息を詰めて、一歩踏み出す
「新卒」
椿香織の提案に、水沢湛はわずかに目を細めた。
早朝からの作業がひと段落し、「椿屋」の工場の隅でコーヒーに口をつけたところだった。
湛が使用している、藍色手捻りのマグカップは「和かな」のもの。
香織はといえば、そろそろ年季の入り始めた京焼のマグカップを使っている。新しいものが欲しくないわけではないが、壊れないので使い続けているのだ。気に入ったものを見つけるとさっと入れ替えてしまう湛の切り替えの早さを、羨ましく思うこともある。
昔からあって、特に不足もないから、新しいものを必要としない。
生活全般がずっとそうだった。その最たるものが「家」。
――この家、維持管理がすごく大変そうですよね。綺麗に使っていますけど、老朽化もしていますし。いっそ建て替えてしまえばいいのに
古いものを「そこにあるから」と守り続けるのではなく、無理やずれが生じているのなら、我慢しないで壊してしまう。新しくしていく。
周りの人々が当たり前にできていることが、自分はできていない。
がんじがらめの生き方をしてきたせいで、すべてに対して臆病になっている。
(湛さんにしろ、穂高先生にしろ、俺の方が若いはずなんだけど。負けてる)
何かが。
座面がビニール地でクッションになっている丸椅子に腰かけて、「そうだな」と湛は遠くに視線を投げた。
「俺はありだと思う。加藤さんの引退の件もあるし。人数減って、やっていけないわけじゃないけど、十年先を考えれば、この辺で世代交代は必要かも」
加藤さん、という名前に香織はつられて頷く。
古参の職人に、引き際の相談を受けていたのだ。現在の勤務は「早朝のみ、週三回程度」のパートで、抜けられてもすぐにどうというわけではないが、もしものときに休みは取りにくくなる。
「どこに募集をかけるかは悩んでいるんだけど……。地元企業として、地元の若者を積極採用して欲しいっていうのはずいぶん前から言われているんだ。商業高校、調理師学校。大学でもこのご時世、募集を出せば来るかも。給料面では折り合いがつかないかもしれないけど」
考えながら言うも、声に自信が無いのは自分でもわかっている。
どういう人材が欲しいのか、まだ漠然としているせいだ。
中学卒業と同時に高校に通いつつこの世界に入った湛、調理師学校を出て「海の星」に勤めた真田幸尚。伊久磨は大卒、エレナは転職からの中途採用、樒は音大を出てから家業を継いでいる。由春や聖には海外経験があり、オリオンはイギリスでパブリックスクールを出てからヨーロッパを放浪していたとか。
付き合いのある人間をざっと思い浮かべてみても、「今の仕事」にたどり着くまでの経緯が様々だ。
(おそらくそのどれもが、経験として生きているはず……)
ひきかえ、ずっと地元を出ることなく、成り行きで家業を継いでいるだけの自分は、おそらく見識が不足している。
採用面接をしたとして、初めて会った相手の人となりを見ることができるのか。
うまく育てていけるのか。
現在椿屋の職人の中では、香織が最年少。その上が湛。あとは先代からの職人で、皆還暦を過ぎている。よそに修行に出ていた湛はともかく、香織に至っては、自分以外の若い職人の仕事風景を間近で見たこともないのだ。
「人づての紹介というのもアリかもしれない。椿屋で働きたい若いのがいないか、それとなく付き合いのあるところに聞いてみるか」
言うなり、湛はコーヒーを飲み干す。
休憩終わりの気配を感じて、香織も一息に飲んだ。
「そうだ。藤崎さんは、結局『海の星』か?」
立ち上がった湛から、ちらりと視線を流して尋ねられる。目元に笑みが滲んでいる。
気付かなかったふりをして、香織は視線をさまよわせた。
「本人はやる気みたいだよ。岩清水も伊久磨も藤崎さんがひとまず続ける前提で営業計画たてているみたい。やりたいようにやればいいと思うよ、自分の人生なんだから」
「長らく“女将さん”不在の椿屋に良いと思ったんだけど」
さほど押しつけがましくはなかったが、残念そうに言われる。
香織は片眉をぴくりと跳ね上げた。
「今は良い友人だし、この先もそうじゃないかと思っているけど。それに」
「それに?」
勢いがついて、いらないことまで言いかけた。すぐに口をつぐんだが、聞かれてしまった後。
躊躇いながら、香織は付け加えた。
「藤崎さん……、なんていうか昨日の旅行で樒さんと変な感じになっているっていうか」
「樒? なんでまた」
さらっと聞き返されて、香織は返答に詰まる。
明確に何かがあったわけではないのだが、帰ってきて家で飲んでいたときの反応が変だった。即座に恋愛感情とは言い切れないのだが、一言でいえば「参ってしまっている」という。よく知らない相手に無防備な姿を見せ、迷惑をかけた事実にかなり消沈していたのだ。
その挙句、今日の朝ご飯は「セロ弾きのゴーシュ」でモーニング食べてくる、と言っていた。
なんとなく。
(その「今日」はいつの間にか「毎日」になるんじゃないかな、とか)
胸騒ぎというほどではないにせよ、ひそかな予感があった。
何かを察したらしい湛は、深入りすることはせず、ただ厳しい声で言った。
「大人だし、別に誰が誰とどうなろうと構わないんだが。西條もよくわからないし。そこの三人でこの先も仲良く『問題なく』暮らしていけるというなら、俺から言うことは何もない」
神経がちりっとする。怒られているというのは、感覚的にわかった。
「湛さん。そういう、奥歯に物が挟まったような言い方やめて。なんだよはっきり言えよ」
立って並ぶと香織の方がやや背が高いにも関わらず、威圧されてしまうのは相変わらず。
表情を変えずに、厳に言い含められる。
「お前は椿の当主だ。若いのを採用するとなれば、親代わりになるくらいの覚悟もいる。自分自身が言い訳できないような生活はしないように。けじめをつけるところはつける」
「親……」
思わず言い返しそうになったが、堪えた。
おそらく、「海の星」の岩清水由春はそのつもりで従業員を引き受けている。
(当主になっても、兄弟子や古参のパートさんたちに囲まれていて、最年少として事あるごとに手助けされ、引き立てられてきた俺とは根本的に心構えが違う、か)
自分なりに、背負うものから逃げず、自分の足で歩んで生きて来たつもりだった。
それでも、ひととして全然足りない、足元が覚束ない感覚。
……「海の星」のように。
人の出入りがあって、光さざめき、常に新しい風が吹き込む環境が欲しいと願うのならば。
まず己に、確かなものがなければならないというのに。
(俺はこの歳まで、何をして生きてきたのだろう)
香織は自分の掌に目を落とす。
今の自分に、積み重ねてきたものなど、本当にあるのだろうか?