恵まれている、ということ
――今日、そっちに行く。
仕事が終わる前にあらかじめ香織にメッセージを入れ、伊久磨は「海の星」の面々とともに椿邸へと向かった。
――なんで?
と、返ってきていたメッセージには、考えてから「反省会」と送っている。以降返事はなかったが、香織は寝ないで待っていた。
「揃いも揃ってどういうことなの」
来客があると玄関まで出迎えてしまう香織の律儀さはいつものこと。由春とオリオンは辛うじて客の範疇とはいえ、伊久磨は元居候で、聖とエレナは現居候。椿邸の住人で鍵も持っているので待つ必要などないのに。
「人数たくさんだし、社内的な話だから飲み屋もどうかなってことで。椿邸で」
「俺は『海の星』関係ないよな?」
伊久磨の説明に対し、香織がもっともな疑問を呈した。
それに対し、靴を脱いでさっさと上がり込んだ由春が、通りすがり様眼鏡越しに視線を流して笑いかける。
「椿邸、『海の星』の社員寮みたいなものだろ」
「おいふざけんな」
香織は由春に大股に歩み寄る。文句をつけつつ、肩を並べて居間方向へ。オリオンも続いた。
「蜷川」
勝手知ったる台所へと聖が向かい、スーパーで調達してきた荷物を持った伊久磨も後を追う。全員、仕事終わりでまだ何も食べていないので、聖が何か作るとのこと。エレナは「部屋に荷物置いてきます」と廊下の曲がり角で別れた。
台所は灯りとファンヒーターが点いていて、香織らしい、と伊久磨は感謝する。
手を洗い、買い物袋からワインを取り出してグラスを並べた。手際良く準備していたところで、聖がぼそりと言った。
「どうしたもんか。大豪シェフ」
「あー……、見事なちょい悪オヤジ」
歯切れの悪い調子で言いつつ、伊久磨は流しの前に立つ聖に顔を向ける。青い目を細めて見返された。
「あれは『ちょい』なのか」
「お店のお客様にもあのタイプはいると思うんですけど、次元が違い過ぎて。迫力だけで言えば『鳳凰会』のボスよりもやばい。ええと、893です」
咄嗟に思いつかずに伊久磨がそう言うと、聖は沈痛な面持ちになった。
「たしかに、料理人の中には紙一重の連中もいるな。料理の腕とか皿の繊細さとは無関係に、一定数いる。特にあの年代は、殴る蹴る恫喝するがわりと当たり前の時代を生きているから、テンションが違う。常に命がけで、全身全霊捧げている感じ。他人として見てもヤバいけど、由春は身内だしな」
言いにくそうに言って、溜息をつく。
朝、突如として「海の星」に現れた大豪は、昼になって「用事ができたからディナーはまた今度!」と電話をしてきて、夜は姿を見せなかった。
店に対して予約を入れる・キャンセル連絡は速やかにするという最低限のマナーは守られていたが、ひっかきまわされた感は否めない。
(閉店まで、気が変わったって言って飛び込んでくるんじゃないかと胃が痛かったし)
「岩清水さん、『春の人』は、苦手そうにしていましたよね」
岩清水シェフが二人になったことで、呼び分けが必要かと伊久磨は言い添えた。
(和嘉那さんは名前で呼んでいたけど、俺もそろそろ「春さん」って呼ぶべきなのかな……)
ごく自然に考えてから、はっと気づいて落ち込む。
もう一人の「岩清水シェフ」をすでに深く受け入れてしまっているし、なんだったら由春の呼び方を改めようとしているあたり、完全に大豪の存在に圧されている。
「苦手というか、結局、あの建物やアンティークって、全部大豪シェフのものなんだろう。二人の間にどういう約束があったかは知らないけど、返せと言われたときに何が起きるか。それこそ由春は、従業員を抱えている。お前と真田だけだったら、どこか別の場所でやり直したかもしれないけど。転職してきた藤崎、産休育休後の復帰前提の佐々木さん、それにペンションの仕事から引き抜いた彼女。オリオンや俺はどうにでもなるとして、後の三人はそういうわけにはいかない。大豪シェフに引き継げるのは現状蜷川くらいだ」
カタリ、という小さな物音がして、伊久磨は台所の入り口に目を向けた。
店に立つとき用の白いブラウスと黒いフレアスカートはそのままに、ざっくりとしたグレーのセーターを上から着たエレナが立っていた。
すたすたと入って来て、聖と伊久磨をちらりと見る。
「女が全員お荷物になっているのが、なかなか凄いわね」
「藤崎」
「責めてない。西條くんの言っていることは間違いじゃない。そういう、世間的に使えるか使えないか微妙なラインの人材を、シェフは引き受けてきたわけよね。普通の経営者なら匙を投げるような」
感情のわかりにくいエレナの声に、伊久磨は何も言うことができない。
(佐々木さんは復帰さえできたら戦力だし、明菜さんも身体に無理をかけなければ……。藤崎さんだって「今は」新人というだけで)
――殴る蹴る恫喝するがわりと当たり前の時代を生きているから、テンションが違う。
聖の言葉が脳裏を過ぎって、寒気がした。
由春や由春の父を見た限り、女性に当たりが強い印象はない。むしろ優し過ぎるくらいだ。
しかし大豪に関しては、未知である。
(今はそういう時代じゃないとはいっても)
使えない、と放逐するのはオーナーの胸三寸。
「要は、大豪シェフに『海の星』を返せと言われなければいいわけですよね。今まで岩清水さんがそういう、『店を失う可能性がある』と俺たちに言ってこなかった以上、奪い返されない算段はあると思うんですが」
どうかな、と聖は小さく呟いて買い物袋を漁って葉物野菜を取り出す。
「単に、『日本に戻る気はないからお前に使わせてやる』と口約束されていた、とか。返せと言われる予定ではなかったけど、書類上の所有権が移っていないから、自分のものと主張されたら負ける。そのへんじゃないか。で、あのひっかきまわす性格だし、もし現実にそうなった場合」
「女たちの行き場がない」
エレナが今一度言って、伊久磨が用意したワインとグラスをのせたお盆を持ち上げた。
「俺だってべつにあちらのシェフに雇用されると決まったわけじゃ……。そもそも岩清水さんはなんで『海の星』を取られるつもりになっているんですか! 戦って勝って守ればいいだけですよね!?」
「それ、由春に直接言って来い。あいつあれで結構参ってるから」
流しの前に立った聖が、背中を向けて言った。
「そうね。蜷川さんから『俺は岩清水さんがいいんです』って言われたらシェフ元気になるかも。岩清水といっても『春さん』の方ね、名前きちんと呼ばないと勘違いするかもしれないから、気を付けて」
言い終えて、エレナは背を向けて台所を出て行った。テンションは低かった。
聖もまた伊久磨を見ないまま独り言のように呟く。
「こういうことがあるから、借り物は怖いよな」
「借り物」
あのうつくしい洋館と、一般人では一生かかっても揃えられないような数々のアンティーク。「海の星」を「海の星」たらしめているもの。
主としての由春がその来歴を理解し、最大限利用しているからこそ、生かされていると思っていた。
しかしそこに、さらに相応しい「主」が現れたとしたら?
(岩清水さんは「偽物」なんかじゃない。だけど、大豪シェフが「本物」の貫禄なのは間違いない)
「俺にはこの腕しかなくて、頼りになる血縁とか、自由になる財産もない。もし自分の店を持つとしたら全部一からになるから、これまで働いてきたような店にはできないだろう」
低く抑揚のない声が、野菜を水洗いしたり、まな板や包丁を並べる音とともに耳に届く。
「西條シェフのお店、ですか」
「そう。俺が修行してきた店は、一皿五千円とか、そういう価格帯が普通。それでも安いくらい。だけど、立地にもよるけど、いま俺が動かせるだけの資金を投入して店を作っても、揃えられる設備、内装や食器は知れている。百円ショップの皿に五千円の料理を盛って客は納得するか? どんなに頑張っても最初はランチ千五百円。その辺だろうな」
淡々と話される内容。
聖の資産については知らないが、おそらく妥当な線なのだろうとは思えた。
それは高級レストランに該当する「海の星」とは違う。
「『海の星』も軌道にのるまではかなり危ない時期もありましたけど……。あの建物やアンティークの高級感、和嘉那さんの食器。グラス類にしてもリーデルや江戸切子は最初から揃っていましたし、それはかなりのアドバンテージだったと思います」
認めざるを得ない。
由春には腕があり、それは紛れもなく本人の努力によって得られた技術である。
一方で、海外に修行に出られる環境にあり、帰国すれば店を開くに適した建物があり必要なものはあらかじめある程度揃っていた。
それは、一からすべてを用意しなければ、と言っている聖と比べるまでもなく「恵まれていた」のだろう。
(俺にとって岩清水さんは、毎日朝から晩まで働き詰めで、苦労を厭わず常に努力をしているひとだ。才能なんて不確かな物にあぐらをかいたりしない。いつもいまの自分に満足しないで、限界以上の先へ行こうとしていて)
十分に、苦しんでいる。楽をしているなんて思ったことはない。だからこそ店は着実に常連を掴み、広告を打たずとも客席を埋め、利益を上げてきたのだ。
だけどその「海の星」の成功は、岩清水由春のあの恵まれた生まれなくしてはあり得なかった、とも言えるのかもしれない。
奇しくも伊久磨はいまひとり、身近にそういう人物を知っている。
ぐるりと煌々とライトに照らし出された台所を見回す。
この大きくて古い日本家屋の家主、椿香織。
旧家の当主で若社長とは言っても、職人として毎朝暗い時間から働き、他人から羨ましがられるような平坦な人生を歩んでいないのも知っている。
それでも、自分で一から積み重ねるのではなく、先祖伝来の継ぐものがあった彼は「恵まれて」いたのかもしれない。
(岩清水さんも香織も、「他人より楽をしてきた」のか……?)
だとすれば、それゆえに二人はこれから「楽をしてきた」つけを払わされるのだろうか?