souvenir
ごつん。
十代の終わりから、数年越し。
拗らせた片思いの相手との、初キスの顛末。
眼鏡が鼻や頬にぶつかった。鈍い音がするほど、割としっかりめにごつん、と。
「悪い」
触れ合った唇を離して、至近距離で謝られる。
唇は離れても、強い力に抱き寄せられてお互いの半身がぴたりとくっついていて、耳から身体の芯まで声が響いた。
「こちらこそ……。よくわかってなくて」
(キスの間合いが)
暗くて良かった。顔が赤いのはそんなにバレていないはず、と思いながら明菜は精一杯告げる。
再び、すごく近い位置から「よくわかってないって」と甘やかに囁かれた。心なしか、笑っているような楽し気な声。
「痛そうな音したけど、大丈夫か?」
固い指先で顎を軽く摘まれて、下の角度から目を覗き込まれる。明菜は、はうっと小さく息をのんだ。
「だ、大丈夫です」
座っているそのひとの背後に膝立ちで近づいたので、普段なら見上げる身長差の人に、下から見上げられている。
目が合うと、落ち着かない。膝から力が抜けて、身体がぐらつく。
「どうした」
脱力したのは伝わってしまい、支える腕に力が込められる。片腕だけでも、安定感がある。
「ごめんなさい、あの、限界みたいです……」
言いながら、目の前の人の胸に手をついて距離を置くと、腕がそっと離れた。
明菜は、がっくりと肩を落としながら、その場に正座で座り込む。
腰を捻るように上半身だけ振り返っていたその人は、胡座をかきながら身体ごと向き合ってきた。
「疲れてるのか」
声は、耳が痺れそうなほど優しい。
「そういうわけではないんですが。その……、春さんとこの距離というのに、緊張します」
「キスもしたのに?」
サラッと言われて、顔から火を吹くかと思った。
俯きながら、両腕を前方に伸ばす。胡座をかいた膝に指をひっかけて、息も絶え絶えに言う。
「追い詰めないでください。展開についていけてないんです。すみません」
そうっと顔を上げてうかがい見ようとしたところで、手首を掴まれて軽く引き寄せられた。掌や指に軽く口付けながら、クスッと笑われる。
「明菜のタイミングに合わせるから、そんなに困らないでくれ」
(く、く、唇の感触が。柔らかいというか、くすぐったいっ)
困るなと言われても、困ってしまう。
「なんか、本当に気が抜けたというか。春さんが普通で」
「普通って?」
「……」
聞き返されて、咄嗟に答えられなかった。
長い間抱え込んで温めていた記憶は、いつの間にか実物とは大きくずれていた。
(私が勝手に、もっとずっと大きくて、とっつきにくくて、手が届かない人だと思い込んでいた。そばに近づくことも、口をきくこともできないくらい……)
あまりにも遠くて。
伊久磨をはじめとした、「今の仲間」とふざけている姿を、離れた場所から見られるだけで充分だと思っていたのに。
まさかこんなに近くで。
正座したまま前のめりに沈没したせいで、土下座みたいになっていた。
衣擦れの音がして、立ち上がる気配。
何かと思う間もなく、背後を取られる。体の前にまわってきた腕に、強い力でさっと持ち上げられて、胡座をかいた足の上に座る形を取らされてしまった。
「春さん……っ!?」
「嫌?」
安全ベルトみたいに、腕が身体に巻き付いている。引き締まった腕の固さに気づくと、ドキドキする。
(絶対、心臓の音が聞こえてるし)
焦る。
「い……やでは、ないですけど……!? どうしたんですか?」
「寒いから抱いていたい」
どストレートな返事を耳に注ぎ込まれて、聞かなければ良かったと後悔した。
(結婚前提の申し込みを受けたっていうことは「そういう関係」ってことなんですよね……!)
「まだだめ?」
少し、困った色の滲んだ声で囁かれて、罪悪感が募る。
深呼吸をして、なんとか答えた。
「だめではないんです。ごめんなさい。こんなにじたばたしたくないんですけど。本当に好きなので……心臓が止まりそうで」
素直に。素直に。素直に。
誤解する余地もないほど素直に告げる。
「それは困るな。まだ全然何もしていない。これからなんだ、死なないでくれ。俺よりずっと長生きしてくれないと困るんだ。大切にするから……」
両腕にぎゅっと力を込められた。痛くて、苦しい。心臓が壊れそう。
「倒れて、仕事辞めてこっちに帰ってきたって聞いて、あの時は俺も心臓が止まるかと思った。明菜、もう無理はするなよ。俺の店で働かないか、なんて。仕事なんか、全部口実だ。一緒にいられるなら、本当はなんだって良いんだ」
切々と語られ、熱い息が耳を掠めていく。
身動きもできないほど、強く抱き締められながら。全身を使って包み込まれているのに、しがみつかれているみたいだった。
「ありがとう、ございます。すごく……幸せです。春さんは、ずっと……ずっと私の王子様で。自分のものにしたいなんて、考えちゃだめだって何度も諦めてきたんです。そこまで言ってもらって、何でお返ししたら良いのか……。とりあえず、仕事の話は無しにしないでくださいね」
「明菜」
何故か、不穏な調子で名前を呼ばれたが、ここは譲れないとばかりに明菜は早口に続けた。
「春さんの人生から、仕事は切り離せないと思います。お店を持ってしまったわけですし。従業員の生活もありますし。一度始めたら、やめられないですよね。私は……許されるならそこに関わっていきたいんです。春さんの人生の一部になりたい。春さんも……、私の人生を分かち合う人でいてください。ふつつか者ですが」
分かち難い。
岩清水由春という人と、仕事の結びつきは。
ならば、このひととこの先出来る限り長く一緒に過ごそうと思えば、二人の間に「仕事」は必要不可欠。
病めるときも健やかなるときも。ともに歩むことを。
腕の力が緩んだ。どうしたんだろうと思う間もなく、片手が絨毯の上に伸びて、眼鏡を置いていた。
(眼鏡?)
視線でその動きを追いかけ、意味が飲み込めないままきょとんとしていると、抱え直される。後ろを向かされ、真正面から向き合う形になる。顎を指先で軽く掴まれた。
「春さん」
吐息ごと、唇に奪われる。
眼鏡に遮られることもなく、一度目よりも優しく、それでいて強引に。
* * *
* * *
「あ、心愛? いま大丈夫? うん。さっきみんな帰ったよ。いつ吹雪くかもわからないし、明るいうちに家に帰りつきたいって。うん。心愛も一緒が良かったね。……あ、そうだ! お土産ありがとう! 春さんから受け取ったよ。焼き菓子たくさん。皆さんでどうぞって。あれ心愛からなんだよね? さっきマドレーヌ食べたけど、バターがきいてて美味しかったー。心愛のお菓子、私好きだよ。お菓子作るのが大好きなひとが作ったお菓子だね。適当に作ったのなんか、ひとつもないの。全部食べるひとのこと思い浮かべて作ってるんだなって伝わって来る。また一緒に働くの、楽しみだな。うん。……うん? そうだね、うん。春くらいから働く方向で話がまとまった、かな。ありがとうね」
少し休んでていいよ、丸一日ひとりで悪かったねとオーナー夫妻に謝られ、自室で電話の最中。
身重ながら、何かと今日のために立ち回ってくれたらしい友人・佐々木心愛にお礼と報告をしながら、明菜は備え付けのデスクに置いた箱に目を向ける。
店のロゴなどは入っていない水色の空模様の箱は、ラッピング雑貨のお店で調達したのだろう。見た目は爽やかで可愛らしかったが、中を開けてみて驚いた。
どこのショコラトリーで買い揃えたのかと思うほど、目も眩むようなショコラの詰め合わせ。
丁寧な筆跡で説明書きがついていた。
フィナンシエ・オ・ショコラ、シャンパントリュフ、ラズベリーガナッシュ、アイシーミント、ショコラオレンジ、塩チョコキャラメル……
「そうだ、チョコもすごかったよ、ありがとう。こっちは明菜の分って春さんがくれたんだけど、あんなのお店で買ったら何千円もするよね。フリュイ・セックだったかな、ひとつ食べてみたんだけど、すごく美味しかった。アーモンドとかピスタチオのナッツ類をキャラメルで固めて、チョコレートコーティングしたの。オリオンさんがショコラティエだって聞いていたけど、一緒に働き始めてそんなに日がたってないよね。心愛、こんなにチョコ上達したの? 元からこんなに? ……え?」
――知らない! たぶんそれ春さんが明菜の為に作ったんだと思うよ。説明書きも春さんの筆跡でしょ? チョコはオリオンに習ったのかもしれないけど、私は関知してない。
今にも笑い出しそうな友人の弾んだ声に、明菜は目を瞬いて、もう一度デスクの上の空色の箱を見る。
(春さんが私のために? チョコを、あんなにたくさん?)
「なんだろう。そんなにチョコレート大好きアピールしたことあったかな……? もちろん好きだし嬉しいけど」
――カレンダー見てみなよ。少し早いけど、タイミング的に今渡すなら早過ぎるってこともないから、じゃない? 明菜に会うのがわかっていたから、用意していったんだと思うよ。
いや~春さんさすがだな~という電話の向こうの声を聞きながら、明菜は部屋にかけていた月ごとのカレンダーを見た。
二月。
チョコといえば。
「……まさかバレンタイン!? どうしよう、わたし、何も用意してないのに……っ」
考えてもみなかった。
だけど、言われて見ればそれ以外考えられない。
電話の向こうで、友人は楽し気に笑い続けている。
そして、笑いをおさめてから言ったのだ。
――休み、とれないの? 会いにくればいいじゃない。なんだったら「海の星」に予約入れておくよ。バレンタイン当日は満席だけど、明菜の休みの日で調べる。偽名でこっそり入れておくから、私宛に連絡して。
You're may Valentine.
「あなたは特別な、大切な存在」
ということで、第203話「星の降る夜(後編)」の続き+第206話「朝ご飯をどうぞ」の後日談でした。
ここの二人がムーンライトな展開になるのはだいぶ先……ですかね!
「ステラマリスが聞こえる」はこの小説家になろうをメインに、エブリスタ・カクヨムでも公開しています。コンテストを追いかけて他サイトへ出張……
現在はカクヨムコンにエントリーしていますが、読者審査の基準が上位10%で足切りということで「めちゃくちゃ厳しいじゃん」と今さら気付いたところです。
そこで、
「もしアカウントを持っていて、応援してもいいよという方がいたらお願いします」と最近ぼそぼそ活動報告やTwitterで言っていたところ、何名様かお越し頂くことができました。どうもありがとうございました!!
また、カクヨム版には雪月華さま、石河翠さま、shinobuさまよりレビューを頂いております。三者三様のステラマリス模様で「そういう話だったんだ!!」と私にも気付きが。とてもありがたいです。興味がおありの方はどうぞのぞいてみてください。
そして私は最近もう「ステラマリスの最終目標はドラマ化とか映像化なので……」と大望を語っていくことにしました。ひとから笑われようととなんと言われようと、作者には寿命があると気付いてしまったので(さしあたりいまは健康です)、実現したいことは言う!!という。
そんなわけで、引き続きカクヨムでも応援してもいいよ~という方がいたらお待ちしております!!
小説家になろう版もこのまま続きますので、何卒よろしくお願いします~!!