キス(※間違い)
「伊久磨」
呼ばれて振り返る。
スマホを向けてきていた香織に、写真を撮られた。
「なに」
操作を続けている香織に尋ねたのと同時、胸の合わせ目に入れていたスマホが振動する。
手を差し込んで取り出すと、香織から写真が送られてきていた。
「静香に送っておけよ。そういうの好きそうだから」
藍色の浴衣に厚手の羽織りを羽織った香織が、うっすら笑ってスマホを軽く持ち上げる。
アイコンが並んだホーム画面がブラックアウトする間際、風景写真みたいな背景が見えた。
(青い、空? 海? ……白い波?)
一瞬にも関わらず、やけに鮮やかにその色が目に焼き付く。
「かおりって、青が好きなの?」
香織の隣に立っていたオリオンが、ふわりと笑って尋ねていた。
二人で大浴場に行き、聖と樒は露天風呂を使ったらしい。さすがに香織は和装の着こなしがさまになっていて、オリオンの着付けも手伝ったであろうことまで見ればわかる。
香織は、スマホを胸の合わせ目に入れながら、「んー」と視線を彷徨わせた。
「どうだろう。最近かな。髪黒くしてから服は青系が多くなったかも。その方が似合うって言われて」
「誰に?」
オリオンはにこっと笑いながらも、妙な押しの強さで確認を入れていた。
香織はその顔を見返しながら、変な間を置いたのち「……誰だっけ」と呟いて目を逸らした。
「ごめんね。スマホの画面見えちゃって。いまの流氷かな。セイにさっき見せてもらったのと同じ」
連れ立って歩いていく二人の会話は、途中で判然としなくなる。どういう意味だろう、と思いながら伊久磨は香織から送られてきた写真を表示してみた。
振り返った自分の姿、ほぼ全身が収められている。
サイズが合いそうなのはこのくらいで、と用意されていた黒の浴衣姿で。
キッチンであのまま三人で下ごしらえや準備をしてから、由春とさっと露天風呂を使ってきたところだった。風呂を上がったときに「ある程度動いても着崩れないように」とそのまま由春に着付けてもらっている(まだ働かせる気だ)。細い帯もきっちりと男性仕様で結ばれていた。
(忘れてた。静香には夜連絡できるかわからないし、今のうちに送っておこう)
浴衣姿。
香織の細やかさに感謝しつつ、「温泉に来ています」と静香に送信してから、スマホのホーム画面の静香の写真をぼんやり見つめてしまう。
一週間会ってない。電話は毎日していたが、足りない。もっとそばにいられたらと思ってしまう。
ほんの数日でそれなのに、数年間会わないというのがどういう状況なのか、想像もつかない。
(お互いに、あんなに好きなのに)
三人でキッチンに立ってよくわかったが、明菜の動きはかなり洗練されている。よく由春を見ていて、実直な寡黙さで必要なものを手際よく用意し、流れが滞らないように無駄なく補佐していた。
二人とも、背中にも目がついているかのように、お互いがどこにいても把握しているように見えた(愛だなぁ)。
それどころか、明らかに意識しまくっていた(もう素直になればいいのに)。
そのくせ、伊久磨がこっそりその場を外そうとすると、すぐに見つかり、焦った二人の内どちらからか必ず声がかけられるのだ(往生際が悪いことこの上ない)。
――明菜。ほら、味見。
もはや「目に入れても痛くない」の極致のような優しさで見つめながら、由春は明菜を呼んでいた。「ありがとうございます」と言いながら、明菜は差し出された小皿を受け取って、出来たばかりのスープを口にする。
なぜかその場にいることを二人から希われた立場の伊久磨は、胸を掻きむしりたい思いでチラ見していたのだ。
「……どうにかしないと」
思い出して、つい声に出して呟きながら、やるせなさに奥歯を噛みしめた。
「伊久磨。軽く飲むか」
そのタイミングで、湯上りに一度別れていた由春が、背後から追いついて声をかけてきた。
「いいですね。あ、でも」
振り返りながら、伊久磨は返事をする。
「なんだ」
そこに立っていた由春に訝し気に尋ねられながらも、改めてその姿をしげしげとながめてしまった。
濃緑の浴衣に、黒い帯。普段はワックスを使っている髪がやわらかさを取り戻していて、眼鏡をのせた端整な容貌が、いつもより幼く見える。
それでも、姿勢が良く引き締まった体躯で、穏やかな苦笑を浮かべているその立ち姿は「海の星」を背負うオーナーシェフそのひとであり。
お館様。言うならば。
(香織もさまになっていたけど、香織が「若」なら岩清水さんは「殿」だな)
どこからどう見てもその貫禄。久しぶりに会ったという明菜が惚れ惚れするのも納得できる。
「さっき、聖と樒が遊戯室で卓球やってた。藤崎もそっちだな。椿とオリオンは中抜けして談話室に向かったって聞いた。食事はまだもう少し後でいいだろうし、飲むぞ」
目元に笑みを滲ませて言い終え、先に立って歩き始める。寛いだ表情。
その背に従いつつ、伊久磨は思案した。
(明菜さんにお酒をすすめるとしたら、俺は飲まない方がいいよな。責任感強そうだから、すすめられても飲まないだろうけど、念のため)
今晩この由春と明菜が、何がどうなってもいいように。
「伊久磨。そういえばフローリストとは、連絡取ってるのか。今日のことは言ってあるんだろ」
水を向けられ、伊久磨は速やかに答えた。
「はい。言ってありますし、いまちょうど写真送ったところです。さっき外にリスがいて、写真撮れたので。完全に忘れていたので、忘れる前に連絡しました」
出先から連絡することを「忘れていた」ので、今晩完全に「忘れる前に」と言ったつもりであったが、由春は微かに眉を寄せて、「お前の日本語、難しいな」と呟いた。
「ま、そこ、仲良くな。お前変に抜けてるところあるからなぁ。『忘れてた』とか本人には言うなよ。あいつ傷つきやすそうだし、引きずりそうだし」
いつになく優しい忠告であったが、伊久磨は肩を並べるながら目を細めて視線を流す。
「それを岩清水さんに言われるとは……。明菜さんのこと何年放置していたんですか。どうなってるんですか。そこ、きっちり説明してもらいたいですね」
由春はふと真顔になって、伊久磨を見上げてきた。
「そういえばお前『明菜』呼びだな。俺の前で大胆な奴だ」
見つめ合う。
(えっ…………と…………)
めまぐるしく、思考が回転する。
怒られた。「俺の前で大胆な奴だ」つまりこれは「俺の女に馴れ馴れしくするな」と。
俺の女に馴れ馴れしくするなと。
怒られた……!
「岩清水さん……!!」
感極まって、伊久磨は由春に抱き着いてしまった。
「おい、なんだ」
腕の中で暴れる由春を力づくで抑え込みながら、晴れ晴れと言う。
「やればできるじゃないですか!! できるって信じてましたけど、いまのはかなりきましたよ!! いやいやいやいや、まさかここでそんなセリフを聞けるとは思いませんでした。俺、家族が死んだあとも生きていて良かったです」
「お前さりげなくそいういうのやめろ」
伊久磨を引きはがそうとしていた由春の抵抗が、弱まる。それをいいことに、伊久磨はさらに強く両腕で締め上げながら、上機嫌に言った。
「そういえばすっかり忘れていたんですけど」
「フローリストか?」
なぜか心を読まれた。「忘れる=静香」という謎の以心伝心を不思議に思いつつ、伊久磨は続けた。
「はい、静香です。先日、シェフに『俺にしておくか』って口説かれたと言ってました。その件、俺から岩清水さんに抗議するつもりだったのをたった今思い出したんですけど、もうどうでもよくなりました!」
明るく高らかに言い切った伊久磨の腕の中で、「はなせ」と抵抗しつつ、由春がひどく苦い口調で言っていた。
「忘れられていたあげく、思い出された途端に『どうでもよくなる』のはどういうことだ。お前、いい加減にしろよ。フローリストが聞いたら泣くぞ」
「そうは言っても、岩清水さんの心の中に誰がいるかはよくわかりましたので。俺の彼女だとわかっていて静香をからかうのは許しがたいですけど、もしかしたらそれは俺への愛ゆえだったのかなって思いましたし。それだったら仕方ないですからね。不問にします」
ようやく腕を離しながら、伊久磨はにこにこと由春を見つめた。
「浮つきすぎじゃないのか。どうしたんだお前。今日、本当におかしいぞ?」
「そんなことないですよ。あ、でもそうだな~。たしかずーっと前に、岩清水さんにキスしてあげますって言っていたんですよね。ひとのものになる前にしておかないと」
そういえばそんなこともあったな、と伊久磨は唇の端を吊り上げて笑ってみせた。
由春はげんなりした様子を隠しもせずに答える。
「いい。キスは聖にしょっちゅうされているし。お前とだなんて、フローリストに恨まれたくない。絶対いやだ」
「静香は恨まないと思いますね。『シェフのファン』なので、俺とシェフに何かあっても『そういうこともあるよね』って流すと思います」
「そんなわけねーだろ。いい加減にしろ。とにかくキスは聖だけで間に合ってる……」
「いいえ。こうなったら絶対にします。何が何でも……」
伊久磨が全力で抵抗してくる由春と手を組み合わせ、腕力でやりあっていたそのとき。
視線を。
感じた。
二人、ほぼ同時に少し離れた位置に立つ人物へと目を向ける。
張り付いたような笑みを浮かべた明菜が、そこにいた。