軋む音が響いても
(伊久磨くんが来ない)
エレナがファーストドリンクと、食材アレルギーの最終確認をして、テーブルを離れて行く。
伊久磨は、由春と連れ立って個室に向かう姿がちらりと見えたが、戻ってきた様子はない。
両親の到着に合わせて、テーブルに顔を見せてくれるのかと思っていた。この後、どのタイミングで来るつもりなのだろうとそわそわしてしまう。
「東京から真っすぐこっちに来ていたのか」
はす向かいに座った父の俊樹から声をかけられ、静香は気がかりな表情を隠し切れないまま顔を向けた。
一見して、白髪が増えたな、という印象。
服装はアイボリーのシャツに、紺地にアーガイル柄のベスト。
静香の隣に座った母は、ペールブルーのカシミヤのセーターに、パールの二連ネックレスだった。
二人とも、フォーマルとカジュアルの間。気負わず上品な雰囲気の夫婦に見える。
「うん。あの、このお店のことは知っていたから」
窺うように、微かに片眉を持ち上げられて、静香はぎこちなく笑みを浮かべてみせた。
「光樹、ピアノでスカウトされたってね。さっきお客さんが入る前に演奏を聞いていたけど、相変わらずすごく上手いなと思った。こう、音が聞きやすいのかな」
正面に座った光樹からの視線が熱い。というか、痛い。ひりひりする。
(馬鹿なこと言っている、みたいなこの感じ。何よ。なんでお姉ちゃんにそう厳しいかな)
「プロでもない高校生の演奏だ。食事中のBGMなら有線でもかけておけばいいものを」
俊樹にはそっけなく言われて、静香はいいだけ顔をしかめてしまった。
「こういう素敵なレストランで『生演奏』を聞ける付加価値の話じゃない」
「耳障りな音なら、無い方が良いというお客さんだっているだろう。何でもかんでも『生』とか『手作り』に価値があるわけじゃない」
(これだよ、うちの親)
言っていることは間違いではないが、いわゆる褒めて伸ばすタイプではない。少なくとも演奏者本人の隣で本人に聞こえるように言うなよ、とは思うのだが。
ちらっと目を向けると、光樹は不機嫌に侵された目で、父親に視線を流している。「うるせえな」と顔に書いてあった。静香にも、気持ちはわかる。
「お父さん、光樹のピアノちゃんと聞いたことある? ふわ~っとして綺麗だよ」
援護射撃のつもりだったのに、光樹にぎろりと睨まれた。
「ふわ~ってなんだよ。ふわ~っとしてるのは姉ちゃんの頭じゃねえの」
弟。
「そ……その言い方はないんじゃないの? たまにしか会わないお姉ちゃんに、そういうの、良くないと思うんだよねえ」
「ふん」
鼻で笑うという生易しいレベルではなく、はっきり「ふん」とふてぶてしく言って、光樹は静香にきついまなざしをくれる。
「ずーっとろくに実家に寄り付かなかったくせに、こっちに彼氏ができたら舞い上がっちゃって。まぁ仕方ないのかな。もういい歳だし」
弟。
思いっきり言い返しそうになりつつも、喧嘩しに来たわけではないはずと堪えたら、さらに追撃された。
「まさか、初カレじゃないよな。姉ちゃんのそういうの興味持ったことないから知らないけど、今まで気配なかったし」
「光樹。表出ようか。そんなにお姉ちゃんに言いたいことがあるならちょっとこう、表で話そう」
リアルにこめかみに青筋が立つのを感じつつ、静香は声を低めて言った。いまにも椅子を蹴倒して立ち上がりたいくらいだった。
静香、と真横に座った母に声をかけられたが、聞こえなかったふりをする。
光樹はといえば何かすごく納得したように頷いていた。
「やっぱ姉ちゃん、ヤンキーだよな。俺あんまり記憶にないけど、中学、高校あたりはマジでヤンキーだったんじゃないの? 家に帰ってこないで大騒ぎになったりしてた覚えある」
静香は目に力を込めて睨みつけた。
「誰も騒いでないよ。あたしの心配なんか、おばあちゃんくらいしかしてなかったんじゃない。帰ってこないなら帰ってこないで構わない、って感じ」
言いかけて、片手で顔を隠しながら額をおさえる。
ギシギシと軋んでいる。空気が。
(あの頃、自分が「誰からも心配されていない」ことに傷ついていた。もう大丈夫、もう大人になったんだから関係ないと思おうとしているのに)
ふとした拍子に、噴き出す。
両親にあてこするように言ってしまう。心配されたかった。必要とされたかった。帰っておいでと言ってほしかった。あなたの居場所はここにあるから、安心しなさいと。
愛されたかった。
「そう思ってるの、姉ちゃんだけだよ。家中滅茶苦茶になってたの、俺覚えてるもん。親父も母さんもすげー心配してたっつーの」
怒ったような口調で言われて、静香は力なく首を振った。
「そういう嘘はいいよ」
間違えた。また言ってしまった。言うつもりはないのに、止まらなくなる。
今もまだそこには傷口があって、両親への怒りが渦巻いているのだ。
白髪の増えた父にすら、残酷な罰を与える夢を見る。何度も何度も、繰り返し。憂さを晴らしたくて。
(食事をする空気じゃない……)
この、絶妙に仲の悪い家族をこれから伊久磨に見せるのかと思うと、逃げ出したい気持ちになるというのに。
「いらっしゃいませ。こんばんは」
耳に馴染んだ、穏やかな低音。
タイミング、と静香は絶句して俯いてしまった。
(伊久磨くん来ちゃったよ~)
「アルコールのご注文はお父様ですね。帰りの運転は奥様ですか」
おとうさま、という響きにドキリとしたが、光樹を起点にして呼びかけているのだろう。確認しながらドリンクをテーブルに置いて行く。
静香には、背後に回り込んで細かな泡の浮かぶ薔薇色のシャンパンのグラスを置いた。手を下げるときに、さりげなく肩をとんとん、と軽くノックされる。優しい仕草。様子が変なのは気付かれている。
「せっかくお越しいただいたのに、ご挨拶が遅くなりました。お母さまは初めましてですね、蜷川です。お料理始めさせて頂きますので、ゆっくりしていってください」
そう言った伊久磨に、俊樹が顔を向ける。そのまま固まった。
視線は伊久磨の背後。
コックコート姿の由春が、上機嫌に話している老人を先導して振り返りつつ、どこかへと案内している。
俊樹の目はその老人に向けられているようだ。
姿が見えなくなってから、待機している伊久磨に向かい、小声で話しかけた。
「よく来るお客さんかい?」
「いえ。今日初めてです」
俊樹は眉間にぐっと皺を寄せて「連れはどういう」と尋ねた。
伊久磨は背後を気にしてから、「小さなお子様連れの若夫婦です」と素早く答えた。そのまま、ほとんど唇を動かさずに尋ねる。
「お仕事の関係の方ですか」
「関係というか、あまり関係になりたくない相手だな」
そこで伊久磨は頷いた。
「そんな気はしていたんですよね」
ふう、と思わずのように吐息がもれる。
「どういう意味?」
二人のやりとりを見ていた光樹が口を挟むと、伊久磨は穏やかなまなざしを向けた。
「たぶんヤのつく職業の方。お料理のことで確認することがあって、さっきシェフが直接お話したんだけど、そうだね。怒らせるとまずい感じはあった」
ええー、っと声に出さぬまま驚いた顔の光樹に、伊久磨は落ち着いた調子で続けた。
「大丈夫。いつも通りの接客をしていればお客様を怒らせることなんかないから」
光樹が相手のせいか、少し砕けた様子だ。
一方の俊樹はといえば、重々しい口調で言った。
「店として客を選べないのはわかるが、そういう客層の店で、高校生の息子を働かせるわけにはいかない」
これには伊久磨も苦笑すら浮かべることなく、小さく頷いた。
「齋勝さまであればご存知かと思いますが、市内には他にもそういう方はいらっしゃいますよね。事前に情報があった場合は、『海の星』として入店をお断りしています。今回はあくまでプライベートで、ご家族の会食ということもあり、このままお食事はして頂きますが、次回以降は予約段階で気を付けます」
神妙な口調だったが、目を伏せて聞いていた俊樹はゆるく首を振った。
「気を付けようがない。あのじいさん、腹違いの子どもが二十人いるって話だが、跡を継いだ子以外はいわゆる一般人だ。一般人をおいそれと入店拒否はできないだろうし、まずいのは実際にじいさんと跡継ぎだけだし」
「二十?」
ん? と真顔になった伊久磨が念押しのように問い返す。俊樹もまたにこりともせず頷く。
「二十」
会話の流れに取り残されまいとしたように、光樹が「そういう、一般人じゃない感じって、どのへんでわかるの?」と伊久磨に食らいついた。
ちら、と視線を流して、伊久磨は老人がまだ戻ってこないのを気にしてから、声をひそめて言った。
「お部屋にご案内したときに、杖を持っているけど使っている感じはないなと思っていたんだ。後からシェフとお部屋に行ったときに、話している最中に杖をいじってるなーって見ていたら、あれたぶん仕込み杖っていうのかな。中身刃物。日本刀? ちらちら見せられて、あ、これはやばいな、と」
淡々とした話しぶりであったが、静香は思わず声にならない悲鳴を上げて、自分の身体を自分の腕で抱きしめた。
「い、伊久磨くん。それふつうに銃刀法違反じゃん。通報して出て行ってもらったら。そそそ、そんな席誰が担当するの。粗相があったら指つめられたりするんじゃないの……!!」
あわあわと焦りながら言うも、伊久磨には取り乱した様子もない。
(そんな状態であたしの様子を気にしている余裕よくあったよね!?)
信じられない思いで見つめるも、伊久磨はにっこりと笑って言った。
「誰が担当するも何も俺だけど。大丈夫、こっちには影響がないようにするから」
その口調は、おそらく静香を安心させるため。
すぐに俊樹に向き直り、真摯な様子で言った。
「ご本人以外のご家族は一般人というのを信じて、楽しく会食して頂けるように手を尽くしてきます。齋勝さま、貴重なご助言頂きありがとうございました」