結ばれていない約束
三者三様に、無言。
手と手を組み合わせて由春とやりあっていた伊久磨は、とっさに強く力を込めてからぱっと手を離した。
「っ」
不意打ちに、由春はよろめきながら、たたらを踏んで堪える。
(外した)
ぶつけるつもりもなかったとはいえ、明菜には、少し届かなかった。それだけでなく、本人もさっと避けていた。意外なくらいに俊敏であった。
そのまま、何も見なかったし、何もなかったという冷静さで事務連絡を始める。
「春さん、調理は皆さんのいいタイミングで始めてください。今日はもう誰も来ないと思うので、全部戸締りもしてしまいました。食べて飲んでゆっくりなさってくださいね」
隣に立った由春もまた、寸前までの伊久磨とのやりとりなど何もなかったように鷹揚な様子で頷いた。
「軽く飲むつもりだったけど、ついでに何か作るかな。伊久磨がいるから明菜も座ってていい。自分の店で客をするってなかなか無いだろ。こういう機会に」
そういうわけには、と明菜が食い下がるも、由春はふいっと顔を逸らして伊久磨に目を向けてきた。
「何飲む?」
「俺は飲みません。仕事しますし、後片付けもしますので。明菜さんは休んでいていいですよ」
「蜷川さんっ」
慌てた様子で、明菜は今度は伊久磨に向かって言ったが、聞く気はない。
「後片付けのことも考えれば、明菜さんにも一緒に食事して頂いた方がいいです。この後仕事がないなら温泉もどうぞ。何かあれば遠慮なく俺に言ってください」
「蜷川さんがスタッフさんになってる……」
「ペンションで働いたことはないですけど、客商売しているのでイメージはつきます。そうだ、岩清水さんは手元狂わないなら俺に構わず飲んでください。シェフに仕事の空気出されると他が迷惑なので」
てきぱきと言いながら、さ、行きましょうと二人をラウンジ方向へと追い立てる。
由春と明菜はひとまず伊久磨に背を向け、並んで歩き出した。
肩や腕がぶつかりそうでぶつからない、微妙な距離。会話はない。
(もどかしい)
伊久磨はひとり首を振りながら横を向いて吐息する。
浴衣姿の由春を前にしてさえ、明菜は見た目は冷静なのだった。さっきの赤面はなんだったのだというほど。
一方の由春も、伊久磨に明菜の名前呼びを指摘したときの威圧感も何もなく、ごく普通の態度だ。
これでは、当の本人たちが、「相手がどう思っているのか」を推測する糸口さえ掴めない。
傍から見る限り「これでなんで付き合っていないのかわからない」のに。
(……なんで付き合っていないんだろう。岩清水さんは独身で彼女がいそうにもないし、仕事も順調だ。子どもの交際や結婚に口を出しそうな親でもない。明菜さんは……、明菜さん側の問題なんだろうか)
以前体を壊したといっても、今は問題なく働けている様子だ。気が利くし性格も控え目で、由春とは見るからに息が合っている。
何か理由があるのだろうか。
お節介に過ぎるのは重々承知だが、そこを解決しない限り、明日時間がくれば別れて元の生活に戻って終わりになりそうな気がしてならない。
どうにかして、本音を聞く機会が欲しい。
伊久磨は前を行く二人の後ろ姿を、ぼんやりと眺めた。
* * *
ラウンジではすでに香織とオリオンがダイニングテーブルに向かい合って座り、青いボトルの地ビールを飲んでいた。
「岩清水、何か軽く食べたい」
遠慮なく香織が言い、わかった、と言いながら由春はキッチンへと向かう。
明菜もあとに続こうとしたが、香織が呼び止めた。
「少しいい? ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
由春を気にするそぶりがあったが、香織が「お酒の品ぞろえ聞くだけだからすぐだよ」とまるで由春に聞かせるように言った。
「ビールの次ですか?」
明菜が実直そうな口ぶりで確認する。
由春が完全にカウンターの向こうに消えるまで待ってから、香織はようやく口を開いた。
「岩清水とどうなってんの?」
聞かれたままの表情で、明菜が石化した。誤魔化すこともできないらしい。
なんとなくその場にとどまっていた伊久磨も、(香織、あっさり言ったな)と先手を打たれたことに呆気にとられてしまっていた。
「普段こんなこと聞かないけど。さすがにおかしいでしょ、二人。会おうと思えば会える距離だし、心愛ちゃんとは連絡取って会ってるんじゃないの。それでなんであいつのことは無視してきたの。理由あるよね」
明菜は息を止めて香織を見つめていたが、呼吸することを思い出したようにふうっと、大きく吐きだした。
「理由……。はい……」
「他に人がいると言いづらい? 場所変える?」
躊躇う明菜に、香織がすかさず言う。明菜は数秒悩んでいたようだったが、「いえ、あまり春さんをお待たせしたくないので」と生真面目に言ってから、座ったままの香織をまっすぐに見つめた。
「嘘ついちゃったんです。それ、たぶん春さん信じてる」
伊久磨は軽く目をしばたいて、明菜を見下ろした。
重い言葉だったらしく明菜は俯いてしまうが、香織の追及は容赦ない。
「どんな?」
明菜も、観念したように答えた。
「私はここ数年春さんとは特に連絡を取っていなかったんですが、地元の噂話みたいな感じで、『海の星』のことは人づてに聞いていたんです。だけどずっと忙しくて。そのうち、体を壊して東京から戻ってきました。心愛と時期は近かったんですが……。心愛が『海の星』で働き始めて、羨ましかったんですけど、私は体力に不安があったので、働きたいとも言えませんでした。心愛が出産で仕事を離れる話になって、改めて私に本当にいいのかって聞いてくれたんですけど」
伊久磨としては初耳だ。
由春も心愛も、気にかけてはいたのだ。それでも、実際にその話が伊久磨のもとまで下りてこなかったということは、明菜が断ってしまったからに他ならない。
(どうして)
表情を見てもわかる。明菜は後悔している。嘘を。
「以前のように働ける自信がなかったんです。心愛が抜けたあとに入った私が、体力的な問題で満足に働けないですぐに潰れたら、春さんにもお店にも迷惑がかかってしまうと思って。それで嘘を。……結婚の予定があるので、働くのは難しいと。お断りしてしまいました」
「嘘なんだよね?」
間髪入れずに香織が重ねて聞く。明菜は動きを止めたままだ。
(……?)
嫌な予感がする。まだ何か。
その伊久磨に構わず、香織は畳みかけるように続けた。
「今すぐそれ岩清水に言いな。あいつも頑固なところがあるから、俺が言っても信じない。明菜ちゃんからはっきり言わないとだめだ。今の二人、おかしいから。俺が言っている意味わかるよね?」
香織はそこで一息おく。「好きなんでしょ?」と決定的な言葉を言う前の最終確認のように。
不自然な沈黙の後に、明菜は目を瞑ってかすれた声で言った。
「その時点では、嘘だったんです」
すうっと香織が目を見開く。何も言わない。
伊久磨もまた、声が出なかった。
それまで一切口を挟まず黙って聞いていたオリオンは、傾けていたグラスをテーブルに戻して、確認するように言った。
「婚約者がいるってこと?」
まったく幸福感のない虚ろな表情で、明菜はオリオンに目を向ける。
「私にはそのつもりもないですし、お断りもしているんですが、本人にあまり通じていなくて。ここ、田舎で明るい話題もあまりなく、周りが面白がってしまって。相手の方とは付き合ってもいないし何もないんですけど、なぜか公認カップルのような状態に……」
あまりにも辛い事情だったようで、明菜は口にしたことを後悔するように唇を引き結んでしまった。
見守っていた香織は、我に返るなり、厳しい口調で言った。
「今すぐここの仕事辞めな。明菜ちゃんが本気で困っていたとしても、『恥ずかしがっているだけだ』なんて、相手の男を唆してその気にするジジババがいるかもしれない。何かあってからじゃ遅い。まだ間に合うなら、ちょうどいい。岩清水をオーナー夫妻に紹介して辞めてしまいなよ。よほど相手に肩入れしているとしても、岩清水がいれば滅多なことは言えないはずだ」
香織は、傍目には由春とは仲が良いのか悪いのかよくわからないが、認めている。
岩清水由春には、誰も文句が言えないはずだと。
ちょうど、由春が静香と光樹の父の前で、椿の当主への信頼を口にしたように。
二人は互いを認め合っている。
その気迫に押されつつも、明菜は喉に何かがつっかえているような重苦しさで言った。
「それは……。でも、『何もない』のは私と春さんとの間にも言えることです。会うのも久しぶりですし、約束があるわけでもないです。甘えることはできません」
(違う)
口に出さずに、伊久磨は胸の中でその思いをかみしめる。早口で言い募ってしまう。
「頼られたいひとですよ、岩清水さん。明菜さんにお願いされたら、絶対に嫌とは言わないはずです」
(むしろ、そういう事情なら一刻も早く知らせた方がいい。結婚の予定があるとか、相手がいるとか、滅茶苦茶勘違いしていてさえ、あの状態だぞ。それがやむを得ない嘘で、何も障害がないとわかったら)
「個人的な話ですし、どういうタイミングで言えばいいのか」
それでも明菜は、まだ戸惑ったままだ。
男三人、その場にいた全員の考えが一致して、声がぴたりと重なった。
「いま!!」
一瞬、場が静まり返った。
そのとき、カウンターの奥から、由春が顔をのぞかせた。
「明菜、客が……客と言うか、裏口にひとが来てるぞ」
四人全員にいっせいに視線を向けられ、由春は訝し気に目を細めつつ、それを口にした。
「オーナー夫妻から助っ人頼まれたって。男。客に男が多い中、スタッフが若い女性ひとりだと何かと不用心だから、今日はここに泊まるって言ってるけど。明菜の方には、オーナー夫妻から連絡入ってるか?」