叫びそう
「オーナーである叔母夫婦から連絡がありました」
お茶を配り終えてから、明菜が事情説明をした。
「買い出しがてらオーナーのお母さまの家に寄ったところ、体調が悪いと。病院に行こうと言ったものの、不安がって救急車を呼んで欲しいという話になって、素人判断ができずお願いしたとのことです。行先は市内で、叔母が救急車に付き添いで乗って、オーナーは帰りのことも考えて車で向かったそうです。戻れるのは何時になるかわからないという話だったんですけど、山道ですし、無理に夜中に帰ってくるのも危ないですから。今日はお客様が私の知り合いの方なので、事情は私からお話するので明日の朝まで病院でついているか、どこかで泊まってくださいと」
そこまで話してから、明菜は項垂れるように頭を下げた。
「申し訳ありません。滞在中不自由ないようには勤めさせていただきますが、館内のスタッフは私だけです。何かありましたら、遠慮なくお申し付けください」
マグカップから口を離し、香織がソファに座ったまま軽く身を乗り出して「それでいいよ」と鷹揚に請け合う。
「客商売はお客様とのなれ合いには慎重になるだろうけど、事情が事情だ。真冬の夜道急いで帰ってくる必要なんかどこにもない。明菜ちゃんも困ったことがあったらなんでも言いなよ。伊久磨のことは手足だと思って使っていいから」
売られた。
「俺? 俺より岩清水さんの方が使い甲斐がありますよ。なかなかいないですよ、あんな良い男」
窓際に立っていた伊久磨は、「買うなら俺より岩清水さんですよ」と確信を持って売り文句を並べ立ててみたが、当の由春に妙な顔をされてしまった。
「なんか気持ち悪いぞ。何言ってんだ?」
ぴくっと伊久磨は眉をしかめる。
由春は、それとなく明菜の近くに立っている。腕をいっぱい伸ばせば届くくらいの微妙な距離。
縮まらない。もどかしい。
気付いたら険しい目で睨んでしまっていたが、明菜はふわっと微笑んで言った。
「料理、春さんが作ってくださるそうで……。皆さま日頃の疲れを流しに来たのに、申し訳ありません。なるべく早く席に戻って頂けるようにします。私、今からキッチンで準備始めますけど、皆さんはまずは温泉はいかがでしょう。もし良ければなんですけど、浴衣も用意していますから、館内は浴衣でも大丈夫ですよ。客室と温泉は同じ廊下沿いにありますし、暖房入れて暖かくしていますから。旅館気分で」
耳に心地よく、聞いていると安心する声だった。高くも低くもなく、やわらかい。
「ん。そうだな」
由春がそれを受けて、全員にさーっと視線を流す。自分のところでそれをキャッチして、伊久磨は「了解しましたが」と一息置いて、確認を入れた。
「岩清水さんは明菜さんと一緒にキッチンで準備があるから温泉は後ですよね。他のメンツで行きますんで。はい、皆さん、立ってください」
さっさと行きますよ、と追い立てる。
恐ろしく何か言いたげではあったが、香織とオリオンが立ち上がり、紅茶を飲みながら窓の外を見ていた樒も腰を上げた。
聖は伸びをしつつ「藤崎、露天風呂どうする? 先にするか、後にするか」と声をかけている。
「準備な。確かに下ごしらえは全部済ませてしまいたい。伊久磨」
当然のように名前を呼ばれて、伊久磨は真顔になる。
構わず、由春が言い切った。
「お前は残るよな」
「なんでですか?」
せっかく二人きりにしようとしているのに? と睨み返すも、由春はひく気配がなかった。
「明菜は館内で仕事があればしていていい。大人数で風呂に入りにいっても混雑するだけだ。伊久磨は後にしておけ。部屋に戻っても仕方ないし、ここで働いていればいいだろ」
「岩清水さん、おかしいですよそれ。どうしてナチュラルに俺をそっち側に入れているんですか」
「俺の好み」
(くっそ)
伊久磨は歯を食いしばり、目を瞑りながら横を向いた。
「言い訳すら放棄しやがったなこのやろう」
ギリギリ聞こえる程度の音量で恨み言を呟く。
というか。
(言う相手完全に間違えてるし。天然か? 好感度上限のキャラに餌与えてもターンを無駄に消費するだけだろ、少しは考えろよ)
カーソル間違えて俺にあててクリックしていないか? とゲーム的なつっこみが頭をよぎる。
「心愛から聞いていたんですけど、本当に相思相愛なんですね」
にこにこ笑っている明菜は、接客業としてのバランス感覚を発揮していて、本心ではひいているのか感心しているのかさっぱりわからない。
「誤射ですよいまの。的が見えてないんですよあのひと。見えていたら俺には言わないですから」
遠まわしに伊久磨は苦言を呈した。
由春は気にしない様子で背を向け、キッチンへと向かう。
「さてじゃあやるか。一仕事して風呂入って食事……。うーん、全部終わってからがいいかな」
その後ろ姿を見送ってから、伊久磨は明菜にちらっと視線を流して、何気なく声をかけてみた。
「岩清水さんって浴衣似合いそうですよね。器用だから着付けも綺麗にできそうだし。ホームページで料理見たんですけど、メインは短角和牛のステーキでしたっけ。食事前にひと風呂浴びたら、浴衣にたすき掛けで調理すればいいのに」
本当に。
世間話として話題を振っただけなのに。
顔を上げて、伊久磨の目をまっすぐに見て聞いていた明菜は、動きを止めていた。
(……え?)
頬が、赤く染まっていく。
何かを想像しました、というのは火を見るよりも明らか。
伊久磨も目を逸らすタイミングを失って、真正面から見つめ合う形になる。
視線の先で、はっと気づいたように明菜は目をしばたいて、微かに横を向いた。
「すみません……。似合いそうだって思いました。あの……、春さんは、話すと昔とあまり変わらないし、前みたいに接してくれますけど……立派になりましたよね。貫禄っていうか」
たどたどしく、少しかすれた声で言う。
ついには目元まで赤くなってしまっていた。
(い)
岩清水さぁぁぁぁぁん!!?
声を出さずに、悲鳴を上げそうになった。
かくかくと不自然な動作で首をまわし、視線をさまよわせるも、由春の姿はすでにない。キッチンに行ってしまったらしい。
(なんでだ!? なんでここにいない!? この状態の明菜さんを見れば、もう全部収まるところに収まるのに!! 惚れ直してる! これ、完全に惚れ直してる……!!)
二人の会話からするに、明菜が未成年のときから今まで会ってなかったことになる。
それはもう、二人とも変わっただろう。
由春は海外で修行しているし、帰国してからはオーナーシェフとして采配を振るい、店を潰さないで軌道にのせている。
一方の明菜も、触れたらまずいような透明感のある女性だ。クラスの半分以上の男子が意識しているけど、おいそれと仲間内で「可愛い」と話題にすらできず、「本命」として胸に秘めておきたくなるような。
由春が完全にその状態。見れば分かる。
何やら衝撃を受けている伊久磨の態度をどう勘違いしたのか、明菜は突然焦り始めて早口に言った。
「あの、私、自分でも失敗したなと思ってて。『春さん』なんて呼んじゃいけないですよね。蜷川さんだって『岩清水さん』って呼んでるのに、馴れ馴れしいというか。まずいなと思っているんですけど、直すタイミングがなくて」
「そのままで。そのままでお願いします。絶対に直さないでください。絶対にです」
伊久磨は強い口調で遮った。明菜は困ったように見上げてくるが「だめです」と首を振ってみせる。
(控え目にもほどがある。周りが何もしなければ、この二人、相手に遠慮しまくって勝手に距離置き始めるんじゃ)
目の前が暗くなってきた。
今でさえ、よそよそしさがあるというのに。それでいて、浴衣姿の妄想だけで赤くなれるなんて。
ヤバい。放っておけない。
「明菜さんは何かお仕事あるんですか。無ければキッチンで一緒に作業をしましょう」
「はい、そのつもりでした。慣れないキッチンですし、店の者がいた方がいいでしょうから。春さんの……」
そこで、声がかき消えてしまった。
自分の耳に事故でも起きたのかと、伊久磨は上半身をやや傾けて聞き取ろうとするが、明菜は黙り込んでしまう。
「なんですか。いま途中から聞こえませんでした。何か言いましたか」
「ええと……。春さんの、料理しているところ、見たくて……。だけど、さっき、他に仕事があるならそっちやってろって言われたの、私、邪魔かなって」
(い)
岩清水由春の、大馬鹿やろぅぅぅぅ……!
呼吸困難に陥るところだった。
(ヤマアラシのジレンマか!? いや、針なんかなさそうなのに、二人とも相手から全力で遠ざかろうとしてないか!?)
そこでどうしてそういう解釈になるんだとか、そもそも遠慮しすぎなんだとか。
頭の中でぐるぐるしすぎて気持ち悪くなってくる。
「あの……。ペンションにかかってくる電話も来客も全部俺が対応しますから。明菜さんはもうキッチン固定で。岩清水さんの仕事のサポートを全力でお願いします。それ以外何も考えないでいいです。片付けも俺と西條さんでしますから、食事が終わったら仕事も終わりにしてください。オーナー夫婦がいない中頑張ったご褒美として、温泉入って、ゆっくりみんなと飲めばいいと思います」
「そういうわけには」
「大丈夫です、誰か一人は飲まないでおきますから、緊急で車出すことになっても何も心配ありません。明菜さんはそのつもりで」
まさか、と本気にしていない様子の明菜から視線を逸らして、伊久磨は窓の外に目を向けた。
部屋割りをどうにかいじって、由春を一人部屋にしなくては、と決意を固めていた。