二人の時間
今は行かない方がいいよ、とオリオンに声をかけられて、急遽台所飲みとなった。
「かおりも今、何か悩んでいる感じ。二人で話すのが良さそう」
オリオンにおっとり言われて、伊久磨は軽く首を傾げる。
何かあっただろうか、と最近の会話を頭の中でさらった。
心当たりは無数にあって、絞るのが難しい。
居間では由春と香織が話し込んでいる。
出来上がった料理のいくつかをエレナや伊久磨で代わる代わる運んだものの、何かと理由をつけて足早に立ち去ってきた。
台所では聖がてきぱきとダイニングテーブルに皿を並べていた。会話にたまに口を挟みつつ、伊久磨はグラスを傾ける。
やがて、スマホを手に台所を抜け出した。
(静香に電話を)
今日も今日とて竜巻みたいな来訪者の話を。
毎日、話すことが尽きない。
仕事内容に、去年・一昨年と大きな変化があったとは思えない。もちろん周りのスタッフの入れ替わりはあるが、毎日何かしらあったのだ。
その頃は、誰にも報せることなどなく、一日を終えていた。そのことに疑問を感じることもなかったし、話し相手が欲しいと思ったこともなかったけど。
今ではごく自然に、習慣になってしまっている。
もし静香と一緒に暮らすようになったら、仕事帰りはまっすぐに家に帰り、二人の時間こそを大切にするのだろうか。
湛は、結婚と妻の妊娠が同時だったこともあり、家庭を第一にしていることだろう。椿邸を出てから、この家に足を踏み入れたことなど数えるほどで、香織と飲むことに至ってはほぼ無いに違いない。
今後由春や自分が結婚することになれば、それぞれが家庭を向くことになり、こんな風に集まって話し込むことはあまりなくなりそうだと思う。
少し寂しい。
静香と生きていくということは、それを受け入れること。何もかも欲しがるべきではない。
実際に、湛ほどうまく切り替えられるかはわからないが、妊娠などがあれば間違いなく意識は変わる気がする。
(妊娠……こども)
静香はどう考えているのだろう。
廊下を歩きつつ、場所を選びかねて玄関に向かい、スマホを操作した。
コール音が鳴り続ける。
いつもより長く、何回も。
特別遅い時間ではないはずだが、出ない。
(お風呂……とか。折り返しくるかもしれないし、少し待つか)
玄関は冷え切っていて、上着がないと寒い。
立ち尽くしたまま、伊久磨はしばらく待ち続けた。電話は鳴らなかった。
* * *
「しけたツラしてんなぁ、と思ったのよね。何、あいつらに言えない悩みでもあるの? もしかして部外者の俺になら言えちゃう?」
お互い、気を遣うのが面倒とばかりにビールの缶を傾けながら、炬燵で向き合う二人。
少しの雑談の後、口火を切った香織に対し、由春は曖昧に微笑んでから吐息した。
「『海の星』の建物のオーナーが帰国した。界隈ではそれなりに名の通った料理人だが、一般人だ。動向が大きなニュースになるわけでもないし、本人と連絡をとらない限り、近況ははっきりわからない。ただ、身内だから少しだけ噂は聞いていた」
「……噂?」
遠まわしな言い方をする。ぴくりと眉を跳ね上げた香織に対し、由春は一度瞑目する。
少し間を置いてから、目を見開いた。
「あんまり、長くないんじゃないかと。寿命の話な。どんなに健康で頑丈でも病に侵されることはあるから、そんなに驚いてはいない。もっとも、真偽については、又聞きだからなんとも言えないが。今日海外のニュースをざっと見た限り、降るほどある仕事を全部断っての帰国なのは間違いなさそうだ。……死期が迫ったときに、故郷に帰るようなひととは思わなかった」
そこまで言って、缶ビールをひとくち。
眉を寄せて、絞り出すように呟く。
「姿を見た瞬間、それがあの人の望みなら、『海の星』を返すべきなんじゃないかと思ってしまった。世界に名だたる料理人が最後をあの店でと望んでいるなら、自分が身を引くくらいどうってことない。……俺だけの問題ならな」
香織は思い切り首肯して、「わかる」と強い口調で言った。
「個人戦なら進むも退くも自分次第だ。だけど今のお前は従業員を抱えている。お前が店を辞めるとか、人に譲り渡すというのは、そのまま従業員の生活や人生に直結してしまう。とはいえ、無闇に他人に相談したり意見を聞いたりも……。結局、トップが決断するときってのは、孤独だ。『船頭多くして船山に上る』っていうか、周りのああしろこうしろを聞いていたら何もできないし、時機を逃す」
実感を込めた口調に、由春は面白そうに瞳を輝かせ「何か覚えが?」と素早く言った。香織は面倒くさそうに手を振って「俺に興味持たなくていいから、そっちの話を続けてよ」と切り返す。
由春は、皿に取り分けた緑色の手打ちパスタをさっさと三口程度で食べてから、ビールをあおった。
「『海の星』に関わる諸々を、正式な手続きで全部自分のものにしておかなかったのは俺のミスだ。持ち主との口約束で『お前のものだ』と言われていたのを『書類上確定してくれ』と言うのを遠慮してしまったんだ。今なら、一番最初にそこを固めるが。土地や建物が使えなくなるのは死活問題だからな」
適当にセロリの辛子和えをつまんでいた香織は、意外そうに呟いた。
「岩清水にもそんな甘いところあったんだ。海外を経験しているし、その辺シビアだと思っていた」
「それはそうなんだが、相手が『身内』で『同業者』なのが大きかったかな。感覚的にまずいとは思っていたけど、徒弟制度の名残のようなもので、強く出られなかった。『所詮借り物』『自分の手柄じゃない』ことが気になっていて、敢えて執着せずいつでも手放せるようにと思っていたのもある。いざという時は、自分の力で一から店をやってもいいと思っていた。一年前なら……」
由春の手元を見ながら、香織は「それまだ入っている?」と聞いた。缶を置いた動作が軽い。「無い」と答えがあると、黙って立ち上がり、襖を開けて廊下に出る。ワインとグラスを拾い上げて戻って来た。どうせ誰かが置いていくだろうと踏んでいた通りだと、確信に満ちた仕草で。
赤ワインを注いでから、香織はしみじみと言う。
「増えたからね、従業員。明菜ちゃんも呼んだわけだし」
「ああ。幸尚はいずれ外れると思っていたにせよ、思った以上に今は体制が定まっていない。藤崎に関してもできればきちんと育てたいと……」
黙って耳を傾けていた香織が、はっとしたようにグラスを天板に置いた。
「それ! お前さ、人を育てて来たわけだよな? 伊久磨だって全然未経験からあそこまできたわけだし。『人を育てる』って、どこで経験したの?」
「なんだ藪から棒に。お前誰かを育てたいのか?」
即座に聞き返されて、香織は押し黙る。
その反応を見て、由春は鷹揚に頷いてみせた。
「新しくひとを取るのか。何年振りだ? 最近なかったんじゃないか」
「実はね、『椿屋』ずーっとなかったの。古参の職人さんとパートさんが特に辞める理由もないから続けていて、湛さんも加わったから」
「それも凄いよな。飲食業でひとの出入りがほとんどないって、どれだけ不満の出ない経営をしているんだ。そこ詳しく」
「は?」
からかわれたのかと、香織は剣呑な調子で聞き返す。
一方の由春はといえば、まったくおかしなことをいったつもりもなかったようで、きょとんとしていた。
それを見て、香織は考え考え答えた。
「特に事業を縮小しないで済む程度に、百貨店や駅地下の専門店街の出店はしてきたけど、無意味に拡大はしていないかな。リスクが大きいし、従業員の負担もある。あとは昔からの顧客への顔つなぎと、そういう方から新しいお客様の紹介を受けたり。ひと昔前なら結婚の圧力も凄かったんだろうけど、適当に流している。プライベートまで懇意にするわけじゃない。たまに飲み会やゴルフには付き合ってる」
「お前、さすがに旧家の若様だけあって世渡り上手いな」
さらに感心した様子で言われて、香織は目を瞬いた。
「何言ってんの? そんなの普通だよ。それより俺は『人を育てる』なんてしたことがないから今はそれ……どこに募集かけてもいいかわからないし。どっかに良い人材いないかな。誰か知らない?」
「いたら『海の星』でもらう。よそにはやらない。和菓子なんて流行らないからやめておけって言う」
「喧嘩か。買うぞ」
顔を見合わせて噴き出し、どちらからともなく目を逸らす。
やがて、由春が溜息とともに呟いた。
「自分ひとりで、どこまで何ができるかをやってみたい気持ちもあるんだ。だけど今は引き受けた人間の人生もある。すべて面倒見切れるわけではないが、せめて独り立ちできるところまでは」
グラスを傾けて、しずかに語る由春を見ながら、香織は滲むような笑みを浮かべた。
「真田ってさ。新卒でお前のところに来て、お前の背中を必死に追いかけて、どんどん腕を上げて、巣立っていって。ある意味お前にとって一番最初の『成功例』なんじゃないの? この先、人を育てるときに絶対に考えるでしょ。『せめて幸尚くらいになってくれたら、次の職場を見つけてやれるし、手放しても心配しないで済む』って。あれは実際拾いものだったね。根性も才能もあって、たぶん『海の星』じゃなくても絶対に頭角を現しただろうけど、あそこが始まりの場所だっていうのがあいつの経歴に刻まれている。あいつが売れてどこかで取材を受けたら、必ず『海の星』の名前が出るだろ。お前、得したな」
由春は言われたことをよくよく考えているような顔をしていたが、やがてふっと笑いとともに息を吐きだした。
「そうだな。あいつのおかげで今の俺があるとも言える。あいつすごくいい奴だったよ」
香織は呆れたようにグラスを傾けて、皮肉っぽく笑った。
「死んだみたいに言わないでよ。そのうちまた顔くらい出すだろうし、帰る場所は守っておきなよ」