噛み合わない場合では。
「やっぱり、断る。一歳半にコース料理は無理だ」
決然とした口調で言い切り、客席へと出て行こうとする由春を、伊久磨が身体でふさいで止めた。
由春が、明らかにムッと顔を強張らせる。
「シェフの困惑ももっともだと思います。一応状況をお伝えしますと、あそこのお席に関しては、おじい様が実権を握っていて、自分の要望を通そうとしているように見えます。そして、すごく難しいことに『店やシェフをからかったりないがしろにしている』わけではないようなんです。話した感じは変なところもないというか、その、真面目に『一歳半を一人前と扱って、同じコースを食べさせたがっている』んです、おじい様が」
伊久磨の長々とした説明を遮り、由春が手を振る。
「無理。俺が無理だって言ってんだから、無理」
ホールから戻ってきたエレナが、押し問答を見て思わずのように言った。
「少し様子を見ることはできませんか」
「だめだ。コースをはじめてから、『やっぱりだめそうなんで』と切り上げる気か。最初からだめなのがわかっているのに。俺は」
そこまで冷静に言っていた由春だが、立ち眩みでもしたかのように掌で顔を覆った。
すぐにそんな場合ではないと思い直したらしく、指で眼鏡のブリッジを押し上げてから、続ける。
「金を払えばいいって問題じゃない。食材も労力もすべて無駄になる。労力に関して云々は言いたくないが、食べられないとわかっていて注文を受けるのは、ダメだ。ここは俺の店だ。お客様がどうしても無理を通す気なら、出て行ってもらう」
怒っているというより、心の底から困惑している様子だ。エレナも「すみません」とすぐに引き下がる。
(藤崎さん?)
一番初めに、客と接した感触として、エレナは何か引き下がれないものでも感じたのだろうか、と伊久磨は一瞬考え込む。
「まだ、状況がはっきりわかりません。たとえばなんですけど、元気そうに見えるおじい様が余命宣告をされていて『一人前になった子どもと食事をした気分を味わいたくて無理に先取りしている』なんて理由もあるかもしれません。ひとまず、価格内で食材のランクを上げて一皿あたりのポーションを少な目にして、お子様が召し上がれなかった分はお父様かお母さまにおすすめしてみるように……というのではいかがでしょう。個室なので他のお客様に気兼ねもないですし」
伊久磨が言うと、由春が噛みつくような勢いで口を開く。
「おい、ふざけるな」
今日はこのコース以上の価格帯の予約がない。すでに仕入れて下ごしらえ済みの食材のランクを上げるなど、すぐにできることではない。加えて、一皿に使う分量などもあらかじめある程度は決めているのだ。
横で聞いていた聖もまた、難しい顔で口を開いた。
「予約時にNG食材はないことになっているけど、この情報も怪しい。一歳半なら離乳食が終わる頃だろうけど、生ものや揚げ物はまだ食べたことがない可能性が高い。アレルギーに関しても、実質『試したことがないからわからない』ということも考えられる。卵、乳製品、小麦、甲殻類……少なくともこの辺は調理場で扱っているから、よく確認しないと。というか、確認しようがないんだけどな。一歳半なんて、お子様ランチすら食べられない時期だろ。『お客様が言うから』で注文を受けて良い問題じゃない」
確かにそれはもっともで、「触るだけで蕁麻疹」レベルのアレルギーがあったり、もしくは興味をもって口にしたものの中に反応する食材があって何かが起きてしまえば、生命に関わることもある。店の責任ではない、という問題ではない。
救急車を呼べば当然会食も中断になる上に、他のお客様にも迷惑をかけてしまう。
「実際にお子様の普段の生活を見ているのはご両親ですよね。祖父が無茶を言っていることに本音は迷惑……ということも十分考えられますか。少し上の世代の方だと、アレルギーの怖さも根性論で済ませてしまったりすることもありますし」
伊久磨が話している横で、エレナが(なるほど)という顔をして目を見開いていた。何が問題かが頭に浸透してきたようだった。
聖に続いて由春も、恐ろしく真摯な様子で言った。
「これは適当に流していい話じゃない。特別コース一名、今この場でキャンセルなら、キャンセル料も欲しいところで、なんて考えるなよ。それを言ったら『払う以上は料理を出せ』って押し問答になる。ドタキャンされたと飲み込んでしまった方がマシだ。俺の店で今日この件を受けたとして、今後よそで『海の星はやってくれたのに』と言われるのも気に入らないしな」
よそで、ということまで考えているのが、店を背負って立つ由春らしい。
それまで黙々とアミューズのスタンバイをしていたオリオンが、おっとりと笑って言った。
「子どもには子どもの食べ物があるよね。小さな頃から本格的なものにふれさせるのは大切とも言われてはいるけど……。さすがに早過ぎる。おじいさまは気に入らないかもしれないけど、コースの半額の値段でお子様ランチを作ってあげるから。卵や乳製品食べたことがあるかを確認してきて。あと、好きなものがあればそれも」
毒気を抜く優しい口調に、伊久磨は知らずふっと吐息した。
(コースの半額のお子様ランチでも、金額的には可愛くないけどな)
エレナは再びホールに戻っていく。その後ろ姿を見送って、由春が伊久磨に低い声で言った。
「月曜日に特別コースの予約確認電話を藤崎から入れている。伊久磨は伊久磨で、そのときに自分が不在で、話を詰められなかったことに責任を感じているんだろうけど、一歳の子どもだとわかった上で絶対に食べられない料理を作ることはできない。一度受けた件を翻すのは店の信用問題でもあるし、俺が直接話した上で、普段食べているものを聞いてくる。その、おじい様に挨拶がてら」
持ち直したらしい由春が、微かな苛立ちを抑え込みながら言った。伊久磨に対してというよりも、まだ見ぬ「おじい様」への感情のようではあったが。
「ファーストドリンク一緒に行きます。すぐに」
由春がどう話すのかは、後学のために聞いておこうと同行を申し出る。
オーダー分のドリンクを用意しようとしたら、聖がすでにトレーの上に揃えていた。
少し迷ったように、由春が言う。
「お前のお客さん、そろそろ予約の時間だけど、こっちにかかりっきりで良いのか」
「それはそうなんですけど、何があるかわかりませんし、このまま俺が個室をみた方がいいですよね」
伊久磨が平然と返すと、由春はまたもや頭痛を覚えたように眉をしかめた。
「ああ。個室は昨日の今日だし藤崎には荷が重いのは確かで……。齋勝さまから渋沢さまに変わったとはいえ、伊久磨がみた方が良いのは営業として間違いないんだけど……」
今日のオーナーシェフは悩みが深い。
不思議なことを言うお客様もいれば、伊久磨の知人の予約もある。おそらく、なるべく伊久磨にそちらの席を任せたいだろうに、店の営業を優先せざるを得ないのが、自分としては納得がいかないに違いない。それでいて料理は特別コースの予約があり、この後自分は調理場を離れられない。
なんとなく店全体で噛み合わないことに細かな不安があるのだろうと感じて、伊久磨はにこにこと笑いかけた。
「俺は仕事中です。齋勝さまは今日、レストランをご覧頂くためにお食事にお招きしました。個人的な話をする時間がとれなくてもそれはそれです。店が浮足立たない方が大切です」
由春は、吐き出したかった溜息は、堪えたらしい。
瞳に勝気そうな光を浮かべ、唇の端を吊り上げて笑みを作った。
「そうか。じゃあ任せる。ま、ランチのときのお前だったら正直だめかな~とは思っていたけど、彼女効果すごいな。密室に二人きりにしたらすっかり落ち着いて。何していたんだか知らねーけど」
からかわれて、伊久磨はくすっと笑みをもらした。
「べつに変なことはしていないですよ。五分でできることなんかたかが知れていますし」
ちょっと天井を見ていてくださいと冗談で言ったら、キスひとつに大変な押し問答になり、ぎゃーぎゃー言い合っていただけで大半の時間が過ぎてしまった。
その時の会話を頭でさらっていた伊久磨は、ふと思い出したことを口にした。
「あ、ただですね、流れで結婚の話はしました。さすがに時間なくて話を詰められてないんですけど」
キッチンから出て行きかけていた由春が、何もないところでつまずいた。
流れ? という呻き声をもらしながら。