泥沼に手を
「へー。サッカー部だったんだ。なんかわかる。君、そういう感じ」
左手に水割りのグラスを持ちながら、樒がふわりと笑った。
夜仕様のラウンジは灯りが絞られていて、淡いペンダントライトの光が飴色のテーブルを優しく照らし出している。
「保育園の頃にサッカークラブ入ってて、そこから高校卒業するまでずーっと続けてた。もちろん10番。周りの動きが遅くてさー、県大会、勝ちあがれないんだけど。オレはひとりで試合のたびにハットトリック決めてたね」
ビールをあおりながら、顔を赤くした隼人は気持ちよさそうに話し続けている。
「仕事しに来たって言っていたのに……お客さんに」
ダイニングテーブルを三つ並べてひとつながりの長テーブルにし、隼人とはテーブル一つ分離れた向かい側に座った明菜が呟いた。一番動きやすい端の席。今にも何か言いに行きたそうに、腰が浮いている。
「樒さんに任せておきましょう」
明菜の左隣に座り、ワイングラスを傾けていたエレナがさらりと言って、座ってたら、と付け足す。
「あのひと、あれで結構面倒見いいんだ。あっちはあっちでいいよ。気にしないでもっとたくさん食べな」
明菜の向かいに座った香織も、フォークでニョッキをつつきながら軽く言った。
「由春、今は実家暮らしで家族に作っているって言っていたから、結婚しても家で料理するんだろうな。料理人の中には家では絶対しないタイプもいるけど、由春は毎日でも作るタイプかも」
エレナの隣、聖の前の深皿料理は、小さめの大根を丸ごと出汁とみりんと醤油だけで炊いたもの。箸がすうっと簡単に入っている。一口大にしてから口に運び「うまい」と呟いた。
明菜は椅子に座り直したものの、落ち着かない様子で水の入ったグラスを持っている。香織の隣に座り、その様子を見ていたオリオンが明るく笑った。
「ハル、結婚の予定はないよ。恋人いるのか聞いたけど、いないって。僕、勤務時間は多少ハルとずらしているけど、同じ家に住んでいるからなんとなく行動はわかってる。時間を作って誰かと会っている様子はない」
ひゃ、と言いながら明菜はグラスを取り落としかけた。
「同じ家にいるとそういうこと結構わかるよな。俺も椿と藤崎と暮らしているけど、その意味では全員何もない」
聖がやけにきっぱりと言い、名指しされた二人はそれとなく顔を逸らして目の前の食べ物に集中しているふりをした。
そこに、伊久磨が大皿を二つ運んでくる。
「パトゥルジャンムサッカ」
一つを数人で固まって座っているテーブルに置き、もう一つは樒たちの方へと届ける。
茄子やひき肉の煮物。ぱっと見は麻婆豆腐茄子だが真っ白のソースがかかった料理だった。
「どこの料理?」
香織が聞くと「トルコ。これはヨーグルトソース」と聖が答えた。
「岩清水、完全に楽しんでるな」
苦笑しながら香織が皿に添えられた大きなスプーンに手を伸ばすと、横からオリオンが「僕の方が近いよ」と先に取って小皿に取り分け始める。
戻ってきた伊久磨は自然に香織の横に座った。
「そろそろ休みなよ。岩清水はいつ来るの」
オリオンから受け取った小皿を伊久磨の前に置き、箸を渡しながら香織が尋ねると、伊久磨は「ありがと」と受け取りながら明菜に目を向けた。
「明菜さん、シェフが呼んでいたのでキッチンに行ってもらっていいですか。食べ終わってから……」
名前が出た瞬間、明菜は立ち上がっていた。手元の皿は空で、「ちょうどよかったので」と言いながらいそいそとキッチンへ向かってしまう。
その後ろ姿を見送ってから、伊久磨は背もたれに寄りかかった。
「どうした、疲れた? 何か飲みなよ」
香織が伊久磨の前にコップを置くと、伊久磨は「大丈夫」と答えた。
「料理も結構キッチンでつまんでいたんだ。仕事じゃないから食べろって岩清水さんが。後片付けもするつもりだから、今日は飲まない。明菜さんひとりだし、何かあったときにスタッフ側で動ける人間がいた方がいいだろ。……あいつは」
伊久磨が視線を流すと、樒が席を立ったところだった。
隼人はテーブルに突っ伏して沈没している。
「何しに来たんだ」
呆れを隠しもせずに伊久磨は言ったが、樒は頓着しておらず、自分のグラスを持ってのんびり歩いてきて聖の隣に腰を下ろす。
「全部美味しいってよく食べていたよ。今まで食べたことないって。料理人には殺し文句だよね。社長に直接言えばいいのに」
「樒さんお疲れ様です。相手させちゃったみたいになって」
グラスを傾けて唇をつけた樒に、伊久磨が申し訳なそうに言う。いやいや、と樒は笑みを見せた。
「子どもの頃からずーっと知っているひとばかりで、今さら話を聞いてくれるひとが周りにいないんだろうね。花坂さんに執着するのもそういうことなんじゃないの。ちょっと年上で、大学も出てるし東京で働いていたし。彼女に認めてもらえたら自分も何か価値があると思えそうで……。そのくせプライドが高いから、屈折してる。花坂さんがあれに向き合うのは大変かな。男が求めているのは救いと自分への隷属、その自覚がないから『恋愛』に置き換えている。あれは愛じゃない」
あ、そこの取り分けた皿もらっていい? とそれまで話していた淡々とした口調のままで言って、オリオンから小皿を受け取る。
「樒さんが……、樒さん……?」
動揺して語彙が失せた伊久磨が言うと、樒はにーっと笑みを深めた。
「普段はこういうの、岩清水社長の役目だろ。今日は手が離せないみたいだから代わった。ことが花坂さん絡みだから、冷静に話せるかもわからないし」
揶揄するというより、事実を告げただけとあっさりとした様子。グラスをテーブルに置いた拍子に氷がカランと音を立てた。
「市内で働いていたときのことも聞いたけど、店が悪かったのもあるな。知ってる店だけど、あそこは良くない。就職して最初がそういうところで、苦手意識だけが残ってしまったのは本人にとって痛手だ。だからといって、それをその後ずーっと休んでいる言い訳にするのは苦しい。自分でもわかっていると思うけど。周りで結婚したり家買ったりする同級生もいるだろうし。サッカー部のエースが職もなくふらふら、『お前は何にもなれなかった』という目でみられるのは辛い。いっそ『ここではないどこか』へ連れ出してくれる何かを願って……。花坂さんはそういう存在。花坂さんが強く拒めないの、その辺かな。誰かとの出会いで人生が変わることがあるのを、本人がよくわかっているから」
真剣なまなざしを向けている聖に、ふと気づいたように樒がちらりと視線を流す。
「なにか言いたそう」
「まさにそういう会話をしていた、あの二人。あの場にいなかったよな?」
探るような問いかけに、樒はふふっとふきだした。
「見ればわかるって。男から女への感情はただの『執着』、女から男へは『同情』。それを周囲が惚れたはれたの話にする。『悪い奴じゃない』という圧力で何かに目を瞑らせようとする。目を瞑ってなきゃ一緒にいられない相手との『結婚』なんか無理なのに。悪いことに、いまのあの子弱っているから、嫌なものを嫌と跳ね除けられない。そのくせ、他人に頼るという知恵がまわらないんだ。泥沼だね」
樒の語る明菜は、袋小路に追い詰められた迷子のようだ。
「欲しいものを欲しいと言うのは、昔から苦手だね、明菜ちゃん。欲しいものが無いわけじゃないくせに」
苦笑した香織が、つられたように口を挟む。
眼鏡を外してテーブルの上に置いていた樒が、ふっと香織を見た。
いつもよりずっと若く見える異国風の彫りの深い顔立ちに、理知的な笑みを湛えている。
「そのせいで結局、『余り物』になるまであいつを待たせているのがすごいよね。あいつも我慢強いというか」
腕を組んで背もたれに寄りかかりながらぼさーっと聞いていた伊久磨は、ぼそりと呟いた。
「結婚すればいいのに。湛さんだって和嘉那さんを山から引きずり降ろしてさっさと結婚したわけだし。岩清水さんも、こう……」
「ところが動かないんだよねえ、あの二人」
笑いながら樒は左手でグラスを掴み、飲み干す。
その向こうで、倒れこんでいた隼人が寝返りをうつかのように小さくうごめいていた。
* * *
「伊久磨、これも」
キッチンで皿にじゃがいものガレットを盛りつけていた由春は、顔を上げて動きを止めた。
「蜷川さん、少し休憩。交代で私が。あの、運びます。春さんもキリのいいところで」
私服の上に赤いエプロンをつけた明菜が、少し離れた位置で答える。
「そうだな。キッチン使わせてくれてありがとう。片付けまできちんとしておくから」
「いいえ、そんな。ほんと、大丈夫です。それは私が全部やりますので。もう」
距離がある。
縮まらない。
用件のみの会話をたどたどしく済ませると、沈黙になってしまう。
二人とも、視線が合っているようで合っていない。どこを見ていいかわからない状態。
「春さん」
「明菜」
同時。
双方、おそろしく困った表情になる。この場合、互いに譲り合いになるのが見えているせいだ。
眉をしかめ、とてつもなく言いづらいことを口にする顔で、由春が先に発言した。
「あっちで食事しろとか、休めとかそういう話なら、わかった。もちろんそうする。今のはそういうことでいいか」
「はい」
普通の確認だが、何かがまわりくどい。しかし明菜は緊張しきりの顔で、はっきりと返事をした。
それを受けて、由春は一度口をつぐむ。
やがて何かを振り切るように、明菜へと目を向けた。
「今晩時間もらえるか。少し話したい。何時でもいい、明菜に負担がかからないタイミングで」
「あの……えっと……。片づけて……ラウンジは二十二時くらいに閉鎖のつもりでいましたが、その後でしたら。あ、全然違います? いま食事しながらとか?」
もぞもぞと言い募る明菜に対して、由春は毅然として言った。
「そうじゃない。二人で話せる時間が欲しいという意味で言っている」