レタスのサラダ
「明菜がああいうことするとは思わなかった。責任感無いどころじゃないよ。オーナーが聞いたらびっくりするだろうな。知り合いだからって、キッチンなんか普段部外者が入るところじゃないのに、知らない奴入れて目を離してさ。馴れ合い? オーナーに自分一人でなんとかするって言ったなら、料理もちゃんとやらないと。聞いてる?」
キッチンから出たところで顔を合わせた明菜に対し、隼人は早口にまくしたてた。
明菜の背後。ワイルドに浴衣の着崩れた聖が腕を組んで壁に寄りかかっていたが、隼人が気付くと同時に、冴え冴えとした青の瞳を向けて、すうっと細めた。
隼人が気圧されたように身を引く。後ろに立っていた樒の胸に後頭部をぶつける形になった。
驚いた隼人が振り返ると、樒はにこりと笑った。
「ごめんね。邪魔しちゃった」
何も気にした様子もなくひょいひょいと隼人、明菜、聖の横を通り過ぎていく。
「明菜……」
「坂巻くん」
なぜか非難がましい響きのある声で名を呼ばれた明菜は、穏やかに隼人の苗字を呼んで、微笑を浮かべて言った。
「キッチンにいたひと、プロの料理人だよ。料理作るところ、見てみたら良いと思う。坂巻くんは完全に部外者だけど、シェフの見学ならキッチンにいてもいいよ。シェフにもオーナーにも私からきちんと話をするし、責任も取る」
「見学……?」
意図がまったく通じていないように、隼人は怪訝そうにする。
その反応は予想していたとばかりに、明菜は柔らかな態度を崩さない。
「『本物』を目にする機会って滅多にないから。私はたまたま進路に悩んでいるときにシェフと一緒に働くことができて、迷いが減ったの。もちろん全然迷わない人生なんかないけど。あのひとに恥じない生き方をしたいと思った。いつか会ったときに、『あの時より成長した』って言われたくて、すごく辛いときも絶対に逃げないってその場に踏みとどまることができた。……最終的に体が動かなくなっちゃったけど……」
声にわずかに涙の気配が混じる。自分でも思いがけなかったようで、明菜は俯いた。
ひとまず黙って聞いていた隼人は、ぐっと眉間に皺を寄せて顔をしかめた。
「働きすぎて体を壊すなんて明菜は馬鹿だ。迷いのない生き方ってなんだよ。ただの社畜じゃん。仕事以外の何も見ないようにしていただけじゃないか。それで生活そのものがダメになって、仕事も続けられないだなんて。オレは嫌だ。馬鹿馬鹿しい。仕事なんか生活できるだけでいいんだ。生きがいとかやりがいとか、そういうこと言っているうちにあっという間に年取るんだ。オーナーが明菜のこと心配するはずだよ。『仕事』しかないって。明菜の親だってもう今までみたいな仕事はやめてくれって言ってるんだろ。それが」
そこで一度区切って、はあ、と大きく息を吐きだす。
明菜がすぐには反論しないのを見て、言い聞かせるように続けた。
「あいつのせいだっていうなら、明菜の親はもっと怒るべきだね。騙されただけだ。『本物』……本物ってなんだよ。もし仮にあいつが本物だとしても、本物に憧れた明菜は本物にはなれなかったんだ。そのくせ、いまだに諦められないで『本物』をちやほやしているなんて。馬鹿だよ、ただの」
聖が、明菜の横に立つ。
今にも何か言いそうな気配があったが、明菜が目も向けずに聖の前に腕を伸ばして制した。
顔を上げて、隼人を見つめる。
「坂巻くんの言う通りだね。私は『本物』にはなれなかったし、逃げ帰ってきた。正直どんな顔をしてシェフに会えばいいのかわからなかった。今でもわかってない。仕事だから必要な会話はしているけど、素の私なんか見て欲しくない。がっかりされるだけだもの。シェフは優しいから、そういうの態度には見せないけど。だけど、私が本物じゃないことは、シェフが本物であることを否定するわけじゃない。私が憧れて、目指した空に輝く星みたいなひと。私は東京で働いていたこともあるけど、ああいうひとは多くなかった。特別なひとだよ。ごちゃごちゃ言ってないで、坂巻くんも見てみた方がいい。理屈じゃないから。坂巻くんは、たぶん今まで『出会い』がなかったんだと思う。自分以外の何かになりたいような、このままじゃだめだと焦るような。そういうの」
隼人に口を挟ませず、切々と訴える明菜。
膠着状態は長く続かず、隼人はふらっとラウンジの方へと歩き出す。
「追い払われたんだ。座って食ってろって。なんでわざわざ……」
ぶつぶつと言いながら去った。
その声を背中で聞きながら、明菜は大きなため息を吐きだして、目を閉ざした。
そばに立っていた聖は、キッチンへと大股で歩み寄る。
ちょうどそのとき、トレーに小鉢をのせた伊久磨が姿を見せた。
「樒さんに飲み物持っていってもらえば良かった。西條シェフ、手を貸してください」
「なんだこれ。まさか『お通し』?」
人数分の小鉢を見て聖は軽く眉を上げる。それから、一つだけガラスのサラダボウルがあるのを見つけて目を見開いた。
レタスにドレッシングをかけただけのサラダ。
「それ、私運びます。ドリンク類はさっき場所をお伝えした通りで。オーダーとってなくても蜷川さんセレクトで大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
手早く二人でやりとりして、明菜は伊久磨からトレーを受け取ってラウンジへと向かった。
伊久磨と聖は顔を見合わせてから、キッチンへと足を踏み入れる。
「さっきの……」
聖が伊久磨に水を向けると、伊久磨は軽く頷いた。
「豚と白菜の和え物です。骨付きの豚肉をゆでて、骨からこそぎ落してばらばらにして、茹でた春雨と生の白菜のせんぎりを加えています。味付けは胡麻ペーストと黒酢。食べてみましたけど滅茶苦茶美味しかったです」
一品目からいきなりハイレベル居酒屋ですよ、と我が事のように力強く話す。
キッチンでは由春が忙しそうに立ち働いていた。
聖はその姿を横目で見ながら、伊久磨が用意していた地ビールの瓶やグラスののったトレーを受け取る。そのままその場に残りそうな伊久磨に目配せしながら、連れ立ってキッチンを抜け出した。
二人になったところで、伊久磨が低い声で言った。
「さっき、変な若いのと顔を合わせましたよね。明菜さんに迷惑行為をしている男です。香織も気を付けているとは思いますけど、西條さんも見ていてください。あの、女性を甘くみている感じがあるので、藤崎さんにも何か失礼なこと言うかもしれないので、そっちも」
「わかった」
余計なことを言わずに、聖は速やかに請け負う。
それよりも、と周囲をうかがってから伊久磨に耳打ちをした。
「さっきのレタスなんだ?」
「ああ、明菜さんが好きみたいですよ。以前よく作ってあげていたみたいです。岩清水さんが作ると、レタスだけのサラダでも美味しいんですよね。普通のレタスのサラダは水の切り方が甘いから、ドレッシングをたくさんかけても味が薄まってぼやけるんだって言ってました。ええと……」
それが何か?
何か見落としているのだろうか、と伊久磨が少しだけ不安をのぞかせる。
聖は不意に相好を崩した。
「彼女が好きなのは、そうなんだろうけど。彼女はともかく、由春が『意味』をわかってないってことはないと思うんだけどな。わざわざ彼女の分だけ特別に作ってるって、そういうことだと思うし」
「『意味』? レタスのサラダに?」
いぶかしげに聞き返した伊久磨の耳に唇を寄せて、聖は低い声で囁いた。
「lettuce onlyって、let us onlyと響きが似ているから『ハネムーンサラダ』っていう別名がある」
let us only
伊久磨が噴き出した拍子に、顔を近づけていた聖と額がぶつかった。
聖はどなり返すこともなく、にやりと笑ってみせてから「ああいう男が本気を出すと怖いね。火傷する」と言い終えて、上機嫌そうにラウンジへ向かう。
入れ違いに、料理を配り終えた明菜が戻ってきた。
「すっごく美味しそうでした」
目を輝かせ、まだまだ働きそうに笑う。その様子を見て、伊久磨は迷わずに言った。
「こっちで助けが必要なときは声をかけるから、とりあえず食べてきてください。えーと、レタス。明菜さん好物なんですよね?」
「あー、やっぱりあれ私用なんですか。前に作ってもらったときに、レタスだけなのにすごいって言ったら、それ以来よく作ってくれて……覚えてくれていたんですね」
裏もなさそうな笑顔を向けられ、伊久磨は思いっきり横を向いて、何かに耐える素振りをみせた。
明菜はその態度に不思議そうに首を傾げて「蜷川さん?」と声をかけるも、伊久磨は「なんでもないです。なんでもないです」と強く言ってからようやく顔を向けた。
「はやく食べてください。いますぐ」