朝ご飯をどうぞ
ラウンジとの境目に、腕を組んでもたれかかっている背の高い人影。
朝の光溢れるキッチンで朝食の用意をしていた明菜は、顔を上げた拍子にそのひとに気付いてぱっと表情を明るくする。
見慣れぬ真っ黒の髪に、鼻梁の通った端整な面差し。アイボリーのケーブルニットにジーンズを合わせたラフなスタイル。目が合うと、唇に優し気な笑みを浮かべて見返された。
「香織さん」
「おはよう」
香織は、組んでいた腕をといて、キッチンをのぞきこんでくる。
「すごく良い匂いだね。焼きたてパン。つられて見にきちゃった」
「はい、おはようございます。もう少しでご用意ができます。先に何か飲みますか?」
「手間じゃなきゃコーヒーがいいかな」
「わかりました。ラウンジにドリンクバーを用意してあるんですけど、いま少し手が空いたので、一緒に」
ステンレス台を迂回し、香織の横をすり抜けてラウンジに踏み出してから振り返る。
香織はちらりとキッチンに視線を滑らせた。
由春と隼人が、サラダを作っている。いいの? と声に出さずに尋ねられて、明菜は頷いてみせた。
「意外と、良い感じなんです」
小声で素早く答えて、先に立って歩き出す。
準備中のラウンジの光源は、窓からの朝陽のみ。
窓枠や柱に遮られて、まばらに注ぐ光の中、明菜は肩越しに香織を振り返って尋ねた。
「香織さん、少し落ち込んでいます?」
「ん? そう見える?」
目元に甘さを滲ませて微笑み返される。声は穏やかだ。
「そうですね、コーヒーはセルフでお願いします、って言えないくらいには。座って待っていてください。すぐにお持ちしますから」
「ありがと。優しいね。べつに落ち込んでないけど、甘えようかな」
軽く揶揄う口調。
明菜は笑ってから背を向け、ドリンクバーを揃えている台に近づく。
ウォーマーにのせたガラスのコーヒーメーカーからマグカップにコーヒーを注いだ。
「香織さんって、今もブラックですか?」
「そう。よく覚えていたね」
昔の知り合いなので。数年前の会話をなぞって確認すると、感心したように褒められる。
香織は窓の方へと歩いて行ってしまっていて、明菜はその後を追いかけてストーブ近くのローテーブルにマグカップを置いた。
「昨日、岩清水とは話せたんだよね。隼人から多少聞いている」
窓を背にし、光を浴びて香織が振り返る。
隼人。
名前、と明菜は目を細めた。雪の照り返しをはらんだ光が、眩しかったせいもある。
(踏み込むタイミングというか。男の人同士のこういう呼吸ってなんかすごい)
昨日から、それとなく誰かが彼を邪険にしないで居場所を作っていた。
今朝など、まさか朝から働きにくると明菜は考えてもいなかったが、由春はまるでそのつもりだったように隼人を受け入れて、料理説明を始めた。前夜の諍いなどまるで関係ないように、ごく自然に。
「春さんとは、はい。話しました。ここでの仕事を終えた後、なるべく早いうちに『海の星』で働く方向で調整します。最初は事務で入って、藤崎さんが調理師学校に行くタイミングで平日のランチを見る形かと思いますが」
香織の問いかけに対し、明菜は実に生真面目に答えた。
少しの間動きを止めた香織は、ゆっくりと目を閉ざして「あのさあ」と低い声で呟いた。
「どうしましたか?」
目を開いた香織に、半眼でじっと見つめられる。
「いや、『どうしましたか?』じゃなくて。いまなんかものすごく仕事の話だったんだけど……!? 昨日話したのってそういう……!?」
何に対しての戸惑いなのかわからないまま、明菜は二、三度目を瞬いた。
「そういう……、話でした。今朝わたしの焼いたパンを食べてみてから発酵室とかオーヴンの設備投資は考えようって言ってました。私もいい機会なので、山を下りる前にうちのオーナーに話して、雑用だけでなく経営事務をあらかた教わろうと思いました……えーと?」
「ちょっと待って。二人って、何もなかったの!? おかしいな……、岩清水あれどう見ても……。明菜ちゃんも……」
何かをぶつぶつ言っている。
明菜は首を傾げつ「コーヒー向こうに置きましたよ」と告げてみた。
香織はまだ納得いかない表情をしている。
「わからないんだけど……。明菜ちゃんはこれから岩清水と一緒に働くつもりってことなんだよね?」
(いまの話、そんなに難しいところあったかな)
これはなんの確認だろう、と思いながら明菜はしっかりと頷いた。
「そうです。ただし勤務時間や収入面を考えると、実家暮らしに極めて近い条件が必要になるということで。そこは春さんと一緒に暮らしながら折り合いをつけていこう、というあたりまで話しました」
「ん。一緒に暮らすの?」
「ただ一緒に暮らすわけにもいかないので、春さんはうちの親に筋を通してからと言っていましたが」
「筋」
繰り返されて、明菜は明るく噴き出した。
「私の前の職場でもそうだったんですけど、料理人のひとって、ときどき極道のひとみたいな表現しますよね。もっと普通の言い方してくれてもいいのに」
「ああうん、そうそう。筋を通すってことはつまり親に挨拶しに行くってこと?」
「私の親が、飲食業で働くのを反対しているのがやっぱりネックで。その説得に」
明菜としてはできるだけ整理して話しているつもりであったが、香織は頭痛を堪えているような顔になり、目を閉ざしてまたもや一人でぶつぶつ言い始める。
「わからない……。どうしても仕事の話になる……。俺が聞きたかった話とは違う気がするんだけど、何が違うのかがわからなくなってきた。これで良かったような気もしてきた。いや、そうなのか?」
その表情に、さきほど胸騒ぎを感じた翳りはもう見えない。落ち込んでいるかのように見えた、寂しげな雰囲気が。
(気のせい?)
よくわからない、と思いながら「コーヒーどうぞ。戻ります」と声をかけて踵を返す。
歩き出してから、ふと――。
(香織さんは、まだひとりなのかな。誰も……?)
いつか聞く機会があるだろうか、と思いながらキッチンへと向かった。
* * *
「皆さん忘れ物ないですかー」
玄関口で、荷物を持って出て来た面々に伊久磨が声をかける。女性であるエレナを含めて「ほとんど何も持ってきていない」と全員が軽い手荷物程度でささっと靴を履いて出て行く。
出発は午後。
オーナー夫妻が帰ってきて、恐縮しきって謝罪をしているところで由春と話し合いになり。明菜を交えて小一時間。
そちらに関わりなく暇な面々は、朝風呂に入ったり、近所を散歩して土産物屋をのぞいてきたり。
隼人は駐車場の雪かきなど雑用をしながら遠巻きにウロウロしていたが、昼食をオーナー夫妻含めて全員で一緒にとってから帰って行った。
山を下るので、明るいうちがいいだろうと、その後すぐに荷物をまとめて発つ運びとなった。
「車の人数割りは行きと同じで良いですかね。一度『海の星』に向かってから解散ということで」
伊久磨が言うと、ブーツで雪を踏みしめながら香織が顔を上げた。
「夕方になる前についちゃうよな。どうしよう。うちで飲む?」
「あ……それいいかも。そういえば俺昨日飲んでない」
何かし忘れた気がしていたんだ、と伊久磨は口元をおさえて頷く。
「椿邸だと、藤崎さんと西條さんも巻き込んでしまうかな」
前夜、寝落ちしてしまったエレナは、一生の不覚とばかりにへこんでいた。樒が「気にしないの」と笑い飛ばしてはいたが。そのまま、聖も含めて三人で外に散歩に出て、だいぶ持ち直した様子ではある。
「まあそのへんは。無駄に広いから、あの家。好きにすればいいよ。西條なんか、一日休むと腕がなまるって騒ぐくらいだから、たぶん声かければ色々作ってくれる。この際、あてにしておこう」
軽い話し合いで予定をまとめる。
由春は、見送りの明菜と適切な距離感で会話を交わしていた。どこからどう見ても爽やかな好青年で、オーナー夫妻など、やけに惚れ惚れとした様子で見ている。おそらく、対面で話し合ってすっかり取り込まれたに違いない。
「なんだかんだで『海の星』は順調だね。店は軌道にのって、岩清水もお前も結婚か」
「それはまだ……」
伊久磨が少し躊躇いをみせるも、香織は意に介した様子もない。
「順番的に伊久磨が先で良かったよな。岩清水が先だったら、お前しばらく立ち直れなかっただろ」
「そんなこと」
「あるよ。伊久磨、岩清水のことすげー好きじゃん。あいつを紹介したとき、仕事、うまくいけばいいとは思っていたけど、そこまで相性が良いとは思ってなかったからな」
香織の視線がさまよって、由春へと向けられる。その横顔を見ながら、伊久磨は躊躇いつつ言った。
「寂しい?」
「よせよ。そういうんじゃない。ただ、『海の星』はひとの出入りがあって良いなって思っただけだ。椿屋も久しぶりに新卒でもとろうかな。いま時期でも、意外と拾いものもいるかもしれないし」
「良いと思う。うん。新しい風、良いな」
椿屋は、湛を筆頭に古くからの職人が数人。店も勤めの長いパートさんでまわしており、たしかにひとの出入りはない。
香織が変化を求めるのはすごく自然なことに思えた。
明菜とオーナー夫妻に別れを告げ、由春が車に向かってきたところで皆乗り込み始める。
別れ難いらしく、車のすぐそばまで明菜がついてきた。邪魔にならないぎりぎりの位置に立って見守りの態勢をとる。
それまで、まるで「親の前であるかのように」距離感を保っていた由春は、思わずのように手を伸ばして、明菜の腕に軽く触れた。
「時間を見つけてまた来る。明菜も、市内に来ることがあったら連絡してくれ。……朝ご飯うまかった」
「ありがとうございます。パン、いくらでも焼きますよ、春さんの為に」
「それは無理しないで、休日だけで」
香織は、流れるように交わされる言葉をぼんやりと聞いている伊久磨の耳元に口を寄せて「あの二人、一緒に暮らすらしいよ」と告げた。
「それって」
目を見開いた伊久磨に、香織は笑いながら肩を叩く。
「ぼさっとしてると、先越されるぞ」