ったところで、それならば彼女がいる前で会計を申し出てくれたらとエレナは再度断ったが「手間取らせるな」と叱られ、カードを切った。
そこに彼女が戻ってきて「誕生日の人間から支払いを受け取るなんて、こんな店あり得ない」とホール中に響く声で怒鳴りつけ、由春まで出てきて平身低頭詫びることになったのだ。
その間、男性は「自分が店員に無理言って」などと彼女を宥めることは一切なく「女に払ってもらうつもりはなかったから」と悪びれなく言って車を出しに行ってしまった、という。
「店側を騙して、自分たちの行き違いを話し合いもせず、ひたすら罵倒なんて……」
エレナが小さな声で呟いたものの、伊久磨は「仕方ないです」ともう一度言った。
「ご予約者様は面目を潰されたわけです。会計をし直そうにも、金額を男性に知られた後ですし。ご予約者様の信頼を裏切ったのは店側の落ち度であって、そこを責められたらやはり謝るしかありません。シェフから明日改めて電話を入れて、必要であればご自宅まで謝罪に出向くと思います」
ですよね……、と本当に消え入りそうに言って、エレナは項垂れてしまった。
それから、ぽつ、ぽつと話した。
「なんで騙すんだろう、って思ったんですけど」
「そこはもう、こちらも自衛するしかありません。ひと昔前の接客マニュアルだと『男性からスマートに頂くように』なんて書いてあったりしますけど、今は考え方として通用しないと思います。基本はご予約者様に確認です。会社同士の接待や、御両家のお顔合わせなど、会計が難しい席はたくさんあります。お客様の言う通りに会計を頂いただけでも、相手側から怒られること、実際あります。俺もありますし」
伊久磨がこれまでの自分の経験を交えて話すと、耳を傾けていたエレナは溜息をついてから話し始めた。
「それは、わかります。私は以前の仕事が秘書なので、レストランに予約を入れる業務もありましたが……、こちらの社長がホストで接待の席なのに、相手側に支払いをされてしまったことが実際にありました。支払い自体は、予約の際に請求書を回してもらえるようにお願いするので、当日は誰もしないはずなんです。ですが相手側に不審な動きがあったから、念のため店に確認しておいてと翌日ボスに言われて、まさかと思って電話したら『支払いを頂いています』と。その時は『うちがホストとして予約していて、売掛でお願いしているのに、なぜ支払いを頂いたんですか?』と、私すごく怒りました……。レストラン側の言い分は、ゲストの会社の方から『実は自分たちがホストなんですか、ゲストを立てるためにゲストの名前で予約をしただけです。支払いはこちらがすることになっています』と言われたと。そんな馬鹿なと思って相手の会社の秘書に電話したら『社長が借りを作りたくない性格ですので』と言われて……あの」
話しているうちに頬を紅潮させていたエレナは、我に返ったように伊久磨を見た。
「いまの話、わかります?」
腕を組んで聞いていた伊久磨は、横目で見ながら頷いてみせた。
「わかると思います。つまり、接待の相手側が接待を受ける気がなくて、出し抜かれたわけですね。それで藤崎さんのボスが面目潰されたと」
「そうです。ボスは秘書が仕事をしていないと怒りますし、私はレストランに怒りました。『予約名とは違う相手から、指定の支払い方法とも違うのに、なぜ受け取ったのですか?』と。もしボスが確認電話を入れろと言わなければ、発覚はずいぶん遅かったでしょう。請求書は大体月末締めなどで送られてきますし、違う部署で処理されます。金額の確認をすることはありますが、毎日のように接待はあるので『あの時の請求書が無い』とすぐに気付くかどうか……。騙されたレストラン側が悪いのだと、私もすごく怒りまして、そうですね。レストランの方が会社に謝罪に来ました……」
思い出したように、エレナは両手で顔を覆った。
黙って聞いていた伊久磨は「なるほど」と相槌を打った。
「藤崎さんは、今日の出来事と、過去の自分の行動で二重に苦しんでいる、と」
「あの時私本当にレストラン側にものすごく怒ったんです。……全然、現場を知らなかったと思います。今思い出しても申し訳ないですし、あ、もちろんシェフや皆さんにも申し訳なくて」
全方位申し訳ないです、と言い添えて小さくなるエレナを見て、伊久磨はくすっと笑った。
「人間って、結局自分以外にはなれないじゃないですか。想像力にも限界はありますし。実際、その立場にならなければわからないこともあると思います。わかったことを良しとして、次に生かせばいいんじゃないですか」
「そうなんですが……。考えてみると、私取り乱し過ぎました……」
(今度は自己嫌悪だな)
伊久磨は頃合いと見て、さっと立ち上がった。
「話したから落ち着いただけで、あの時受けた痛みや辛さは本物だと思います。無理しないでください。シェフも慣れてますから。以前俺がたくさん迷惑をかけました」
「謝ってきます」
我に返ったようにエレナも立ち上がる。
伊久磨を見上げて、表情が固いなりに笑みを浮かべた。
「蜷川さんと話すと落ち着きますね。静香さんといつもそんな感じで話しているんですか?」
笑ってごまかそうか、それとも何か惚気てみようか。
一瞬悩んでから、伊久磨はふと表情をくもらせた。
(……あれから折り返しがない)
「蜷川さん?」
名を呼ばれて、何事もなかったように笑いかける。
静香は、毎日電話をする習慣をやめたいだけなのかもしれない。
自分も甘えてはいられない、と言い聞かせ。
「なんでもないです。大丈夫そうなら戻りましょう」