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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
30 星の王子様(中編)
194/405

昔の知り合い

 意外と出来ない子だよね。


 着崩れきって、色々と目のやり場に困る渋い栗色の浴衣姿の樒は、帯を結び直しながらのんびりと言った。

 言われた聖は、一応その場にいる女性に気を遣って後ろ向きで帯を結び直しながら「うるせぇよ」と言い返している。

 ひとり、けろりと余裕そうな顔をしていたエレナは、樒の遠慮のない着替えからそっと視線をはずして壁に貼られたスキー場のポスターを眺めていた。


 温泉卓球:藤崎エレナ圧勝。


「だいたい、自分も負けたくせに。手も足も出てなかっただろ。藤崎は昔から運動神経良かったし、勉強もできたし、弱点なかったからな。だよな藤崎」

 我が事のように言われ、水を向けられたエレナはちらりと藍色の浴衣を着た聖に目を向けた。


「西條くんが、そんなに私のことを買っているとは思わなかった。西條くんこそ、非の打ちどころのない王子様だったと思う。性格以外。悪くないんだけど、きついから」

 エレナは、黒地に紅梅と白梅の描かれた浴衣で、ほとんど着崩れてもいない。頬は、動いている間はほんのりと上気していたが、「どうせ熱くなるから暖房いらない」と断った遊戯室の冷え込みのせいで、すでに平静の色を取り戻している。


「冷えてきたかも」

 床に軽く畳んで置いていた羽織りを拾い上げて羽織りながら、エレナは「戻りましょう」と二人に向かって声をかける。

「そうだな。もういい時間だし飲むか。働くのは由春と蜷川だけで……」

 言いながら、聖はエレナの横を大股に過ぎて、ガラス扉に近付きさっと片手で開け放つ。

 エレナと樒が通り過ぎてから、電気を消して最後尾を歩き出した。


「試合中は気が付かなかったけど、体ずいぶん冷えてる」

 エレナが独り言のように呟き、両手で両腕を抱くようにする。その隣を歩いていた樒は、無言で羽織りを脱いで、ばさりとエレナの肩にかけた。

「着てな。風邪ひかせるわけにはいかないから」

 にこーっと笑った顔には、来たときにかけていた無骨な眼鏡がない。灰色髪で、異国を思わせる彫りの深い秀麗な顔立ちがあらわになっている。

 意外な優しさと、人好きのする笑顔に目を奪われたように、エレナはその場で立ち止まってしまった。

 樒は何も気にしないように、先に立って歩いて行く。

 そのエレナの横に、聖が並んだ。


「借りてればいいよ。藤崎が風邪ひくと何かと困る。というか、自分が嫌だろ。遊んで具合悪くして仕事に支障が出るの」

 見透かしたように言われて、エレナは「そうね」と言いつつ素直に一回り大きい羽織りを羽織った。

 隣に立ったままその様子を見ていた聖は、すっと青い目を細めて低い声で囁いた。


「藤崎、まだ時間が止まってる」

 首を傾げながら聖を見上げ、エレナも囁きの音量で聞き返す。

「私の? それとも西條くん?」

 しばし無言で見つめ合う。

 先に目を逸らしたのは、聖だった。横顔を晒して、黙り込む。歯を食いしばって切なさに耐えているような表情。

 エレナは引き寄せられるように手を伸ばしかけて、聖に触れる前に引っ込めた。


「西條くん、昔の話なんかするから。本当は常緑(ときわ)のこと思い出していたんでしょう?」

 私じゃなくて。

 言外の確認を肯定するように、小さく頷く。


「……油断した。自分から常緑の名前を出して話題にしているときはコントロールできるんだ。だけど、不意打ちみたいに思い出すと……」

 悲しみが暴走する。

 不在の痛みに打ちのめされる。

 横顔が歪む。

 エレナは聖を睨みつけるように目に力をこめた。


「常緑、西條くんを置いて死にたくなかったと思う。それは、言わなかったけど。生きられないと知ってからの方が明るかったの、きっと、少しでも不安そうにすれば、西條くんが一緒に死んじゃうって思ってたから。……一人で死ぬの、本当は怖かったと思うよ」

 耳を傾けながら、聖は目を閉ざす。眉をしかめていて、そこに力が入っているのが伝わってくる。涙を堪えている。


「怖い、一緒がいい、って言ったら西條くん何も迷わないで死んだよね。だって、そう言われるの、待っていたんだもの。結局、常緑は言わなかったけど。絶対に。『あなたはわたしの分も生きてたくさん幸せになってね』ってそれしか言わなかったんじゃない?」

 本当のところはわからない。

 二人の間にあった会話のすべてを把握しているわけではないから。

 それでも、確信めいてエレナがそれを口にしたとき、聖は血を吐くように呟いた。


「呪いだよ。死ねない」

 そのまま、両手で顔を覆ってしまう。

 エレナは聖を見上げて、断固とした口調で言った。


「呪いなんかじゃない。常緑は西條くんを呪ったりなんかしない。一人で死にたくなかったのも、西條くんに死んでほしくなかったのもどっちも本心だよ」

 がばっと手を外して、聖は濡れた青の瞳でエレナを睨みつけた。


「嘘だ。藤崎は常緑じゃない。常緑の本当の気持ちなんか勝手に代弁するな」


「そっくり返すわよ、西條くん。あなたは常緑の夫だけど、常緑本人じゃない。あなたより私の方が常緑について詳しいところもあるの。絶対。だって私、あなたより先に常緑と知り合って、友だちになってる。あなたの知らない常緑のことも知っている。自分が一番だなんて自惚れないでくれる? 夫婦のことは知らないけど、友だちとしてなら私にだって言えることはある。常緑は、あなたに、幸せになって欲しいの。それ以外のことは些末なことだと思う。恋人も再婚も好きにすればいいのよ。いま生きているあなたが、幸せであること。それがすべてよ。ねえ、西條くん」

 再び横を向いた聖の頬に手を伸ばし、強制的に自分の方を向かせて、エレナは続けた。


「自分で話振ったんだから、最後まで聞きなさいよ。西條くん、いま幸せなの? 常緑に胸を張って報告できるような生き方してる?」

「死人に何をどうやって報告するんだよ。空に向かって話しかけてもただのおかしい奴だろ。返事があるわけでもないし。『死人に恥じない生き方』みたいなの、一から十まで自己満足だ。この先、たとえ俺が死んでも、会えるとは限らない。二度と」

 怒鳴りつけるような勢いで口走ってから、聖は唇を引き結んだ。一拍置いてから「悪い」と呟いて、エレナの手を掴んで下ろさせる。


「西條くんは……。頭が良いし、何をやってもひとよりできる。見た目も良い。恵まれていると思う。だけど心の中に常緑がいる限り、人並みに幸せになれないのだとしたら。常緑は、西條くんに出会ったことを後悔するでしょうね。自分のせいで、あなたの人生は滅茶苦茶になったんだ、って」

「もう死んでるよ。後悔なんかしたくてもできない」

 先程までの強さはなく。

 瞳に寂寥だけを浮かべて、聖は力なく笑った。

 エレナはふいっと顔を逸らして、歩き出してから肩越しに振り返って言った。


「時間止まり過ぎ。いい加減立ち直ってよ。さっさと再婚でもしてくれた方が私は気が楽だわ。たぶん、常緑もね」

 聖は目を見開いてから、ようやく唇の端にうっすら笑みを浮かべてみせた。

「藤崎と話しているときだけ、常緑がまだ生きているような気がする」

 エレナは溜息をついて、泣き笑いの表情の聖を見る。


「それで供養になるならいくらでも付き合うから。話して、思い出して、少しずつ忘れていこう。思い出さない日があっても、罪悪感なく生きていけるまで。西條くん、優し過ぎるし誠実過ぎる」

 言葉もなく、聖は俯いた。

 少し間を置いてから、エレナは引き返して聖の羽織りをつまんで引っ張る。


「早くみんなのところに行って飲もう。その顔のままで行ったら大騒ぎになるからね。みんな心配性だし。五秒数えるから立ち直って。いーち、にー、さーん」


 深く息を吐いてから、聖は顔を上げた。

 瞳は少しだけ濡れていたが、エレナと同時に「ご」と言ったときには、笑みを取り戻していた。


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[一言] まさかここにフラグが立つとは!!(クワッ)
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