大切な存在
坂巻隼人(23)……農家の次男。地元の高校を卒業した後、市内でバーテンダーをしていた。仕事もお金も続かず、ほどなく実家に戻る。そのまま企業に就職はせず、家業を手伝っている。冬は働いている気配がないが、頼まれると独居老人宅の屋根の雪下ろしなどをしているらしい(稀に)。将来の夢「明菜ちゃんとパン屋をする!」
由春にすぐに行きますと答えてから、明菜は手短かに「自称・婚約者」情報をその場の三人に伝えた。
「ありえない」
伊久磨が即座に断言した。
「話にならな過ぎて唖然とする」
香織も厳しい口調で言う。
オリオンが「バーテンダー経験はどのくらい?」と一応の確認を入れた。
「二週間って聞きました」
伊久磨と香織で顔を見合わせる。
「ない」「同じく」
微笑んだオリオンが、「店側にも問題があったのかもよ」と言うも、男二人は険しい表情で首を振る。
「それにしたって、明菜さんにアプローチして『一緒に店をやりたい』というなら、この冬の期間にでも自分も即刻修行に出るべきです。口先で好意を示しつつ何も行動しないのは、ただ寄りかかるつもりとしか思えません」
言い終えて、伊久磨はキッチンに向かって歩き出し、振り返って言った。
「明菜さんは来ないでください。そんな男、口をきいてやる必要ありませんから」
「いえ。自分がまいた種ではあるので。ここにきて、年が近いとかそういう理由で知り合って、普通の感覚で話していただけで……まさかそんな、断っても通じないとか、周りが『結婚する』前提に話を進めるなんて思わなかったのは迂闊だったんですが」
明菜が伊久磨に続こうとするも、香織が「ダメだよ」とすかさず口を挟む。
「そういうわけわかんない男と話すと『減る』から。絶対に消耗するから。岩清水と伊久磨に任せて、明菜ちゃんはここに残って。どうしても自分でどうにかしないとって言うなら、俺も行く」
なんとも言えないように、明菜は顔を歪めた。
行かなければ自分以外の人間に負担をかけるし、行くと言えばすでに寛いでいたはずの香織がついてくるという。
「せっかくお休みの日に来て頂いたのに、私のせいで皆さんに迷惑をかけてしまって」
そのとき、ふらーっと樒がラウンジに現れ、テーブルに近づいてきた。
「腹減ったんだけど。なんだ、酒しかない。何か出来上がってないかキッチン見てくるかな」
言うなり、ひょこひょことキッチンに向かって歩き出す。
その背を見送ってから、明菜ははっと何か思いついたように香織を振り返った。
「樒さん、がいるので! 一緒にいれば安心だと思いますし、安心かな? うん。安心だと思いますので、香織さんは待っててください。どうぞそのまま、そのまま飲んでてください。私が変なこと言ったせいで戦闘モードになってますけど、香織さん本来はお客様ですし」
香織はぴくっと眉をしかめただけで、厳めしい顔を保っていた。見守っていたオリオンが、青いボトルを持ち上げてビールをグラスに注いだ。
「かおり、彼女は自分の問題を他人に任せられる性格じゃないと思う。それに、行けばハルが自分のために戦うところも見られるでしょ。行かせてあげなよ」
すでに歩き出した樒の後についていた明菜は、声が届いたらしく、何もないところでつまずいた。気付いた樒が肩越しに振り返って笑っている。
「……なるほど。たしかに、岩清水がどう思っているのか、直接見た方がいい場面ではある」
無理矢理に自分を納得させように呟き、香織はコップに口をつけた。
* * *
岩清水由春(29)……会社経営。特技・料理。趣味・掃除、ピアノ。英語とフランス語は仕事に支障がないレベル。アンティークの知識が豊富。二十代初めに市のプロジェクトで自分の店を持ち、成功を収める。その後渡欧。数年間の修行の後帰国。現在はオーナーシェフとして『海の星』で腕をふるっている。
キッチンの裏口から入ってきた坂巻隼人は、浴衣姿の由春を物珍しげに眺めてへらっと笑った。
光の加減でオレンジ色っぽく見える茶髪。高校生のように若い顔つきで、眉はいかにも手入れしているらしく整えられている。
雪の中とはいえ車で来たせいか、防寒用とも思えぬスタジャンを羽織った軽装。身長は平均程度。平均以上の由春と向き合うと、視線がわずかにずれる。
「ここのペンション、料理が美味いで有名なんすよ。せっかく来たのにオーナーがいないのは残念だとは思うけど、素人がキッチン入っちゃだめですって。明菜はまだかな? 呼んだんだよね?」
紐を見つけて器用にたすきがけをしていた由春は、今まさに調理を始めようとしていた状態。しかし、何を言われたかわからないように動きを止めていた。
「明菜、どうしたのかなー。こういう勝手なお客さん見てないなんてらしくないな。一人だとやっぱりだめなんだ。あ、もしかしてあんたが知り合い? 料理できるの? オーナー、若い頃は有名なホテルで修業したひとで、道具も専門的なもの揃えてるんだよ。食材も珍しいの使ってるし。変に手を出そうとしない方がいいから。キッチンって、結構危ないものもあるし。怪我人出たら明菜も困るから。あー……つまみが必要ならオレが作ろうか?」
由春は、まじまじと隼人を見つめた。
「なんで黙ってんの?」
「気が済んだら出て行くかなと。外吹雪いてきたから、早めに帰った方がいい」
「帰らないけど。明菜ひとりのところに男の客だらけなんて危ないじゃん。オレ、オーナーから頼まれて来てるんだよね。見に来て良かったよ。素人がキッチンうろうろしていたなんて聞いたら、オーナー怒るだろうなぁ」
ちらり、と薄く笑って由春を見る。
圧力をかけるかのような言い草。いいのかな~、オーナーに言いつけちゃうぞ~? と目が言っている。
一方の由春はといえば、小さく首を傾げていた。真意を探るように隼人の顔を見つめながら。
「なに? え、なんなのあんた。何見てんの?」
「『何見てんの?』ってセリフ、本当に言う奴いるんだ。見ているようで見ていなかった。興味がないから。話は終わりでいいか? 車が雪に埋もれる前に帰れ。ここにいても特にやることはない。オーナー夫妻に言い訳が必要なら、俺から説明しておく。必要ないから帰したと」
隼人は、苛立ったように目を眇めた。
「だから! そのオーナー夫妻から頼まれてここに来てるんだっつーの。ただの客が口を挟むなよ。明菜はどうしたんだ。男ばかりの中に女一人なんか絶対危ない。指一本触れるなよ」
「確かにな。今日の客が大学生の飲みサークルだったりしたら、スタッフが明菜一人というわけにはいかない。だが事情が違う。明菜には俺がついている。何も心配はいらない」
気負った様子もなく、由春はさらりと言い放つ。
ますます頑なになったように、隼人は由春を強く睨みつけて口を開いた。
「オレは明菜と将来を誓い合ってるんで。『一緒にパン屋をやる!』って。だからそういう言い方されるの、なんかすげーやだ。あんた何様? 明菜の何?」
言われた内容に特に動揺することもなく、由春はふっと笑った。乾いた笑いだった。
眼鏡の奥の瞳を細めて、隼人の睨みに答える。
「うるさい奴だな。明菜には俺の他に男はいらないと言っているんだ。帰れ。邪魔だ」
「はあ? あんたこそ何言ってんだよ。明菜の男みたいな口ききやがって。明菜は」
がたん、と音がして二人は同時に顔を向けた。
キッチンからラウンジへ出て行く、カウンターの切れ目。壁の死角に何かいる。誰かが。
息を吐きだしてから、由春は今一度隼人に向き直った。
「何か勘違いしているようだが、明菜はずーっと俺にとって大切で、なくてはならない存在だ。他の奴に譲る気はない」
うっと隼人は一瞬ひるむ。その弱気を後悔するように、すぐに身を乗り出して食らいつく。
「彼氏はオレだっての。お前ふざけんなよ」
由春は表情も変えることなく、微塵の動揺も見せずに答えた。
「彼氏なんかどうでもいい。パン屋といったか? 残念だが無理だ。明菜は俺がもらう。明菜は」
そこで言葉を切り、さらに厳粛な口調で告げた。
「理想の『マダム』になれる。俺の店には必要な人間だ。これは『海の星』のオーナーシェフとして本気で言っている。他の男になんか渡さない。絶対」
五秒ほど考えて。
さらに十秒ほど考えて、隼人は確認した。
「オーナーシェフとして? 男としてじゃなくて、つまり……なんだ? あんたの店のスタッフとか、そういう意味で言っているのか?」
迷うことなく、由春は力強く首肯した。
「それ以外のどんな意味が?」
がたたん、ともう一度大きな音がして、隠れていられなかったらしい伊久磨が、言い訳はしませんと態度で示すべくハンズアップの状態で姿を見せた。
そして、大変恨みがましい口調で言った。
「岩清水さん、今のはないです。途中から何かズレました。やり直してください」