姉VS弟
「姉ちゃんさ。ほとんど地元に帰ってきてなかったのに、なんでまた『海の星』に来たの。ここ、新しいお店だよね。姉ちゃんが地元にいたときにはなかったはず」
向き合って座った光樹に、どことなく不機嫌そうな表情で言われる。不審そうと言うべきか。
どこまで話そうかと、静香は一瞬迷った。
迷うときは話した方が良いと、経験上知っている。自分の場合、「隠すとろくなことにならない」のだ。
(話すだけ話そう。味方をして欲しいとは思わないけど、敵にならないならそれで良い)
意識的に深く息を吸って、吐き出す。
この席で――香織と二人で、食事をした。それがはじまり。
「去年、あたし、長めに実家にいさせてもらったときがあったよね。あの時、こっちの知り合いが良い店知っているからって言って連れてきてくれたの。その流れで『海の星』の仕事を受けて、伊久磨くんとも連絡先の交換をした」
言い終えて、静香は軽く眉間に皺を寄せた。意識していたつもりもないのに、微妙に時系列が前後した。
仕事をすることはすでに決まっていて、香織に連れて来られた、というのが正しい流れだ。水沢家・岩清水家の顔合わせにテーブル装花の差し入れをする下見として。
その後に、休日の伊久磨と出会って連絡先を交換し、「恋人同士」になった。
(隠すつもりはないのに、香織の話をしようとすると、まだ)
……「まだ」なのか。「この先ずっと」なのか。
生きているのに。
こんなに近くに、確かに存在しているのに、いないもののように巧妙に取り除いて名前を出さず。
それは、まるで。
父と、母と、他ならぬ静香自身が齋勝の家の中で彼に対して作ってきた空気そのもの。
テーブルの下で、静香は両手の指を祈るように組み合わせ、ぎゅっと力をこめる。
(香織はそうやって「消される」こと、子どもの頃から「消され続けてきた」ことに決して不満を口にしなかった。飄々として、まるで気にしていないかのように振舞っていた)
気にならないはずがないのに。
このまま、彼が死ぬ日まで、彼を踏みにじり続ける気なのだろうか。生きながら死ねと、その心臓に透明な刃を突き立て、殺すのだろうか。自分は。
「光樹。……椿香織というひとに会ったんだよね」
光樹の頬が強張る。その名前、その面影、その存在にまとわりつく影、色濃い闇にきっと気付いている。
名前を口にするだけで、喉の奥が苦しい。何も知らなかった頃、何もないかのように付き合い続けていた頃に戻ることはもうできないと、思い知る。
「彼は、齋勝の家に関わりがあるひとなの。はっきり確認したことはないけど。たぶん、確実に」
「家に? 姉ちゃんの元カレじゃなくて?」
推し量るまなざしで問われ、静香は頷いてみせた。
エントランスの方から、涼やかなドアベルが鳴り響いた。
時間的に、両親が着いたのかもしれない。
(いま言わなければ)
ここで勇気を出して伝えなければ、一生言う機会を逃してしまうかもしれない。「焦るとろくなことにならない」のも知っているけれど、言わなければ。
静香は光樹から目を逸らさぬまま、思い切って、早口に言った。
「あのひと、あたしたちのお兄さんかもしれないの」
光樹の表情はほとんど動かない。
不安になるほど。
奇妙に間延びした時間。一秒、二秒……。
圧迫感を覚える重苦しい数秒が過ぎて、ようやく光樹はぼそりと言った。
「知ってた」
「えぇー……」
変な声が出た。だが、一気に脱力というわけではない。むしろ全身はまだ強張ったまま。次に何を言うのかと、その口元を見つめたまま張りつめている。
それを知ってから知らずか、光樹はそっけなく続けた。
「具体的に、はっきりわかってたわけじゃないよ。だけど、なんとなくうちに『そういうひと』がいるのは感じていた。俺もそこまで馬鹿でもガキでもないから。確信っぽくなったのは、今だけど。今。なんか『だよな』って感じ? うん。そうだね。姉ちゃんの元カレっていうより、その方がしっくりくる」
そこまで言って、唇を閉ざす。微かに、震えている。強い思いを、あるいは涙を堪えているかのように。
静香もまた、引き絞られるような喉の痛みに耐えていた。
本当は叫び出したい。叫んで泣いてしまいたい。思うだけだ。何もかも石のように固まっている。
窓の外で、雪が降り出していた。
「俺、たぶん会ったことがあるんだ。髪型が変わっていたからすぐには気付かなかったけど。前にさ、あのひと、髪長かったんじゃない? 茶色で。小さい頃、迷子になって『髪の長い男の人』に家まで連れてきてもらった、って母さんに言ったらすげー慌てて飛び出して行って。なんか心当たりがあるのかなって……。でも、聞けないんだよな。その後も、『なんかあるんだな』って、思うことが何回かあったけど。ああ、いまわかった。それか……」
長年の疑問が晴れたというよりは、重い荷物を背負っていたことにふいに気付いたように。
疲労の滲んだ顔になり、それを両手で隠すように覆って、光樹は小さく呻いた。
息を詰めて見守っていた静香は、うわあ、と変な声を上げた。
「ごめん! ショックだよね!? あたしも気がきかないっていうかさ、もう少し落ち着いた状況で話せばいいのに、今しかないって、うわぁぁぁってなっちゃってさ。ほんっと至らぬ姉で」
顔を覆った指の間からちらりと視線をくれた光樹は、さめた調子で言った。
「高級レストランの、お客さんが入る前に、時間つくって二人で向かい合って。逆に、これ以外のどういう状況が良いのか聞きたいくらいなんだけど」
静香が猫であれば耳がぺたんと張り付く程度に威圧をされて、いやいやそんな場合では(猫じゃないし)と思い直す。
「そ、そうだよね~。実家だとお互い自分の部屋にいるし、両親の前で話したい内容でもないし。えーと、そういうわけだから」
「まとめ方、雑だなぁ。香織さんかわいそう」
香織さん
かわいそう
(うわ、さらっと同情した。さらーっとふつーに同情した)
あたしは雑だとして、あんたは軽いよね? と静香が思わず胸の裡で呟いたところで。
「香織さんと伊久磨さん、仲良いよね」
顔を隠すことをやめた手をテーブルに投げ出し、確認するように尋ねられて、静香は大きく頷いた。
「うんうん、あの二人は一緒に暮らしていたことあるから。結構長く」
「マジで。それ、姉ちゃんより全然仲良いじゃん」
弟。
ざくり、と胸に一撃をくらって静香は見えぬ傷口を手でおさえる。
「ん~~~~? まあそうともいうけど、『彼女』はあたしだし?」
「なにその突然の彼女アピール。『彼氏』は香織さんなの? 伊久磨さん、そうかぁ」
「いやいやいやいや? なに邪悪な妄想してるの? 彼氏ってなに、彼氏って。伊久磨くんはそんな多情じゃないですし、彼女しかいません!! 彼氏いません!!」
「そう思っているの姉ちゃんだけなんじゃないの? 香織さんは伊久磨さんの部屋の合鍵持ってるし、裸で帰りを待っている仲だよ? 姉ちゃんそんなことしたことないよね」
(はあああああああああああ!?)
びっくりしすぎて声が出なかった。心の中では叫んでた。
合鍵なんか持っていないし、裸で、裸で、裸とは。
「裸とは(哲学)」
「姉ちゃん、(哲学)ってつければ有耶無耶にできると思っているみたいだけど、できてないよ。裸は裸だよ。裸で布団にくるまって『おかえりー♡』って。あれはびっくりした」
「光樹ちょっと待って。それなんか絶対誇張とかあるよね。嘘じゃないけど『言・い・方』!! みたいな、何かひっかけがあるよね。お姉ちゃん騙されないよう、そういうのには騙されないから……!」
はー、はー、と息が切れる勢いで言い募ってしまった。
光樹にはどことなく面倒くさそうな目で見られていた。のみならず「うるさい」と声に出して言われる。
静香はがっくりとこうべを垂れた。
「とにかく、伊久磨くんの彼女はあたしなので……」
顔を上げてちらりと見ると、まじまじと見つめられていた。その挙句に呟かれる。
「どこが良かったんだろう」
「弟、そういうのやめて。あたしの良さは伊久磨くんが知っているし、伊久磨くんが知っていれば十分だから」
強がりを言った。本当は心臓がばくばくしていた。
(どこが!? ほんとどこが良いんでしょうかね!? そういうの彼氏本人に聞いてもいいですか!?)
光樹は何やら満足そうにへらっと笑っている。意地悪だなー、こんなに意地悪だったかなーとテーブルに手をかけてぐっと握りしめたところで。
「齋勝さま、お父様とお母様がお見えになりましたよ」
席まで二人を案内してきたエレナが、優し気な声音で告げた。