踏み込む勇気
「飲めば」
伊久磨が風呂上りに遊戯室に顔を出すと、缶ビールを傾けていた聖に声をかけられた。
腰掛けているのは、屋外の公園に置いていそうな、青ペンキで塗られたベンチ。裾の乱れを気にしないで、長い足を組んでいる。スリッパが片方脱げて床に落ちていた。
卓球台ではエレナと香織が対戦中。
(藤崎さん動きキレッキレだな)
食事前には別のメンツに圧勝したって言っていたっけ、と思いながら伊久磨は聖の横に腰を下ろした。
「アルコールはやめておきます」
答えながら、腕を組んで背もたれにもたれかかる。
そのまま、見るとはなしに卓球の試合へと目を向けた。
暗黙の了解で誰一人ラウンジには近づかないため、遊び足りない大人が遊戯室に集合することになった形だ。
しばし無言の後、ふと聖へと視線を流す。
夕食から飲み続けているわりに、特に酔った様子もない横顔。
伊久磨はさりげない様子を装って、口火を切った。
「喧嘩。香織との、もういいんですか」
ビールの缶を口から離して、聖が目を向けてくる。青い瞳は透明度の高い宝石のように澄んでいた。
伊久磨と目が合うと、瞼を伏せてしまう。長い睫毛が頬に影を落とした。
「……その件では蜷川を巻き込んで、悪かったな」
しずかな声音。
その顔を、伊久磨は口を閉ざしたままじっと見た。
なにぶん、西條聖は普段動きを止めていることがほぼないので、こんな近くで落ち着いて見る機会などそうそうない。
改めて眺めてみれば、呆れるほど綺麗な造形をしていた。
(慣れって恐ろしいな)
新年早々の営業日、彼が店に立ったときの客席の反応を思い出す。
見ていられなくて、そっと視線を外した。
「やめてください。西條さんにそんなにしおらしくされたら、明日は大雪ですよ」
「もう一泊していくか?」
「岩清水さんは置いていくとしても、俺は帰ります。店開けないといけないので。もちろんそのときは、西條さんを引きずってでも連れて行きます。料理を作るひとが必要ですから」
うかがうように伊久磨を見ていた聖は、軽くふきだした。
「俺は部外者だ。いつまでも『海の星』にはいない」
視線を合わせようと伊久磨が顔を向けると、逸らされる。卓球を見ているふりをされる。
その横顔に、伊久磨は一息で言った。
「知っていますよ。だから、いる間は使えるだけ使うつもりなんです。実際のところ、いつまでいるつもりですか。今日? 明日?」
「急だな」
突きつけた問いををかわされた気がして、伊久磨は体ごと聖に向き直った。
「この仕事をしていると、そういう覚悟が必要だと思うようになってきました。幸尚が決めた途端にいなくなったように。藤崎さんやオリオンがすぐに店に立っているように。出会いや別れは待ってくれません。予告くらいは欲しいんですけど。西條さんは」
諦めたように顔を向けてきた聖は、口の端に薄く笑みを浮かべて言った。
「いつまでがいい?」
「俺が決めていいなら『ずっと』って言いますよ。給料面で折り合いがつけば、ですが」
「お前そんなに俺のこと好きだったっけ」
照れ隠しに憎まれ口を叩こうとしたのかもしれないが、普段ほどに覇気がない。まるで押し切られるのを待っているかのように隙だらけで、伊久磨は一瞬真顔になってしまった。
(弱ってる)
それはほとんど直感で、今にも手を伸ばしそうになった。ぎりぎりで堪えた。消えてしまう前に摑まえなければいけない焦燥感があるが、まずは言葉で伝えねばと。
「好きですよ。すごく好きだし、大好きです」
聖は淡く微笑んだまま。
「よく見ろ、俺だ俺。岩清水じゃねーぞ。お前のシェフはあいつだろ」
言われて、少しだけ考えてから、伊久磨は顔を逸らして溜息をついた。
「岩清水さんは明菜さんに差し上げましたので……。もうあちらで煮るなり焼くなり好きにして頂ければと……。いや、こんなこと言ってますけど、二人の幸せを願っていますよ。ほんとです」
「落ち込んでる」
何を言うんですか、と伊久磨は首を振る。
「まさか。祝福してます。今なら神父の真似事だってできそうです。いっそ、健やかなるときも病めるときも一緒にいると誓って頂きたいです。この場で」
「それは気が早いだろ。あの二人そうすんなりいくかね……」
伊久磨の剣幕に、聖はにやついてふっと吐息をもらした。笑ったせいか、少しだけ表情が明るい。
それでも、目を離せばどこか遠くへ行ってしまいそうな儚さをまとっている。
(遠くへ行くのは良い。そのまま消えてしまいさえしなければ)
「西條さんが俺のことをどう思っているかは知りませんけど、俺は西條さんのこと、友だちに類する何かだと思っていますからね」
勢いあまって本音が口から零れ出た。
「なんだよそれ。わかんねーよ」
それはそうだな、と自分でも思った。
しかしここで退いてはいけないと、気を強く持って伊久磨はそっけなく言う。
「ストレートに『好き』って言ってもいいんですけど、西條さんさっきみたいに照れるから。でも友達というのもしっくりこないし。仕事仲間、かな。一緒に働いている間は毎日顔を合わせるけど、離れてしまえば連絡取り合うこともなくなる。そういう」
知らず、思い浮かべたのは自分と幸尚のこと。
仕事中は息が合っていたし、仲も良かったが、繋がりを失ったいま、用事がなければ連絡することもない。今日は何食べた? なんてわざわざ聞く間柄では絶対に無いから。
ある種の緊張感が、どうしてもついてまわる。
明確な、「他人」としての距離感とも言える。
「西條さんに、何処にも行かないで欲しいとは、言えないです。他人の人生なので。でも遠慮して口出さないでいると、それまでなんですよね。時間は容赦なく流れて、いろんなことが決まっていってしまう。そこに自分が関わろうと思うこと自体、おこがましいんだって一旦は納得しようとするんですけど……。そういう行儀の良い人生送っていると、どんどん臆病になります。ひとと関わること。自分の意見を言うこと」
「何か後悔していることでも?」
聖らしい鋭さで聞き返されて、伊久磨は視線をさまよわせた。
エレナの打った球を返しきれないで、香織が悔しがっている。意外に仲が良い二人の姿を視界に収めつつ、考え考え言った。
「後悔……は、しないかな。『後悔すらしなくなる』が近いかもしれません。『自分が口を出していたって、この結果は変えられなかった』たとえ相手が死んでさえ、そんな風に納得しようとする気がします。死んでほしくないと思っても、人間死ぬときは死にますから。そうやって、『変えられなかった』と乗り越えざるを得ないこともある……とは思いますが」
変えられない過去。予測のつかない未来。
そのすべてに拘泥していては、いずれ息もできなくなる。前に進むためには、ある程度振り切って進まねばならない。
それでも。
目を閉じる。
(俺の精神は一度死んでいる。二度目の人生があるとすれば、あの時から)
椿香織に手を差し伸べられた夜から始まっている。
縁もゆかりもない人間に関わろうとした、あの行動に救われたことを、自分は忘れてはならない。
見過ごさないことで、誰かの命を繋ぎ止めることもできるのだと。
ゆっくりと目を開けて、噛みしめるように言った。
「本音を言えば、誰にも死んでほしくなんかないんです。もちろん不死なんかあり得ないので『俺より先に』という注釈が入りますが。その……、もうはっきり言いますけど、西條さん、死なないでください。目を離すと死にそうで嫌なんです。できれば遠くに行かないでこの辺にいてください。俺の目の届く範囲に。死にたい夜に電話してくれればすぐに駆け付けますから」
言うだけ言って目を向けると、聖は微苦笑を浮かべていた。めずらしく、すぐには言葉が出てこないようだった。
やがて、深く息を吐いて言った。
「俺、そんなに死にそう?」
「それはわかりません。でも生きる理由があまりなさそうだとは思っています」
「お前、きついなそれ」
「事実ですよ。生活見ている限り、金遣いが荒いわけでもないですし、名誉欲もなさそうです。家族も穂高先生以外、俺の知る限りはいません。料理は好きだと思いますけど、食べてくれる人が見えていないとやる気が出ないタイプ。大きなレストランで厨房にこもっているのはおそらく向かない。能力的に岩清水さんと変わらないなら、さっさと自分の店を持ってしまえばいいのに」
欲しいものも、しがらみもなさそうだから。
こんなにも生き生きしているのに、他人の目からは見えないどこかが凍り付いていて、いつ死んでもおかしくない危うさがある。
(死んでほしくない)
そう思っても、友人とも言い難く、家族でもない伊久磨からすると、遠くへ行かれてしまっては手の出しようがない。
「……店なぁ……」
足を組み直して、聖は遠くを見た。
自分の意見程度で聖を動かせるか、伊久磨としては甚だ自信のないところであったが、敢えて強気に押し通すことにした。
「店ですよ。岩清水さんも香織も樒さんも自分の店を持って潰さないでやっていけているのに。西條さんだってやってやれないことはないんじゃないですか。従業員がいつくかはわからないので、一人で出来る形態が合っているかもしれませんが」
「お前、一言多いよ」
苦笑いして、思い出したように缶ビールに口をつける。
ちょうどそのとき遊戯室のドアが開いて、樒とオリオンが顔を見せた。
なぜかふくれっ面の隼人を引きずってきている。
伊久磨は思わず聖と顔を見合わせてから、そちらに目を向けた。
「酒まだあるー? ちょっとこの子と飲みたいんだけどー。残念会ー。ライオン丸の勝ちー」
樒が、隼人を小脇に抱えたままのんびりと言う。
何があったかはほぼ正確に察した伊久磨は立ちあがり「そういうことなら、ここにどうぞ。歓迎する。詳しい話をきかせてもらいます」と場所を空ける。
最悪の機嫌であるのを隠しもせず、隼人は「うるせぇよ」と吐き捨てるように言った。