再会
「泣くのは俺の前だけにしておけよ。来るのが遅くなって悪かった」
このひとは。
どうしてこんなことを言うのだろう。
明菜は熱い涙を止められないまま見上げ、呆然としてしまった。
その目に、袖を軽く押し付けられる。
「明菜が、背負い込む性格なのは知っている。だけど、ここは譲って欲しい」
低くて明瞭な声。視界が塞がれているせいで、距離感がわからない。すごく近く感じる。
(……春さんに迷惑をかけたくない。春さんが私とは比べものにならない大きい存在なのは知っている。だからこそ、こんなこともできないかと思われたくない)
「助けられ、たくない」
袖を掴んで自分で目元の涙を拭いながら、絞り出す。
「うん。わかってはいるんだ」
声が。あまりにも優しくて、涙がじわっと追加で溢れてくる。強く強く袖を目に押し付ける。
どうして、と尋ねた声はかすれていた。
「明菜が弱り過ぎているから。普段なら、俺の手なんかいらないことはわかってる。今だけだ」
「弱い……」
“対等の存在とみなされていない”
満足に仕事を覚える前に、体を壊して逃げ帰ってくるような役立たずだから。
こんな男ひとり振り払えない弱い女だから。
(弱くてごめんなさい)
あなたに必要とされるくらい、強い人間でいたかったのに。
「これはお前のせいだな。側にいて、どんどん自信を失わせるような男はだめだ。自覚あるか?」
明菜に袖を預けたまま、由春が隼人に向かって言った。
「俺のせいってなんだよ。俺はべつに」
「好きなのも惚れているのもわかるんだが。いじめて気をひくのはよくない」
さらさらっと頭上でかわされる会話。耳を傾けていた明菜は、息を止めてしまった。
(す……好きとはちがうとおもう! 坂巻くんの場合は手近に他に女性がいないからだし。周りが「公認カップル」として男女交際を推奨している雰囲気があるから、合わせているだけ! なんだかんだで娯楽が少ないから、娯楽を提供する責任を彼なりに感じているというか!!)
あまりにも由春の発言が突拍子もなさすぎて、涙がひいた。
心の中は反論で大忙し。
それでも濡れている顔を見せたくなくて、袖に埋まったまま無言になってしまう。
「好きとか惚れてるってなに? そうだって言ったら、社長さんはどこかに行ってくれるの?」
(坂巻くんも乗らないで。それじゃまるで、私のこと好きみたいじゃない)
二人で一人の女をめぐって争っているかのような状況になりつつあるが。
坂巻隼人→ 年長者に対して明るい馬鹿キャラとして振舞い、その一環として演技で「恋人」しているだけ。
岩清水由春→ 一度従業員として雇った相手には、会社を離れたあとも責任がある。
(大体こんな感じ↑だよね……? ふ、二人とも全然私のこと好き要素ないよね……?)
大いに疑問を抱いて硬直している明菜の横で、由春がふっと笑う気配があった。
「どこにも行かない。明菜と待ち合わせていたのは俺だ。しかしその前に、お前だな。さすがに見ていられない」
「見ていられないってなんだよ。なんでそんなに偉そうなんだっての」
「無駄につっかかるな。流せよ。ええと、今から残酷なこと言うから覚悟しろよ」
まるでじゃれあうかに見えた一瞬。由春の言葉で場が静まり返る。
隼人が口をつぐみ、明菜も息を止める。
由春は、涼しい声で告げた。
「他人の能力を認められるのは、自分の能力をきちんと認められたことがある奴だけだ。お前はそこが足りていない。だから、好きな女を自分のいるところまで引きずり降ろそうとする。まるで弱い存在であるかのように言い聞かせ、自分用に作り替えようとしている。逃げられないように、足の腱を断ち、羽を切り落としてまで。側にいればいるほど傷つける。離れろ」
厳然とした、命令口調だった。
束の間の空白の後。
「何言ってんの」
食らいついた隼人に、由春は穏やかな調子で続ける。
「落ち着いて考えてみればすぐにわかる。というか、お前頭の回転速いからもうわかっている。いまお前に必要なのは、認められること、なんだよ。傷つけて弱らせた相手に、無理やりそのままの自分を『認めさせること』じゃない。認めてほしい相手を振り向かせる何かを、自分の手でつかみ取ることだ。きついぞ」
「ほんっと何言ってんだか」
冷静さを失っているのは隼人で、声に焦りや苛立ちが滲んでいる。
「偉そうだし。年下の田舎者には、いきなり説教してもありがたく聞いてもらえるって勘違いしてるの、すげえわ。何様って感じ」
「そういうところも。すぐにどちらが『上』かという話になるが、どれだけ挑発しても無駄だ。大体その『上下』は何で決めるんだ。お前にとって、何で勝てば上に立てるんだよ。口喧嘩か? 負けないぞ」
戦ってる。
(なんで……?)
強烈な違和感に涙が完全におさまってくれたので、明菜はそーっと袖から顔を離して、由春の横顔を見上げた。
記憶にあるより、大人びている。
料理を作っているとき以外は、ぼんやりとしたところもあって、完璧とほど遠くて……。実物を前にして、少しだけ記憶が修正される。
(本当に、料理にしか興味がなくて。あと掃除。接客なんか見られたものじゃなかったし。毎日失敗もたくさん……。めげないところだけが取り柄で)
何度、経費のことや営業のオペレーションのことでやりあったことか。
そうだ、出会った頃は何度も行違って、喧嘩していた。
手が届かないひとだなんて思ったこともなくて、ごく自然に会話して、恋もしていた。告げられなかったけれど。
由春は海外に行くことが決まっていたし、自分は一度大学に進んだ。その後いつ人生が交わるのか、その時点ではわからなくて、安易な約束でお互いを縛ることなどできるはずもなく。
(何年も同じ気持ちでいるわけがないと思っていたし、違うひとを好きになるはずだと思ってた)
まさか今でもこのひとのことだけが、こんなにも好きだなんて、思いもしなかった。
「……寝る」
ふいっと、隼人が顔を背ける。
そのまま立ち去ろうとした背中に、由春が呼びかけた。
「レストラン『海の星』だ。今日はずいぶん料理を褒めてくれていたみたいで、どうも。もしそういう仕事に興味があるなら連絡してくれ。とはいえ、家業のほうで頼りにもされているだろうし、いきなりうちで働いてくれとか、そういう話じゃない。まずは酒が入ってないときに話そう」
肩越しに振り返った隼人は、唇を動かしていたが、声にはならなかった。
首を振って、そのまま闇の中へと歩いて行ってしまう。
黙って見送ってから、はっ、と明菜は息をのんで固まった。
(二人きりになってしまった)
袖も掴んだまま=距離がものすごく近い。
この手を、自然に離して、それから……。
まわらない頭で、次の行動を考えていたところで。
「涙、落ち着いたか」
染み入るような声。視線を感じる。
(なぜだろう。穴があったら埋まりたい……)
俯いたままなんとか袖を離すと、ふいっと空気が揺らいで由春の気配が遠のいた。
「ストーブの火、落としてないんだな。明菜は温かいところで。寒いから、こっちにおいで」
考えるのやめよう。
由春が呼んでいるストーブの前までふらふらと近づいていくと、由春は窓際に移動した。
「こんな遅くに時間作ってもらって悪かった。負担にならないように手短に話す」
明菜がストーブ前の絨毯に膝を抱えて座り込んだところで、由春が切り出した。
声を聞いているだけなのに、膝ではなく頭を抱えたい気分になる。好きだと自覚してしまったせいで、心臓が痛い。思ったそばから、ドキドキと動悸が高鳴り始めて(やめてーー)と無言で悲鳴を上げた。
(手短じゃなくてもいいです。でも長いと心臓が壊れるかもしれない)
そんなに鳴ったら、聞こえるから、聞こえるから、と。
すぐ隣に座ったりしないのは、「紳士的」に適切な距離を置いてくれたに違いない。由春の考えはわかる。いろんな意味で助かった。
「まずは、本当に。もっと早く会って話すべきだったんだろうけど、遅くなった」
声の響きに苦いものが滲んでいて、何を言っているのかと、明菜は由春に視線を向けた。とても申し訳なさそうな顔で見られていた。
「東京で働いていたときに店に行った。声はかけなかった。体を壊して戻ってきたと聞いたときも、家に行ったが」
「知らない」
(はじめて聞いた)
由春は吐息して、続けた。
「明菜のお母さんが俺を覚えていた。それで……、会わないでほしいと」
「お母さん……?」
意味が分からず、聞き返す。
明菜の反応に、由春は眉間に皺を寄せて床を見つめた。
「言っていることはもっともだと思った。明菜には、もう少し、違う職種について欲しかったし、体を壊すほど働きづめの生活は送って欲しくなかったと。俺を見るとそもそも『ボナペティ』でのバイトがなければと思ってしまって、複雑な気分に……まあ、わかる」
由春が言っている内容を咀嚼して。考えて。考え抜いて。明菜は足元が崩れていくような感覚に襲われた。
「知らなかったとはいえ、母が失礼を」
「それは明菜が気にするところじゃない。俺に会って欲しくない、関わって欲しくないというのはわかる。明菜にはここで飲食を離れて、違うことをして欲しいという親心もわかる」
言葉が思考に染みこんでくる。
(会おうとは、してくれていたんだ……)
顔向けできないと躊躇って、動きだせなかった明菜とは違って。
東京で。近くまで来ていた。
実家に戻ってからは、会いに来てくれて、門前払いを。
何度かすれ違っていたのだ。明菜が気付かなかっただけで。
何かを言おうとしても声が出て来ず、うまく話せない。
由春は、微笑を浮かべて見つめてきている。
「親御さんには申し訳ないと思っている。出し抜くような形になったかもしれないが、俺はどうしても明菜本人と話したかった」
「春さん。私も……」
それ以上、胸が苦しくて言えない。
明菜の見つめる先で、由春が頷いてみせた。
「ずっと会いたかった。会えて良かった」
※雑談※(何かと余韻を大事になさる方はここまで)
感想欄をのぞいていただけると、見ての通り、毎回のように感想を寄せてくださるユーザーさんが何名様かいらっしゃいます。
書き手ユーザーさんの場合は私も作品を読ませて頂いていることが多いのですが、最近間咲正樹さまが「ドキッ☆信長だらけの乙女ゲーム」という作品を書かれていました(すでに完結済み)。
https://ncode.syosetu.com/n6933gs/
この作品は「転生先の乙女ゲームの攻略対象が全員織田信長に変わっていて……!?」というストーリーなのですが、数々の信長がヒロインをめぐって死闘を繰り広げる際に、
「私のために内乱はやめてッ!」
というパワーワードが飛び出す……え、何言ってるかわからないですか大丈夫ですか、話について来てくださっていますか、こちらですよー!!
とにかくそういう作品でして、今話を書きながら何度明菜が由春と隼人に「私のために内乱はやめてッ!!」と言いそうになったことか。
(あれー……? 「私のために争わないで」って「内乱」以外にどういえばいいんだ?)
と、真剣に悩んでいたあたり私も何か完全に飲み込まれていました。
それを言いたいがためだけにあとがきを書いてしまいました。
あと、よくよく考えると明菜は作品中にもある通り、「男性たちが自分を恋愛的な意味で取り合う」という発想にはならないひとだったので、そもそも「内乱」要素はなかったんですが。
本人は気付いていないだけでガッツリ恋愛的意味でやりあっているんですけど……
以上。
感想を書いただけであとがきでいじられるなんてことは普通ないので、はじめての方でもお気軽にどうぞ。ステラマリスはブクマの変動がほぼないという、いろんな意味で「ひとかたまりの強力な読者さまに支えられている作品」なので、なんなら感想欄もホームだと思っておいでください~
前回で200話・65万字到達しています。ここまでお読みくださってどうもありがとうございます。まだ続きまーす!