恐れ知らず
「お、伊久磨。袖邪魔になるから、たすき掛けした方がいいぞ。結ぼうか?」
ステンレス台の隅に、紺色の布紐と黒のソムリエエプロンが置いてある。そちらを示して由春がのんびりと言った。
顔を見たから用件を伝えた、という何気なさで。
「もちろんそれは必要ですが、その前に。今のなんですか。もう一度聞きたいんですけど、岩清水さんは明菜さんをどう思ってるんですか。できれば……、そうですね『明菜には俺がついている』いや、待って下さい、今思い出します。そうだな……『明菜には俺の他に男はいらない』この辺ですね。もう少し詳しく」
眉間に軽く手をあて、目を瞑って記憶を辿る伊久磨。
その横を、樒がふわーっと通り過ぎながら笑顔で言った。
「『明菜はずーっと俺にとって大切で、なくてはならない存在だ。他の奴に譲る気はない』ここじゃないの」
はっと伊久磨は息をのんで樒に目を向けた。
「冴えてる」
「君が抜けてるんだよ。お腹空いたなあ。社長、すぐ食べられるものある? 香織がもう飲んでるんだけど」
片付いたステンレス台の上を眺めまわして、少しだけ悲しそうな顔をする。
「わかった。五分で用意する。伊久磨が仕事の空気は出すなというから、今日は居酒屋風。オーダーがあれば作るぞ。何食べたい?」
「キッシュ。美味しいの食べたことない。美味しそうに見えるのに、どこで買ってもそんなに美味しくないんだよね。なんでなんだろ」
働く気はないらしい樒は、すでに立ち去ろうとしている。が、思い出したように隼人に目を向けた。
「でかいなー。すげー。壁みてー」
樒と伊久磨が現れたことに対する素直な感想らしい。悪口ではないが、「声に出ているぞ」と言いたくなる素朴さだ。
「うんうん。君は帰らないなら、もう座ってたら? 料理はここにいる人たちが作るらしいから」
樒はさらりと隼人に誘いをかけた。耳を傾けていた伊久磨は「えっ」と真顔になる。
一方の隼人はといえば、存外に真面目な顔。
「それなんだけど、キッチンに部外者が入るのはよくない。明菜は何してんの。さぼり?」
「あの子はみんなと一緒にご飯だよ。今日はもう仕事はおしまい」
樒は何も気にした様子もなく愛想よく答える。
その返事を受けて、隼人は今度は由春に顔を向けた。
「ていうか結局、あんたなんなの? 社長って、ギャグ?」
──……ギャグ?
隼人が由春に向かって放った一言に、場が静まり返る。
(「ギャグ」ってなんだ? この絶妙な死語っぽさ。「嘘」とか「仲間内のあだ名(冗談)」みたいな感じで使ってるのか?)
いまどきの若者が使う言葉か? と、ぐるぐる考えてから、伊久磨はそんな自分に若干のダメージを受けた。
たぶんそんなに年齢は変わらない。
相手のペースにのってはいけない、と気を取り直して厳しい口調で言う。
「誰に向かって口きいてると思ってるんだ」
ちら、と視線をくれた隼人が、小ばかにするように笑った。
「『誰に向かって』ってなに? 日本に身分制度あったっけ? なに、シャチョーさんだからってみんなでちやほやしてんの? 会社勤めってそういうのが嫌なんだよねー。なんで上司と部下ってだけでそんな身分制度みたいな気の使い方になるのかちょっとわかんない」
ふ、ふ、ふふっと樒が遠慮なく噴き出している。
由春まで苦笑していた。
(なんだそれ)
気のせいか自分がやりこめられているような空気になっていないか? と伊久磨は憤然とした。
「今のは伊久磨、仕方ない。社内ではトップダウンで意思疎通するためにそういう感覚が必要なこともあるが、社外の相手に言うことじゃない」
眼鏡の奥の瞳に面白そうな光を閃かせて、由春が冷静な一言を放つ。
樒も頷きながら口を挟む。
「番犬みたい。そんなに吠えなくても、社長気にしてないでしょ」
「番犬……!?」
ひゃひゃひゃひゃひゃ、と隼人は腹を抱えて笑い出した。
(そんなに笑うほど面白かったか、いまの)
納得いかない気分のまま、伊久磨は布紐を持って「おいで」をしている由春のもとへ歩み寄る。
袖をうまく巻き込んで紐をかけられた。渡されたエプロンは自分で手早く身に着ける。
ふと隼人に目を向けると、にまっと笑いかけられた。嫌な感じだ。
「でかいくせに、そういうの変に似合うね。和風メイドって感じ。女装? サラリーマンの宴会芸みたいな? オレ会社勤めしたことないからよくわかんないんだけど、大変だよねー。社員旅行でも上司に右にならえでそういう格好して。余興?」
「働く準備」
何を言っているのか、理解しようとはゆめゆめ思ってはいけない。
心を遮断しながら、聞かれたことだけ答える。
「マジで? 男がエプロンするのってなんかキモイ」
男とか女とか。
(何言ってんだこいつ)
何も出来なさそうな上に、そもそも何もしないとばかりの言質を得てしまった。
働いていなくて、家事もしないとなれば、ただただ寄りかかることしか考えていない、「ひも」の中でも完全に無価値な存在ではないだろうか。
疫病神。神じゃない。腐れ外道。
体を壊すほどに真面目に働いてきて、いま由春に再会しても自分から助けを求められないでいた明菜のような女性には、決して近づけてはいけない。
「伊久磨、顔が怖い。目つきも。すげー怒ってるみたいだけど、遊びに来てるんだからもう少し肩の力を抜けよ。腹減ってんのか?」
由春は落ち着いた口調で言って、伊久磨の背中に軽く掌をあてる。
「同じくらいの年齢でも幸尚は人間できてたなって考えていただけです。もういいから帰れ」
由春に答えつつ、隼人に目を向ける。隼人はどこを吹く風といった気軽さで答えた。
「さっきそっちのでかい人に食ってけっていわれたし。そんなに言うならキッチン使ってもいいけど、何作ってくれんの? オレ結構味にはうるさいんだけど」
言いながら樒に目を向け「その髪どうなってんの? 白髪?」と続けざまに尋ねている。
「……少し落ち着こうと思います」
数分話しただけで、数年分老け込んだ気がして、伊久磨は青い息をもらした。
(店の客だったらと思うとぞっとする。というか、こんな男に婚約者気どりされてたら人生に絶望しかないだろ。明菜さんよく耐えてるな)
オーナー夫妻の真意はわからないが、大方「子どもの頃から見ていて、悪い子じゃないから」など、その辺ではないかと思われた。もし本当に「悪い人じゃない」という感覚で明菜に勧めているなら、アウトだ。
「俺も驚いている。あれは明菜には合わないだろ」
ぼそり、と言われて伊久磨は目をむいた。
「それ本気で言っていたら、しばらく軽蔑しますよ。合う合わない以前に、あれと明菜さんの名前を並べたらだめです」
まさか、明菜が言った「結婚が決まっている」をこの期に及んで信じているのだろうか? 自称彼氏の実物を目にしても?
そこまで頭の鈍い男じゃないはずだが、と由春の横顔をうかがいつつ、伊久磨は断固として言った。
「追い出します。出禁でいいです」
聞こえてはいるだろうに、由春はちらりと外に目を向けて考える様子になる。
「吹雪いてきたんだよな……。無下に追い出して遭難されても困る」
「地元民です。甘やかさないでください」
家までどのくらいかはわからないが、車なら帰れないことはないだろう。
(早めに追い出すに限る)
うちのお館様はどこまで甘いのかと。
このひとが動かないなら、自分が動くまでと決意を新たにした伊久磨をさておき、由春はのんびりと言った。
「今帰しても、何も変わらないだろ。わかってない奴は、わからないままだ。それでいつまでもこの辺うろつかれてもかえって面倒だ。少しわからせた方がいい」
由春の視線の先。
樒の後についてキッチンから出て行った隼人が、視界から消えたところで「あれ、明菜いたんだ!?」と声を上げていた。
それを耳にしたであろう由春のまなざしが、すうっと剣呑なものに変わる。
周囲の温度すら下げるほど冷ややかな声で、伊久磨に告げた。
「椿と聖に見張らせておけ。明菜に近づけるなと。もちろん、藤崎にもな。うちの大事なスタッフだ」
「岩清水さんは」
自分で行かないのか、という言葉を飲み込んだ伊久磨に由春は視線を流す。
「俺は料理を作るから。たまにはお前らにうまいもの食わせないとな。伊久磨は何がいい?」
「何がいい? って俺はいつも食べさせてもらってますけど。俺よりも、それは明菜さんに」
由春は、ぽん、と伊久磨の腕を軽く叩いて歩き出す。
背を向けたまま、さりげなく言った。
「明菜の好みは聞かなくても知ってる。忘れるわけがない」