懊悩するシェフ
「シェフが死んでる……」
ホールから足早に戻り、ざっとキッチンを見渡して、伊久磨は呟いた。
普段は何があっても激しく落ち込んだり、決断を下すべきことにぐずぐずしたりしないオーナーシェフの由春が。
キッチンで腕を組んで立ち尽くしたまま、灰になっていた。
その正面では、うなだれているエレナ。
苦笑いの聖とオリオン。
「すみません……。本当にすみません」
謝るエレナに「いいから」といった様子で由春が軽く掌を向ける。
「その、藤崎が謝るようなことじゃないんだが」
判断に、迷っている。
伊久磨は肩をすくめ、軽い調子で告げた。
「齋勝家のお二人にはご納得頂きました。個室、空きます。特に問題ないので、渋沢様をお通しします」
チラッと視線をくれた由春が、曰く言い難い表情で吐息する。
「そうなるよな。それが嫌なんだけど」
らしくない、ごねるような口調。伊久磨は小さく笑った。
「今後の予約業務に影響が無いとは言い切れませんが、その辺はうまくご説明差し上げます。授乳する可能性のある、一歳のお子さまを含む四名様の席があって、個室も空けようと思えば空けられるときに、ホールのテーブル席にお通しするのは得策とは思えません。他のお客様との兼ね合いもあります。室料に関しては、個室を試験運用中につき、今回限りとご説明差し上げて頂かないようにはしますが、部屋自体は」
「伊久磨」
たまりかねたように、由春が名を呼んだ。
「はい」
「お前はそれで良いのか。齋勝家に関しては俺はお客様だと思っている。何も手を抜くつもりもない。それを、一度席にお通ししながら」
由春の性格上、気になるよなと伊久磨は理解しつつ「その気持ちだけで」と告げた。
話し合いが長引きそうな気配を見て、聖がホールに出て行く。エレナも慌てて動こうとしたが、聖が良いからそっち聞いてな、とその場に留まるように言った。
本日最初の予約客がオープンとともに到着。予約は大人四名となっていた上に、コース料理も四名の予約であったが、一名が一歳児だったという謎。まったくの乳飲み子というわけではなく、歩くことはできるが、まだ授乳もしているという。言葉の意味も通じているわけではない。ダメと言っても騒ぐときは騒ぐだろうし、動き回ろうとするかもしれない。
大人四人の齋勝家と席を取り換えて、個室に通した方が良いというのが伊久磨の判断だった。
「静香と光樹は予約の時間よりだいぶ早く来ていました。静香はその間、部屋で休ませてもらっただけで十分と言っています。それに、齋勝家のご予約は今週の月曜日に俺が入れたものですが、渋沢様からのご予約は二週間以上前に頂戴しています。もし良い席と普通の席があるなら、ご予約の早いお客様を優先する、という自分なりの理屈も考えてみたんですが」
ずっと晴れない顔をしている由春の顔を見て、伊久磨は慎重に尋ねた。
「だめですか?」
うーん、と由春はなおも唸っている。
そして、独り言のように呟いた。
「個室は便利だけど、何かと問題も起きやすいな……」
聞きつけたエレナが、伊久磨に視線を滑らせる。
「個室が『ある』ことが、何か問題になるんですか」
伊久磨は、にこりと笑みを深めた。
「これまで『海の星』は個室なしというスタイルで営業してきました。それがここに来て、『使えるようになった』というのも良し悪しです」
良し悪し、とエレナ口の中で繰り返した。
伊久磨は頷いてから、自分自身にも言い聞かせるように続ける。
「思いっきり個室料を会計に入れるならともかく……、昨日や今日のように、お客様のご希望というより店の判断、言うならば好意でお通しするのは、本来あまり良くないと俺は思います。というのも、席の配置に関しては、ご予約時の人数や時間帯の兼ね合いで、『希望に沿うように調整は致しますが、ご指定は頂けません』というのが店の基本的なスタンスです。このとき、『一番良い席で』と仰る方も多いですが、店側としては各席ごとに、いわゆる『優劣』『上下』はない、つまり良い席悪い席という区別はないとご説明差し上げて、納得して頂くようにしてきました。藤崎さんも、電話での問い合わせにはそのように答えて頂いていますね」
確認されて、はい、とエレナは神妙に返事をする。その様子を見ながら、伊久磨は再び口を開く。
「ところで『個室』に関しては誰の目にも明らかに『別格』です。今後、個室をご希望されるお客様も出て来ると思います。そのときに、『普段は室料を頂いているけど、空いている日は人数の多いお客様に店の判断でご利用頂く』というのは、個室料をお支払い頂いてご利用頂いているお客様に申し訳が立たないです。また、お客様によっては、悪気なく『前にサービスで使わせてもらったから今回も』と考える方がいるかもしれません。もしくは、悪い表現ですが『味をしめて』『ゴリ押し』ということも。そういった観点から、個室の運用はオペレーション以外にも懸念があり、慎重にいきたいところですが」
エレナはかしこまって、生真面目な表情で聞いていた。伊久磨は時間がない中、右手で左手首のカフスを手早く整えながら、伝える。
「その辺は俺からはっきり、言います。次はないですよ、と。ただそれでも……コースの予約人数の謎は残るんですよね」
由春の顔が晴れない原因のもう一つ。
エントランスで出迎えた際に、エレナがやんわりと「コースは大人の方三人分だけでは?」と確認したのだが、あくまで「四人分」と突っぱねられたという。かといって、メンツはその四人で、誰かが遅れてくるというわけでもないらしい。
「見たところ、法事という雰囲気でもなかったですけど。まさか陰膳じゃないよな。そこも俺が確認してきます。シェフ、いつまでも変な顔していないでください」
似合わないなぁと伊久磨が噴き出しながら言うと、ぶすっとむくれたまま「行け」と由春は短く言った。
すぐにホールに引き返す。
仮の席に通した渋沢家とは聖が和やかに会話をしていた。一方、齋勝姉弟はピアノの近くの席でおとなしく座っている。
――藤崎さんがね、「部外者というわけでもないですから、ほんと。ゆっくり。なさって」って言ってくれて。あたしから関係者みたいな大きな顔するのも変かなって思っていたんだけど、ちょっと受け入れてくれた感じ? だから、そこまで「お客様なのに申し訳ない」みたいなのはやめてね。あたしも個室にはお子さん連れの方が良いと思うし、親も今ならまだ個室のことは知らないわけだし。
最初のお客様から難しい事態になったな、と見て取った瞬間、自分から個室を出ることを申し出てくれたのだ。
正直、それがなければ伊久磨も判断に迷う部分はあったと思うだけに、ありがたい。
(きっかけを作ったのは、たぶん藤崎さんだよな。静香に声をかけれくれたから……)
静香は以前、心愛にかなりひどいことを言われたことがある。心愛本人は今となってはおおいに反省していると思うが、静香にはトラウマになっていても仕方のない面もあった。
それだけに、店の女性従業員との関係は気になるところだったが、エレナの対応には救われた思いがした。おそらく、静香もそうだったのではないだろうか。
エレナには、きちんと静香を見て、静香に合った対応をしてくれてありがとうございますと、後で伝えておこうと心に決める。
(ひとまずは、この件を)
足早に聖が対応しているテーブルに近づく。会話が耳に届く。
「そうですね、最近は生後半年祝いの『ハーフバースデイ』はよく聞きます。でも半年ではないですよね? 一歳とおうかがいしていますが」
夫婦と一歳児、それにどちらかの祖父といった組み合わせだ。聖は祖父に向かって話している。まるで主役のような存在感で、夫婦もどこか遠慮している様子。
服装や持ち物をざっと見た限り、品が良く優美な印象を受ける。どれもこれもブランド品のようだ。
きちんと着飾って来店してくださるお客様は、店からしても大歓迎だ。記念日利用などあらたまったハレの席も多い中、周りのお客様にも好印象だと思う。
(見た限り変なところはないんだけど)
聖のやや気安い話しぶりに、祖父とみられる老人は特に気を悪くした様子もなく、呵々と笑って明るく告げた。
「今日で一歳半だ。まあいい、誕生日みたいなものだ。ここまで大きくなったらもう一人前だからな。料理も一人前だ」
「……っ」
遠慮容赦のない聖が、(相手はお客様!)と何か飲み込んだ気配があった。
(一歳半で一人前?)
伊久磨も、中途半端な距離で止まってしまう。
渋沢さまのご予約。税・サービス料抜きで一万五千円の特別コース。
特別コースだけに、急に一人分減らして欲しいと言われるのも店としては困る。
だが、だからといって、人数に一歳児が入っていると知って平然と提供して良いものか。
シェフが渋い顔をしていた事情はそのへんなのだが。
今の話を聞く限り、完全に、「頼むつもりで頼んでいる」ことがはっきりした。
(一歳半で? 一人前?)
疑問いっぱいになりながら、聖と目配せして代わる。
「お部屋のご用意が出来ましたので、ご案内します」
声をかけて、ひとまず先に立って個室に向かう。
道すがら、夫婦の男性側と並ぶような形になったので、今回は個室料は頂かない旨を伝えて部屋に通す。
ファーストドリンクのオーダーを取りながら、最終確認したものの、料理はやはり四人分と。
どうしたものかと思いながらキッチンに戻ったら、ホールに響かないように一応は気にした声量で聖がわめいていた。
「一歳半で! 一人前て! 成人扱いかよ!? どんだけ背負わされているんだよ、人生ハードモードすぎだろ! 一歳半は! 一人前じゃねーよ!!」
言っていることはよくわかる。
相変わらず冴えない表情をした由春に視線を向けられ、伊久磨は力なく首を振った。
「間違いではないようです。特別コースはじめてください」
残したら持って帰ってくれるのかな、と期待薄ながらも願いつつ、告げた。