ほとんど拷問
数分経った。
この状況で、「数分」は大きい。
(数分あれば色々できる)
窓際に腰かけて、背筋を伸ばしたまま伊久磨は目を閉ざしていた。
長い。
この数分が長い。
「限界……。様子見て来ないと」
目を開けて、ふらりと立ち上がったところで、聖に溜息をつかれる。
「子どもじゃねえんだ。放っておけよ。お前気にしすぎ」
何が「限界」なんだよ、とおまけのように毒づかれる。
その聖を振り返り、伊久磨はゆるく首を振った。
「西條さん、わかってないです。ほんっとわかってないと思います」
「何を」
「子どもじゃないからこそ気にしているんです。そこ勘違いしないでください」
「おい、出歯亀っていうんじゃねえのかそれ」
呆れたように言いながら、聖もすくっと立ち上がる。青い瞳が炯々と光っていた。
「馬鹿。座れそこの馬鹿二人」
腕と足を組んでソファの背にもたれかかっていた香織が、珍しくドスのきいた声で言った。顔は、本気で嫌そうに歪んでいる。
「香織は誘ってない」「椿はそこにいろよ」
伊久磨と聖が同時に答えた。ぴしっと香織のこめかみに青筋が立ったように見えたが、もちろん目の錯覚だろう。
「趣味悪いっつってんだよ。他人のことなんかどうでもいいだろ。積もる話もあるだろうし、今くらい二人にしてやれよ」
思いっきり機嫌を傾けた様子で苦言を呈してくる。
(なんだ優しいな。岩清水さんの肩を持つなんて)
そう考えてから、伊久磨は「あ」と小さく呟いた。
違う。明菜がいるからだ、と。
どことなく控え目で、地味ながらも清涼感のある女性。伊久磨より年齢は上のはずだが、成人女性というよりは、少年のようなあどけなさと爽やかさがあった。
(そしてひしひしと伝わってくる好意……。絶対に「良い人」なのは間違いないっていう。香織がかばいたくなるのもわかる)
好意といっても、馴れ馴れしい態度ではなく、あくまで接客業らしい温かさの範囲。
だが、由春を見るときだけ瞳の透明度が増す。遠くから、感情を抑えて大切なものを仰ぎ見るような横顔に、滲み出る可憐さ。
由春もまた、まなざしや言動の端々に、抑制されていながらも明らかな優しさがあった。本当は側にいたいし触れたい、そういう感情に無理やりガラスで蓋をしたかのような態度。
二人とも。
バレバレなのに。
たぶん本人たちだけが気付いていなくて、お互いに隠しているつもりになっている。
「背中を一押ししないと」
使命感が口をついて出るも、香織は眉をしかめて冷たく言った。
「伊久磨。アホ」
「アホなのはわかっているけど、あの二人、このままだと何も進展がない。無理。俺が耐えられない」
「なんでだよ」
「むずがゆくて。休み明け、岩清水さんとどんな顔して働けばいいのか」
胸に手をあてて切々と言うと、香織がいよいよ柳眉険しく言い放った。
「うぜえええよ。なんでアクシデントでキスしちゃった高校生みたいなこと言ってんだよ。お前が。ふつーでいいだろふつーで。どんな顔も何もねーよ。想像させるなよ気持ち悪い。『海の星』ってそういう感じなのか。ひくわ」
腕を組んだままの手に力を込めているらしく、自分の腕に指ががっつり食い込んでいる。
隣に座っていたオリオンが、にこっと微笑んでその指に手をのせた。
「かおり、落ち着いて。いくまとハルは大体いつもああいう感じで『海の星』はそういう職場だよ」
「いい。そういうのフォローになってないし、べつに知りたくない」
オリオン相手には多少の遠慮があるらしく、勢いが削がれる。その様子を見て「任せた」と伊久磨はオリオンに心の中で告げて、さっと背を向ける。すぐに聖が追いついて肩を並べてきた。
「ああいう由春、はじめて見た。気色悪い」
身も蓋もないことを言う。
「俺が見た感じ、まだ時が止まっている印象ですね。どういう形で別れたのか知りませんけど、離れ離れだったわりにお互い未練ががっつりありますよ、あれ。どこに追い込めばいいのかな」
「追い込むって、猪狩りみたいだな。二人まとめて血祭にあげる気か」
伊久磨は純粋に恋愛的な意味で言っているのに、聖の受け取り方がバイオレンスに過ぎる。
違う、そうじゃないと言い直してみた。
「こう……不慮の事故で鍵がかかってしまって、一晩助けがこないまま二人きりになるような部屋ですよ。することもないし寒いし二人で身を寄せ合っていようか、みたいな」
「つまり体育館倉庫か?」
「ですね」
何がだ、と思わなくもなかったが、自分で話を振った手前、伊久磨は真面目くさった顔で頷いた。
そうこうしているうちに、目的地にたどり着く。
オープンカウンターになっていて、奥のキッチンスペースが見えた。
由春と明菜は、向き合って何やら言い争っているようだった。
* * *
「春さんはお客様なんですよ。自分の店で、お客様にそんなに気を遣われたら、かえって困りませんか。こちらの事情は気にしないでください」
「そうは言っても、聞いた以上は放っておけない」
抗議されているようだが、頑として譲る気配の無い由春。見上げる明菜の目が潤んでいる。
「本当に困るんです。私の作った料理では、春さんにはご満足いただけないかもしれませんけど、その……」
「べつに、ひとに作ってもらったものにとやかく言うつもりはない。だけど、この人数分は荷が重いだろ。俺がいるんだから俺に任せてしまえばいい。なんでも『自分で』って子どもみたいな意地を張るな」
キッチン内部が見えるぎりぎりの位置で壁に張り付いて中の様子をうかがいつつ、伊久磨は聖にだけ聞こえる音量で囁いた。
「修羅場」
「事情がわからないけど……なんだ?」
目配せされても、わからないのは伊久磨も同じだ。
「仕込みはある程度してあるはずなので。逆に春さんにはやりづらいんじゃないですか」
「そんなことはない。大きなレストランにいれば分担なんか当たり前だ。人のやりかけだからやれないとか、考えたこともない。キッチン見せてもらって大丈夫か」
「春さんは休みに来ているんだから、温泉に入ってゆっくりしてくださればそれでいいんです。休みの日まで働こうとしないでください。私が」
由春が動き出し、明菜が追いすがる。
伊久磨と聖は再び顔を見合わせた。
「キッチンの担当者が来れなくなった、という話のようですね」
「それで由春が『自分で作る』って言い出した、か?」
一瞬、二人の間に沈黙が下りる。
目だけで完璧に意思疎通が完了した。
――やらせればいいのでは?
「叔母夫婦がもうすぐ帰って来るって言っていましたけど、何かで足止めされているのかな」
「いくら彼女に調理経験があるとしても、普段その仕事をしていないなら、一人でいきなりこの人数分のディナーは無理だ。家庭料理でも大変なのに、『料理自慢のペンション』として客に出すわけだし。由春がやるならやらせた方がいい」
聖の意見はもっともだ。もしディナーにオーナー夫妻が間に合わない場合、明菜一人で作って給仕だ。同業者としては、それは絶望的だと思う。
「二人のコンビネーションも見てみたいですし。こう、息がすごく合ってたりして。いいな、そういうのたまに外野から見てみるのもいいですね。俺以外のひとが岩清水さんと組んだら、どんな風になるのか。ちょっとぞくぞくします」
「変態」
ぴしゃっと聖に言われて、伊久磨は笑みを広げながら軽く肩をすくめてみせた。
「春さん、も~。相変わらずひとの話聞かないし……。休みの日くらい休んで」
「そういえば、明菜は住み込みだっていうけど、休んでいるのか? 職場にいる限り、休まなさそうだ。もう今日は羽を伸ばせよ。サービスに関してもうちの蜷川がいるし」
さらりと伊久磨の名前が話題に上り、聖がぶふっと遠慮なく噴き出した。
「いません。いませんよ俺は休みますから。岩清水さんはすぐに俺のこと、自分のものみたいな言い方しますけど、俺は断固として二人が一緒に働く姿が見たい。どうしても見たい」
ぶつぶつと、聞こえない音量で伊久磨は抗議する。
明菜を休ませたい一心なのだろうが、巻き込まれてなるものかと。
「春さん、お店のスタッフさんを巻き込まないで。私がいますから。もう……、春さんの作った料理は私が運びます。今は二十歳も過ぎたので、お酒も多少覚えました。詳しくはないですけど、うちで揃えているものをお薦めするくらいならできますし」
キッチンを歩き回って、「冷蔵庫あけていいか?」と適宜聞きながら食材や調理器具を確認する由春。明菜はその後をついて歩きながら話しかけている。
ふと由春が立ち止まった。
追いかけていた明菜は止まり切れなかったようで、鼻から背中にぶつかって「んっ」と呻き声をあげていた。
「大丈夫か?」
「はい。ごめんなさい」
明菜は鼻や口元を手で覆っている。微かに涙目。見下ろした由春は、穏やかに言った。
「そういえば前は飲めなかったんだよな、未成年で。今は……」
「あんまり飲まないです。強くないというか、弱いので。すぐ赤くなってふらふらしちゃう」
はぁ、と伊久磨はいかにも深刻そうな溜息をついた。
聖は聖で、壁に背中を預けながら天井を仰いで口を開く。
「フローリスト飲むんだっけ」
「少しですね。すぐ酔うので。無理して飲ませることはないですけど、めちゃくちゃ可愛いですよ」
「いやそこまで言わなくてもだいたいわかる。由春の頭の中もわかる」
こく、と伊久磨は頷くにとどめた。
(む、むずがゆすぎる……)
これはもう完全に、出歯亀したのが悪いのはよくわかっているのだが。
「じれもだむずきゅんラブの刑に処されてる。無理。辛い」
言いながら伊久磨はずぶずぶとその場にしゃがみこむ。
「同じく。何かの拷問だなこれは」
したり顔で頷く聖。
もはや窺うこともできなくなっていたが、由春の方が気配に気づいたらしく、ひょいっと顔をのぞかせた。
「何やってんだお前ら。手伝いにきたのか?」
轟沈状態の伊久磨は、息も絶え絶えに「いいえ、ただのキッチン見学です。仕事があれば続けてください」と答えた。