雪の下の芽
「必要な野菜が足りてないのは、確実にあると思う。料理雑誌を見てみればすぐにわかるけど、いわゆる高級レストランで使われている食材で、日本ではまだあんまり作られていないものは結構あるんだ。アンディーヴとか、ルタバガ、ラディノワール……。クレソンだって、付け合わせじゃなくてサラダにするにはまだまだ高い。かぼちゃが作れるようなところならズッキーニなんかも相性がいいはずだし、うまく生産量高めて特産品にまでしたところもある。ここ数年の話だ。だから」
すっかり酔いがさめた様子の聖は、恐ろしく真剣な表情で滔々と話し続けていた。
遊戯室の一角にベンチを三つ集めて、ローテーブルに適当に飲み物を並べただけの状態。
聖の対面に座っているのは隼人。
眠そうな目をしながらも、いつの間にか飲み物は缶コーヒーに切り替えてなんとか聖の話について行こうとしているように見える。
隼人の隣では、付き合い程度に香織が缶ビールを傾けていた。オリオンはすでに部屋に戻っている。
樒はエレナと並んで座っていたが、いつの間にかエレナは目を閉ざしていた。寝落ちしたのかもしれない。
(普段隙が無い印象なんだけど、さすがに疲れたのかな)
無防備で、どうしようかなと悩み始めたところで、聖から「蜷川」と名を呼ばれる。
「『海の星』っていま付き合いのある八百屋に基本は任せているんだよな。青野さんだっけ」
伊久磨は聖に目を戻し、缶コーヒーを飲みながら頷いた。
「シェフが休日にスーパーで買ったりもしていますけど、毎日の仕入れは西條さんも知っての通り基本は青野青果店です。ただ変わった食材の仕入れはコストが……、シェフとしては、信頼できる生産者さんとまさに今の西條さんみたいな話をしたい思いはあるみたいですけど、あの忙しさだし、なかなか。春から秋にかけては、俺とシェフで庭でハーブ育ててましたけど」
聖が加わったのは雪深い年末からなので、緑溢れる季節の「海の星」はまだ未経験だ。
緑茶のペットボトルで喉を潤してから、聖は「そういえば」と続けた。
「この間、エディブルフラワーでも苦労していたよな。フローリストがこっちに来るなら育ててもらえばいいのに。実家が造園業なんだよな。あれ、建築?」
「両方。本人の特性を考えると造園業を継いだ方が良さそうな気はしますけど……。会社を継ぐかどうかまでは聞いていませんが」
答えながら、あまりにも自然に水を向けられたことに少しだけ驚く。
(西條さんの中で、静香は完全にこっちに来ることになってるのか)
結婚しますと明確に言ったつもりもなかったが、その前提で考えているのが知れた。
なんとも言えないまま、伊久磨は缶コーヒーを一口飲む。
おそらく、それが一番良いであろうと頭では理解している。静香は地元だし、家業もあるので戻ってきても仕事は何かしらあるはずだ。
今のまま離れて暮らしていれば家賃や交通費がかさむ。結婚しようにも子どもを望むのも難しい。静香とはまだ話し合っていない部分ではあるが。
一方で、伊久磨としては、他の店で働いてみたい気持ちもあるが、「海の星」の状況を見ながら短期の研修で経験を積むのがベストではないかと考え始めている。
伊久磨自身が働きたいのは「海の星」であり、経験を積んで戻ってきても「海の星」がなくなってしまっていたら元も子もないからだ。
「お前、せっかく農業しているなら、その辺考えてみろ。今と違うことをした方が面白いぞ」
聖に言い切られた隼人は「んん~~」と唸っている。
不思議と、さほど嫌そうには見えない。
当初、樒に引きずられてこの場にきたときは、むくれていた。由春と何かあったらしいというのはわかった。明菜をめぐって。
しかし、本人にどれだけ揺すぶりをかけても「偉そうに説教された」と言うだけで、要領を得なかった。
そのうち、聖が「農業って、何を作っているんだ」と聞き始め、いつの間にか仕事の話になっている。
隼人は、意外なほど真面目に耳を傾けていた。
(夕食のときは樒さんに話相手になってもらって……。岩清水さんには「説教」されて? 西條さんには仕事の話を吹き込まれて)
樒や由春、聖はいずれも隼人の生活圏には今までいなかったタイプと思われた。少し年上の、こういう相手と真剣に向き合って話す機会などなかっただろう。
それが果たして、隼人の中でどういう理解になっているのか。
聖の並びに座った伊久磨は、向かいの香織に視線を流した。
気付かれて、目で「なに」と聞かれる。
「香織、オリオンと仲良さそうだなと」
「ああ。新作の相談してる。いろいろ面白い」
さらりと好意的に答えられて、伊久磨が返事をしそびれていると、「なんだよ」と今一度尋ねられる。
苦笑しながら、伊久磨は空になっていた缶コーヒーをテーブルに置いた。
「職人同士、いいなと思って。こう、ふたり、ずっと話が途切れない感じだったし」
「向こうが合わせてるんだ。年上のせいかな」
「うん、わかる。オリオン、そういうところある」
(だけどそれだけじゃなくて、香織個人を気に入っているように見えるけど)
ここのひとたち、集まると結局仕事の話になるんだよなと思いながら、伊久磨ははっとエレナに目を向けた。忘れていた。
眼鏡を外して、袖でくもりをふいていたらしい樒に気付かれる。
灰色の前髪の間からのぞく目に、にこりと微笑まれた。
「この美人どうしよう。俺が部屋に運んでも良いんだけど、セクハラしなかったって誰か証明してくれる?」
すっかり寝落ちてしまったらしく、樒の腕に頭がもたれかかっていた。
「……明日起きてから、藤崎さんへこみそう……」
伊久磨の呟きで、聖と香織が同時にそちらに目を向けた。
「俺は絶対にセクハラしないって、藤崎わかってるから。俺が運ぶ」
言いながら聖が速やかに立ち上がったが、眼鏡をかけ直した樒は「いいよ」と鷹揚に言って、その体勢からエレナを腕に抱え込んで持ち上げた。
ひと一人の重みをなんとも思っていないかのような抜群の安定感で、音もなく立つ。
「起こすとかわいそうだから静かに運ぼう。ドア開けて」
受け渡しをすれば起こしてしまうから、と言わんばかりのさりげなさで。
争う場面でもなく、聖もどことなく腑に落ちない様子ながら「わかった」と言って先に立った。
伊久磨は香織に目を戻したものの、まるで気付いていない様子で遠くを見てビールを飲んでいた。気付いていないのではなく、避けたのだろうなという気がした。
隼人は缶コーヒーを飲み干したところで、ちら、と伊久磨に目を向けてくる。
視線が絡んだ、ちょうどそのとき。
廊下から「何してるんだ!?」という聖の大きな声が聞こえてきた。「消灯をかねて見回りです」と答える明菜の声が続く。「由春もなんでここにいるんだよ!! いや、二人が一緒なのはべつに構わないけど!!」とひたすらうるさい。
「声大きい……」
伊久磨は苦笑を漏らした。
「起きるって。あの馬鹿」
堪りかねたかのように、香織も毒づく。
「藤崎さん、椿邸でもあの感じなのか。飲みながら寝ちゃったりとか?」
「無い。今日は疲れたんじゃないかな。酒飲んで温泉入って卓球して。強ぇし」
手持無沙汰のビール缶をぶらぶらとさせながら、香織は不意に隣の隼人に肩をぶつけた。
「ま、ご愁傷様」
「なんだよ」
睨みつけた隼人の間近な位置で、にこーっと艶やかに微笑む。
「べつに。相手が悪かったなーと。岩清水だからな。とりあえず、慰めてくれるお兄さんたくさんいて良かったじゃん」
「あんたは何もしてないくせに」
即座に言い返されて、香織はさらに目を細めて笑みを深めた。
「俺が良かった? 何して欲しい?」
冗談。
なのはわかっていても、揶揄いの度が過ぎる。近すぎる位置に動揺したように、隼人が思いっきり顔を逸らした。
「よし。じゃあ片づけて解散しよう。明日も運転しないといけないし、睡眠はしっかりとっておかないと」
だいぶ夜も更けてるけどなーと思いながら、羽織りのポケットからスマホを取り出して確認する。
一時間前に静香から連絡が入っているのを見て、伊久磨はしばし考え込んでしまった。
(寝てるよな)
「起きてるよ」
まるで心を読んだかのように言いながら、香織も立ち上がる。
何も言い返せない伊久磨の不甲斐なさを詰るように、はっきりとした命令口調で言った。
「連絡しとけよ。待ってるから。そういう性格」
伊久磨の返事も待たずに、ビニール袋に缶とゴミをざっと入れて、隼人をひっつかんで立たせた。
そのまま、ずるずる隼人を引きずりつつ出て行く。今晩泊まりの隼人も、最終的にはどこかの部屋に落ち着く必要があるわけで、念のため自分で見ているつもりなのかもしれない。
その背を見送って、伊久磨はスマホに目を落とした。
――起きてるよ
――連絡しとけよ。待ってるから
――そういう性格
スマホを操作して、電話してみる。コール三回ですぐに出た。
「寝てなかったんだ。遅いからどうしようかなって思ったんだけど」
あ、うん大丈夫大丈夫、なんとなく起きてた、といつもの明るい声がスマホから漏れ出して、伊久磨はひそやかに笑った。
まだ。
(香織の方が、静香に詳しい)
「いろいろあって飲まなかったせいもあって、目が冴えてて。少しだけ話してもいいですか。そうだ、ここ山奥で、雪が晴れたんですけど、雲もなくて星空がすごいです。露天風呂に入ったときに見えました。すぐには無理でも……計画立てて、出かけましょう。今度は二人で。どこかへ」