心の中の光
灯りを落として、静まり返ったラウンジの片隅。
談話スペースのストーブ前、絨毯の上で、明菜は膝を抱えて炎を見ていた。
うまく体が動かない。
疲れるほど、働いていないのに。
ゆっくりデザートまで食べ終わった後、キッチンとラウンジの片付けは瞬く間に終わってしまった。由春の手際が良かったせいもあるし、なんだかんだで全員動くので、指示を出すのが追いつかないほどだった。
そこから、温泉や遊戯室に分かれて各々過ごすということでラウンジは閉鎖。
食事中、起きたり沈んだりを繰り返していた隼人は結局潰れてしまい、樒が同室のベッドに寝かせると連れて行った。
明菜は翌日の朝食の仕込みを済ませてしまったので、仕事は終了。普段は風呂に入ってゆっくりしている時間だ。さすがに、今日はスタッフが自分一人なのでそこまで気を抜くことはできなかったが。
(身体が……頭が重い。ぼーっとしてる)
昼間。
駐車場で出迎えて、由春が青いレクサスの運転席から出て来たのを見た瞬間からだ。
気持ちは逃げたがっているのに、足が動かなかった。縫い付けられたように。
光を仰ぐように。
懐かしい。怖い。すごく変わった。変わってない。会いたかったけど、会いたくなかった。
消えてしまいたい。
声を聞くと嬉しいのに、面と向かうと言葉が出なくなる。
(遠くから見ているとか、気配を感じるとか。それだけでもう十分)
自分のことは構わないでほしい。気にかけないでほしい。ずっと胸が痛い。
期待には応えられない。期待されていないと知るのも怖い。何も成長していないのを見抜かれたら、見放されてしまう。
近づけない。
――明菜の仕事が終わった頃に電話する。どこか話せる場所で。
――ラウンジなら。
ぎこちなく約束して、それ以上の個人的会話はなかった。食事中は隣の席のエレナと話をして、他を見ないようにしていた。エレナは見た目で想像したより、ずっと話しやすい女性だった。
(……そろそろだよね)
絨毯の上に投げ出したスマホをちらちらと見る。まだ鳴らない。鳴っても出られないかもしれないが。緊張しすぎて。
「どうしよう」
避けているのは間違いなく気付かれている。それでも話そうとは。いったい何を話すつもりなのか。
わからない。わからなすぎて辛い。
逃げたい。
緊張が限界突破して、吐きそう。
明菜は膝を抱えて俯いた。そのタイミングで、背後で椅子やテーブルにぶつかるような物音がして、はっと顔を上げた。
恐れを抱きながら立ち上がり、振り返って目を向ける。
(春さん)
ではなかった。
ひどく機嫌の悪そうな隼人が立っていた。
* * *
「明菜って、あの『春さん』ってひとが好きなの?」
灯りを落としていたせいで、部屋は薄暗い。真っ暗でないのは、おそらく空が晴れ、月や星の灯りで窓の外の雪が明るいせいだ。
前置きも何もない問いかけに、明菜は押し黙る。
湧き上がる、苛立ち。この場で二人きりであるという緊張。
隼人の目つきは暗い。
「坂巻くんには関係ない」
「なんで? 『公認カップル』だけど、実際は付き合っていないから?」
明菜は視線を隼人に固定したまま、ひそかに息を止めた。
(やっぱり……。このひと、普段の言動ほど、「わかってない」わけじゃない)
周囲の期待に合わせて「彼氏彼女」のノリで押し切ろうとされるのは本当に迷惑で不愉快なのだが、一方でその隼人からは演技のようなものを感じていた。ときどき、冷静なのだ。
その冷静な部分となら話ができるのではないかと期待したこともある。今日も。
結局、うまくはいかないのだが。
隼人にはぐらかされることもあるし、明菜が狡猾な企みの気配を察して身を引くこともあるからだ。
そばにいると落ち着かない。神経がざわつく。
「社長なんて呼ばれて、みんなにすげー気を遣われて。何様なの、あれ。ああいう男と結婚すると、絶対に苦労する。家の中でもずーっと上下関係でさ。主人と奴隷みたいな感じ。所有物みたいに扱われるだけだ」
明菜は隼人の目を見つめ、抑えた声で言った。
「私は『岩清水さん』のプライベートは知らない。そうだとも、そうじゃないとも言えない」
隼人は顎を逸らして、目を細めた。
「偉そうだよなー。他人に命令するのも当たり前って感じ。周りも持ち上げすぎたと思うけど。ちょっと料理がうまいだけじゃん」
(このひとは)
明菜はすうっと全身から血の気がひくのを感じながら拳をきゅっと握りしめた。
何を見ていたのだろう。
「春さんが、偉そう……? 社長って呼ばれていたり、蜷川さんが『命令』を聞いているから? 蜷川さんは、春さんを尊敬しているだけだと思う。一緒に働いていれば自然とそういう気持ちになるひとだから」
ハッと隼人は小ばかにするように鼻で笑った。
「宗教みたいだな。同じ人間なのに、上下関係があるのは自然か? 『対等に扱われない』『いつも上から目線』『周りは自分より劣った存在』そんな男のどこがいいんだよ。見る目ねぇな」
このひとは。
何をわかったつもりになっているのだろう。
「春さんが、周りを劣った存在だと見ているとか、対等な人間として扱っていないとか……。そんなわけないじゃない。ちゃんとひとりひとり見て、大切にしてくれるひとだよ。今日だって、自分が一番働いていた。偉そうに指図だけして動かないとか、そういうこと絶対にない」
本来は働く義務なんかないのに、人手がないならと率先して引き受けていた。恩に着せるわけでもなく、手を抜くわけでもない。
それは、同行者たちが楽しく過ごすために労力を惜しまない性格だからだ。
それがわかっているから伊久磨は一緒に働いているし、周りは「いいから休め」と気を遣う。
偉そうで、持ち上げないと納得しない性格だからちやほやしないといけない、とは全然違う。
「もし坂巻くんに、春さんが周りを見下しているように見えたとしたら、それは坂巻くんの劣等感のせいだ。春さんが出来る人だから、勝手に嫉妬して萎縮してる。それを逆恨みして、まるで春さんが悪いみたいに言っているだけ。大きな声で批判すれば私が騙されるなんて、本気で思っている? そういうのやめて欲しいんだけど。私の前で春さんの悪口言うなんて百年早いよね。寝言かな? 天気も良くなったし、飲酒運転にならないならさっさと追い出したよ。二度と顔も見たくない」
話しているうちに、激昂してしまった自覚はある。止まらなかった。
岩清水由春というひとのことを、全然わかっていない小物が。比べものにもならない取るに足らない存在が。批判するなどおこがましい、と。
怒りは、信仰に似ていた。
それを見抜かれた。
隼人は狡猾な男なのだ。冷静さを失ったら、すかさず足元をすくわれる。
「明菜、変だよ。そういうの『妄信』って言うんだ。聞いたことない? DVされる女は一生DVされるって。『そういう男と縁ができやすい』とも言えるけど『相手をそういう存在にしてしまう』場合もあるらしいよ。明菜、それじゃない? そんな風に、『尊敬』みたいな言葉で誤魔化して、自分より強くて導いてくれそうな男に従う生き方をしていたら、いつまでも『対等な存在』として扱われない。仕方ないけどね。だってそれが明菜の望みなんだ。自分ひとりで生きていく自信がないから、頼れる相手を探していたんだろ。『社長』みたいなの」
毒だ。耳を傾けてはいけない。こんなものを飲み込んだら、全身が侵されてしまう。
逃げないと。
わかっていたのに、足が全然動かない。
なぜ自分が毒をぶつけられるか、わかっているから。
(劣等感を指摘した。それが急所だとわかっていたのに、貫いた。彼は鏡。やられたことをきっちりやり返してくる)
だまって刺される男ではない。傷つけられれば、同じかそれ以上に傷つけてくる。
言動には常に報復の刃が仕込まれている。
この毒を、刃を「自分が彼を傷つけた報い」として受け入れることこそが、彼と自分の関係を歪にする。
この男と寄り添って生きていくというのは、常に「この」状態ということだ。閉じたメビウスの輪のように逃れられない。どれほど息が詰まっても。
けれど、岩清水由春の元へ逃げても「よりよい相手に服従したいだけ」なのだとすれば。
ひとりで、生きねば。何があっても、誰にも頼らないで立っていられるように。
こんな男につけこむ隙を見せず。
優しいあの人の手を煩わせることなどないように。
制御できない涙が両目から流れ出す。
それでも隼人の視線の冷たさは一切ゆるがなかった。
不意に、その背後の闇が揺らいで、見知ったひとが姿を見せた。
隼人より背が高い。黒より明るい色の髪。眼鏡をのせた端整な容貌に、きりりと着こなされた濃緑の浴衣。
「電話に出ないから、ひとまず来た。先客がいたので待っていたが、そろそろ限界だ。明菜、離れて、後ろ向いてろ」
有無を言わさぬというほど強い口調ではない。むしろ労りの滲んだ声。
明菜はしゃくりあげながらそのひとを見て、唇を噛みしめる。
ひどく辛そうに吐息をもらされた。
「泣かなくていい。少し待ってろ」
目を細めて闖入者を睨みつけていた隼人は、鋭いまなざしのまま言った。
「そういうところ。ぜんぶ命令口調なの、どうにかならないのかなって。あんた明菜のなに? 昔の知り合いで、上司と部下だったとしても、おかしいでしょ。なんでそんなに上からなの?」
「上からか?」
隼人の挑発めいた物言いを飄々と流して、切り返す。
「自覚ねーの。怖っ。普段から社長社長言われてちやほやされてるとそんな風になるんだ。怖っ」
喧嘩腰に言い募る隼人の横を素通りし、そのひとは明菜のそばに立つと、自分の浴衣の袖をもう一方の手で掴んで明菜の目の前に晒した。
「悪いな。いま手持ちが何もない。これで良ければその涙をふくのに使ってほしい」
「春さん」
見上げた明菜に対して、乏しい雪明りゆえ青白く満たされた空間で、由春は微笑んだ。
「泣くのは俺の前だけにしておけよ。来るのが遅くなって悪かった」