星の降る夜(前編)
※(前編)(後編)同時投稿です。
絨毯の上に投げ出していたスマホが光って、振動した。
振動自体は微かなものだったが、由春の座る位置からも光は見えたのだろう。
「オーナーからの連絡かもしれないし、先にそっちを確認してくれ」
何か言う前に先回りされ、理由ももっともだったので明菜はスマホに手を伸ばした。
「すみません、ほんとだ、春さんから着信あったんですね。気付かなくて……」
画面を見ながら、早口に言う。沈黙を恐れるように。
そのまま、受信したばかりのメッセージを表示する。
――おつかれさまー。そろそろ仕事終わった頃かな。あのね、春さんと話した? 私、春さんから口留めされていたから言わなかったんだけど、春さんが明菜に声かけるの先送りにしたのって「明菜に結婚を約束した彼氏がいるから」じゃないからね。付き合っているひとがいるかどうか、私の知る範囲では「今働いているところで知り合ったひとで、それらしい相手はいるかもしれない」とは言ってあるけど。
(……こ、心愛……!!)
トークアプリで、何通かに分けて送ってきている途中のようで、読んでいる最中にメッセージが追加される。
――春さんね、明菜がこっちに帰ってきた頃に家に会いに行っているんだ。携帯の番号が前と同じかどうかわからないから、連絡しないで行っちゃったんだって。お見舞いで。そのとき明菜のお母さんに「娘につきまとわないでほしい」って門前払いくらっちゃったみたいで。
(聞きました。胸が痛いというかもう魂が痛いです。春さんだいぶマイルドに言っていたけど、お母さんもしかしてすごい剣幕で追い払ったんじゃないかな)
親心、わからないでもないのだが、辛い。
冬の間、ペンションの仕事に送り出してくれたのも、市内で鉢合わせを避けるためだったんじゃないだろうかと思えてならない。
――私が産休に入るのもあるし、いま「海の星」に助っ人で入っているひとも抜けるから、明菜のことは春さんの頭にあると思う。もし嫌じゃなかったら、春さんと話してね。「海の星」には蜷川くんがいるけど、「ボナペティ」で明菜が経理事務方面引き受けていたみたいに、伝票処理とか事務仕事を片付けてくれるだけで全然違うはず。朝早めにパンを焼いて販売に回して、ランチのホールを手伝って、事務仕事片づけて上がるとか。もしくは、ランチのホールから働いて、事務仕事して、ディナー用にパンを焼いて上がるとか。いまの明菜の特性考えると働き方は色々あると思う。
――お母さんとの経緯とか。結婚って嘘ついていたの、春さんには最初っから嘘ってバレてるとか。先に明菜に言ったら、会う前に逃げそうだなと思って黙ってたんだ。ごめんね。とりあえずそういうことだから、後は春さんと話して。
――じゃあねー。おやすみー。
伝えることはすべて伝え終わったとばかりに、メッセージはそこで終わり。硬直している明菜の手の中で、スマホはふっとブラックアウトした。
「明菜?」
ひそやかな声に名前を呼ばれて、明菜はスマホを取り落とした。
「返事が必要なら遠慮しないでいいぞ。待ってるから」
「あ……ええと……大丈夫……です」
色々と、逃げ出したいだけで。
(私が、自分は取るに足らない存在だといじけて閉じこもっている間に……。春さんはやることやっていて、嘘には騙されたふりをしてくれていて……。なんか……、そういうとこ。そういうところが)
周りに、人が絶えない理由。
『他人の能力を認められるのは、自分の能力をきちんと認められたことがある奴だけだ』
ひとりひとりが、何が不得意で何ができるのか。よく見て助けてくれるし、認めてくれる。岩清水由春のような、誰よりも努力をして、実力を伸ばしてきたひとに認められることで、少しずつ「自分」を受け入れられるようになる。何かできそうな気がする。
だから、出来る限りそばにいたいと、願ってしまう。
(うまくいかなくなるのは、「春さんになりたい」と、その存在に嫉妬したり……、春さんの「特別」になりたいと、独占欲を持ち込んだ場合だよね)
このひとのそばにいたいのなら、「その他大勢」であることも受け入れなければならない。
自分にそれができるだろうか。
出会って以来ずっとこのひとに恋をしている自分に。
「話を始めていいだろうか」
この声が好きなのか、好きなひとの声だからこんなにも心地よいのか。
明菜は瞑目する。心に刻みこんで、忘れないでいられるように、と。願いながら。
「はい」
覚悟を決めて返事をする。
* * *
由春からの提案は、心愛のメッセージと大筋は同じであった。
「数日以内に佐々木が産休に入る。キッチンとホールを見ている西條も近々抜ける。藤崎は春から調理師学校に進む予定で、基本は土日と平日夜の勤務に。オリオンがいつまでかは、まだわからない。この辺が気に入ったみたいだから、思ったより長くいるかもしれない。そうすると、キッチンに俺、ホールに蜷川の基本は変わらないが、人手は足りていない。明菜には、事務仕事を兼ねて平日のランチにシフトで入ってもらえれば助かるんだが……」
話を聞く限りは、思った以上にぎりぎりだ。
(コスト管理は飲食業の要……。経費を下げるためには原材料費をおさえたり、人件費をカットするしかないけど、春さんとしてはコストダウンではなく、「売上を伸ばす」方向で考えているはず。だとすれば値上げ以外では回転効率を上げること、人手が必要になる。新人の育成をしながらよりは、経験者を入れた方がやりやすい)
スタッフ事情と店の経営を考えるに、明菜に声をかけているのも、決して昔馴染みのよしみや同情ではないのは明らかだ。
腹心としての伊久磨がいるとしても、店の拡張など次の展開を考えれば、それだけでは足りないのだ。
「すごくやりがいのある仕事だとは思うんですが……。問題は私の体力ではフルタイムでの勤務が現状難しいこと……。そうすると収入の関係でも実家暮らしをしながらになりますが、親の反対を受けながらになるので。問題はそこではないかと」
「そこを解決できれば、明菜としては問題ないということで大丈夫か」
解決しようがない難問のはずなのに、さらりと切り返されて明菜は言葉に詰まる。
(破格の時給にするとか、社員寮を用意するとなるとかえって痛手のはず)
「明菜?」
急かす様子ではないが、確認するように名を呼ばれて、明菜は吐息した。
「解決は難しいと思うので、答えようがありません」
「いずれ、親御さんへの挨拶は行くつもりだった。反対を押し切る形ではなく、納得してもらってからと考えている。もし勤務時間や給料面で強い要望があれば、最大限そこに沿うようにする。もちろん今いる従業員との兼ね合いも見ながらにはなるが」
(そうだよね。「親への挨拶」は考えていると思っていた。うちの親に言われて、私と会わないようにしていたくらいだもん。店に呼ぶならそこの筋は通すひとだ)
ここで明菜がお願いしますと言えば、すぐにでも動きそうな気がする。それでも。
「雇用面に関しては、それは、そうですね。私は春さんの昔のお店で働いていたこともあるし、経験者でもありますが、『海の星』で蜷川さんより重用して欲しいですとか、そういうことは考えていません。もし採用になっても、他の皆さんに不満の出ない形でして頂けたらと思いますが。そこではなく……うちの親が何て言うか、本当にわからないんです。私が体調崩したことで、この仕事そのものに対しての不信感が強いです。私も一度失敗しているので『絶対大丈夫』と押し切ることができません。根拠がないですから」
「体調面での不安が完全になくなるまでは、事務メインだとしても?」
「それは私が無理です。営業のすごく忙しい気配を感じながら、事務室に閉じこもっていることはできません。絶対に働いてしまいます」
その場にいなければ手は出せないが、居合わせていて何もしないというのは自分が耐えられない。
結局、忙しければ忙しいだけ働いてしまう。
「すみません……。この年齢になって、親の言うことを気にしなければならないのも不甲斐ないんですが。体調を崩したり、金銭的に独り立ちできないというのは、つまりそういうことで。半人前というか」
「だとすれば、住む場所か。『海の星』に住むか? 店舗に使っていないスペースに、住もうと思えば住める。少し改装は必要になるが。余裕が出てきたら手を入れて俺が住むつもりだった」
さらっと変なことを言い出した。
明菜は一瞬アリかなとは思ったものの、すぐにその考えを打ち消した。
「どうせ家賃は格安でと言うつもりだと思いますが、私の親からすると『住み込みで昼夜の区別なく』みたいに言われますよ。飲食業に対する警戒心高いので」
「そこだよな……。明菜は欲しいんだが、困った」
さすがに由春も弱音をもらす。
明菜はふふっと噴き出して明るく言った。
「春さんにそこまで言ってもらっただけで私は十分ですよ。でも、言い方はよくないので気を付けてくださいね。春さんみたいなひとに『欲しい』と言われたら、誤解する女の人いますよ」
しん、と沈黙になった。
(長考? 春さんにしては珍しい)
どうしたんだろう、と窓際の由春へ目を向けると、瞑目して考え込んでいた。やがて、目を開けると明菜をじっと見つめながら口を開いた。
「そういう意味で言ってもいいか」