強制イベント
キッチンにその男が踏み込んだ瞬間。
後に続いて中を覗き見た伊久磨は、世にも奇妙なものを目撃してしまった。
(鳩が豆鉄砲を食ったよう、というより……ライオンが道の角曲がったら恐竜に会ってしまったような態度だ)
そんな馬鹿な、という呆然とした顔で固まる由春。
「よおおおおお、小僧、元気にしてたか!!」
キッチンの空気がびりびり震えて、棚に置かれたものがカタカタ鳴るほどの大音声。
「叔父貴……」
満面の笑みを浮かべた「岩清水血縁の方」に対し、由春はといえば魚をさばく手が止まってしまっている。
聖もオリオンも身動きできないようだった。
(メデューサの石化効果とか、深刻な「だるまさんがころんだ」みたいになってる)
動いた人間から仕留められる、という緊張感。
一番最初に息を吹き返した(死んでた?)のはオリオンで、ふわっと笑みを浮かべて言った。
「Good morning,Hiro?」
おっとりとした優し気な声で名前らしきものを呼ぶ。
すばやく身体ごとそちらを見た男は、笑みを深めて相好を崩した。
「おう。オリオンか。変なところで会うなぁ」
がっはっはっはっはっは、という豪快な笑い声が響く。
この男をして「暗い」と言われた恨み言ではないつもりだが、何かの間違いみたいに明るい、と伊久磨は思った。「天空の城ラピュタ」でいえばドーラ一家としてゴリアテに乗っていそうだ。もっともモブ感ゼロなので、存在感としてはドーラだ。
(オーラがやばい)
そばにいるだけで、吹き飛ばされそうな圧を感じる。
「ちょーっと日本に羽伸ばしにきた。あと、お前の料理食いにきた。夜にまた来るから席を用意しておけ」
有無を言わさぬ調子で断言。
由春から、ちらっと視線を流された。伊久磨は微かに首を振る。
一昨日は週のど真ん中ということもあってか予約がまったく入っていなかったが、今日は金曜日。夜は埋まっていた。満席です、予約とりきっています、と目で伝えてみる。
由春には力なく首を振られた。
そういう問題ではない、ということらしい。
「ヒロはしばらく日本に?」
「海の星」サイドでは一番落ち着き払った様子のオリオンが、何気ない調子で尋ねる。
「わからん。仕事やめて来たところで、何をするか決めてないんだ。ここで店をするのもいいかなとは思ってる」
男はちらっと由春に目を向ける。
「ま、そのへんは小僧次第だな」
(小僧。岩清水さんが小僧よばわりされてる。これ口答えすると「黙れ小僧」って言われるやつだ)
ふと思い立って、目で聖を探してみた。腰に手を当て、訝しむように青い目を細めて男の様子をうかがっていた。
視線に気づいたように男は聖をちらっと見てから、キッチン全体を見回して口を開く。
「そんなわけだから、あとでまた来る。しかしまあ、この店、若いのが揃いも揃って全部しけたツラしてんなぁ。暗い。お前ら本当に暗い。ろくな青春送ってこなかった奴の匂いがぷんぷんするね」
お、そこまで言うのか、と伊久磨はその横顔をしげしげと見てしまった。
(確かに陽キャはいない。認める。……いないけど)
誰かひとりくらい、このオッサンに対抗できる「若いの」はいないものかと見回してみるものの。
いない。
残酷な現実に、伊久磨は奥歯を噛みしめてそっと横を向いた。
(西條さんなら太刀打ちできるかもしれないと思ったけど、あのひと結構ムラがあるからな……。騒ぐとうるさいけど、「明るい」とは根本的に違う気がする)
由春に至っては、首根っこをおさえつけられた猫みたいになっている。大丈夫ですか、と言いたくなるくらい冴えない表情をしていた。
「じゃあな。夜に」
言うだけ言って、男はキッチンを横切り、店の裏口から出て行った。
……ぐつぐつぐつぐつ。
鍋の沸騰する音だけが、しんと静まり返ったキッチンに鳴り響く。
苦笑を浮かべたオリオンが、由春にちらりと視線を向けた。
「連絡なかったの?」
「ああ……。いきなりだからびっくりした。どこから入り込んでいたのか……まあオーナーだから鍵くらい持っているんだろうけど」
ようやく夢からさめたようにぼそぼそと喋り出した由春に対し、聖は厳しい表情のまま言った。
「岩清水大豪シェフ? お前の叔父さんだっけ?」
「叔父さんとは呼んでるけど、実際には親父の従兄弟。オリオンこそ会ったことあるのか」
「うん。ブリュッセルのレストランで一緒になったことある。日本人で『いわしみず』って知り合いいるんですよって言ったけど、『そっか! 親戚かも!』って感じで流されたから、忘れてた」
なんとなく事情を知っているような、知らないような空気で進む会話。
途切れた瞬間を狙って、伊久磨は「誰なんですか」とようやく口を挟んだ。
まるで「お前いたのか」とでも言いたげ目で聖に睨みつけられて、ほんのり胸が痛かった。だが、聖はいつもと違って余計なことを言わず、すらすらと説明してくれた。
「フランスの名前のあるホテルとか星付きレストランでグランシェフだったり、スイスやベルギーの駐在大使館で料理長していたり……いろいろ。日本人でなんかすごい人がいる、って意味で海外にいると名前は聞くけど、国内にはとどまっていたことがないからそんなに知られていないかも。俺は会ったのは初めて」
言い終えてから腰にあてていた手を外したが、どことなく強張ったような動きだった。
やはりほとんど表情のない由春の様子が気になっているらしい。
「どうなの。おじさん」
ざっくりと聖に尋ねられた由春は、目を閉ざす。
一、二、三。
やや長めに瞑目してから、ゆっくりと目を開けた。
「どうもこうも、あの人が『ここで店をする』と言ったら、そういうことになる。この建物はもともとあの人のものだから」
「立ち退きですか」
まだよく理解ができないまま、伊久磨は聞き返してしまった。
眼鏡の奥から、ひたっと伊久磨に視線をあてて由春は低い声で言った。
「あのひとの要求に答えられる人材が、すぐに見つかるとは思えない。……いや、どうだろう。都内からでも一緒に働きたいって人間が押し寄せてくるかもしれないから、その限りではないけど……。あのひとがやると言ったら一人でも店をやるだろうけど、お前のことは欲しがるかもな。もしかしたら毎日死にたい気分になるかもしれないけど、勉強にはなると思う」
「……ええと?」
(俺が死にたい気分になる? いやそれべつに珍しいことじゃないけど)
変なことを考えそうになって、伊久磨は思考の流れを無理やり断ち切る。納得している場合じゃない。「だから暗いって言われるんだ」という恨み言が脳のバックグラウンドで流れていたが気にしないことにした(※だいぶ気にしている)。
「今の話を聞く限り、おれはあっちの岩清水さんとここで働くんですか? 岩清水さんは?」
由春はふいっと視線をさまよわせる。
「あのオッサンを納得させない限りは、追い出されるかなぁ……」
「え。明菜さん呼んだのに? 呼んだんですよね? それなのに店を失って路頭に迷うんですか?」
オリオンが「いくまー」と口を挟み、聖が「お前も結構容赦ねえよな」と呟いた。
それでも、伊久磨は何やら気持ちが負けかけているらしい由春をどうにかせねばという一心で言い募る。
「グランシェフ? 大使館付き料理人? シェフより二十歳くらい上でほぼ海外で修業していたひとですか? 負けないでくださいよ。岩清水さんはここでやっていくと決めて、店を開いて従業員の生活も守ろうとしてきたひとじゃないですか。経験は段違いで埋め難いものはあると思いますけど、放浪癖のあるちょい悪親父なんかに負けるはずがないです」
多分に願望まじりではあったが、こういうときは声に出していかないと、との決意のもと力強く断言する。
由春は伊久磨を見返して、吐息した。苦笑している。
「ま、そうだな。『海の星』を潰して『シェ・ヒロ』にするとか言われても、さすがに譲れないからな。夜までにオッサン対策を練らないと」
言い終えたときには、いつも通りの飄々としたオーナーシェフの顔に戻っていて、伊久磨はひとまずほっとしたものの。
明らかに格の違う存在を目の当たりにしたショックはいまだ胸に渦巻いていて、自分でこうなのだから同じ料理人であるこの三人の心中やいかに、と。
振り払えない不安が心にわだかまるのを感じていた。