彼氏彼女の会話
ホタテか、という西條聖の微妙な反応に藤崎エレナは首を傾げた。
「西條くん、ホタテ苦手だった?」
キッチンのステンレス台には、伊久磨からおすそ分けされたホタテがバットにのせられて置いてある。煌々と隅々まで照らし出すライトの下、時折ぱくぱくと開いたり閉じたり。鮮度抜群。
「苦手じゃないしむしろ好きだけど。普段あんまり食べないようにしているから、久しぶりだな、と」
どういう意味だろうと軽く首を傾げたエレナに対し、すぐそばに立っていた由春が淡々とした口調で説明をする。
「この時期、飲食業やホテル業では従業員に『二枚貝NG』を徹底しているところも少なくない。ノロウィルスの主な感染源のひとつだからな。代表的なのは牡蠣か。ホタテは生食するにしても、調理段階で内臓を取り除いて貝柱を食べることが多いから、さほどの危険性はないとされているが」
腕を組んで頷いた聖も頷きながら口を開く。
「食中毒が出ると面倒だからなー。営業停止でニュースにもなるし、ご予約のお客様には迷惑をかける。もちろん信用失墜で、その後の営業にも響く。防げるものなら防ぎたい。そういう意味で普段から『危ない』ものは極力口にしない」
なるほどー、とエレナは相槌を打った。以前は食中毒のニュースをさほど身近に考えたことはなかったが、我が身に降りかかることを思えば、恐ろしい。
「レストランとして考えたときに、『海の星』は綺麗すぎるくらい綺麗を徹底しているとは思うけど」
ステンレス台をはさんで向こう側にいたオリオンが、おっとりと笑いながら言った。
聞きつけた聖もそうだな、と同意する。
「ハルの性格」「由春だから」
ほぼ同時。
二人から言われた由春は「ふつうだ、ふつう」とうそぶいて歩き出す。
「これがふつうだと思って、よその店で働くとびっくりするぞ。なんだかんだで藤崎、ここで修業を始められたのはかなりラッキーだ」
由春の背を見送り、聖がエレナに言う。
少し躊躇ってから、エレナは聖を見上げて小声で尋ねた。
「西條くんは、いつまでここにいるの?」
聖の青い瞳がきらりと輝いて、エレナを見下ろす。一度口を開き、何か言いかけたが、「さてな」と短く答えて背を向ける。
それ以上話を続けられるのを拒むように、由春の元へ小走りに寄ると「どうするあのホタテ」と明るい調子で声をかけていた。
エレナは、小さくため息をつく。
ふと視線を感じて首をめぐらした。
目が合ったオリオンが、瞳に柔和な笑みを湛えて見返してきた。
* * *
途切れることなくピアノを弾き続けていた光樹は、ふと手を止めた。
窓の外はすっかり陽が落ちている。
椅子に座ったまま振り返ると、エントランスにいた蜷川伊久磨が歩いて近づいてくるところだった。
見上げるほどの長身は均整がとれていて、動作には無駄を感じない。足の動きに沿って、黒いエプロンの裾が軽く翻る。
「ごめんなさい。少しだけのつもりだったのに」
時間感覚がなくなっていて、何時かわからない。まだホールに他の客の姿はないので、夜の営業にはかかっていないようだ。
「いいよ。聞きながら仕事が出来て良かった。曲目も良いな」
伊久磨の声を背に聞きながら、手早く鍵盤にフェルトをかけて蓋をし、立ち上がる。
「なんかいろいろしてもらってごめんなさい」
すぐそばに立った伊久磨は「ん?」と面白そうに軽く目をみはって覗き込んできた。口角が柔らかく上がって、親し気な笑みが浮かんでいる。
「謝り続けているけど、どうした? 家族で会食の件なら大歓迎だよ。そうだ、お姉さんのことだけど」
お姉さん。
すっかり頭の中から追い払っていた存在が舞い戻ってきて「あーっ」と光樹は声を上げた。
「うちの姉、ご迷惑をおかけしてませんか?」
足音がして、「あのねぇ」とまさしく渦中の人物の声が耳に届く。
「なんであたしの話題が出るなり、そういう話になるの?」
通路の奥から現れて、やや呆れた顔つきで言ってくる。
金髪に白い肌。顔立ちは整っているが、可愛いというより美人系。妙な迫力があり、目が合うと苦手意識が先に立つ。
「一応身内だから」
「年下の弟に、当たり前のように身内下げされても。いまどきそういうの、良くないと思うよ」
弟が年下なのは当たり前なんだな、と言おうとして思いとどまった。また絶対「あんたのそういうところが」と言われる。
「お姉さんには、このお店のグリーンを見てもらったことがあるんだ。そこのピアノまわりもお姉さんのコーディネートだよ」
伊久磨はにこにこと穏やかに笑いながら言う。なるほど、と光樹はようやく色々と繋がる思いがした。
(それで「海の星」に出入りしたことがあって、接点が出来て)
「じゃあ、伊久磨さんも元から知り合いなんですね。あ……」
言いかけて、止めてしまう。
――俺『齋勝』って知り合い他にもいるから呼びにくいんだよね
海に一緒に出掛けた椿香織が、そんなことを言っていた。
(知り合いの「齋勝」ってもしかして)
年齢的にも近そうだし、知り合いでも何もおかしくない。
それならそれで、伊久磨も香織も「お前の姉さんと知り合いだよ」くらい言ってくれればいいのに。全然話題に出なかったのは何故なのだろう。
純粋な疑問。
(姉ちゃんとシェフが付き合っているとして、香織さんと伊久磨さんとも知り合いで? 話題に出ないってことは……どっちかが元カレとか? うわ~。ありえる。見た目は派手でも、男に縁は無さそうって思っていたんだけどなぁ)
伊久磨とは平気そうに接しているところを見ると、香織の方かな、と光樹は結論づけた。そのくらいの理由がない限り、苗字を伝えて姉がいると言った時点で話題に上るはずだ。
普通は。絶対に。
確信したところで、静香に目を向ける。静香は静香で、妙に緊張した様子で見返してきた。
「あのね、光樹。さっき、かか、勘違いしていたみたいだけど、お姉ちゃんのか、か、かれし、いやその、お付き合いしている人はね」
(噛みすぎ)
もうすぐ三十路だというのに、「彼氏」とまともに言うこともできず、あろうことか頬を染めている。
「由春さんじゃないってこと?」
勘違いって言うからにはそういうことか、と残念に思いつつ先回りする。結構本気でガッカリしていた。あんな義兄さんならカッコいいと期待してしまっていたのに。
「シェフじゃない、シェフじゃなくて。あの、えっとですね、伊久磨くんも何か言って」
いよいよ真っ赤になった静香は、隣に立つ伊久磨を横目で見上げながら、人差し指で脇腹あたりを軽くつついた。
くす、と堪えきれなかったように笑みをこぼして、伊久磨は信じられないくらい優しいまなざしで静香を見下ろす。
「俺としては静香があまりに可愛くて口出し出来なかったんですが。もう少し、頑張ってみませんか」
(あ。「静香」って)
名前、呼んだ。
それだけで、どんなに勘が悪くてももう間違いようはない。
ばばばっと顔をさらに赤らめた静香はといえば、顔から湯気を出す勢いで後退る。
「や、そ、れは、だめ、です。あの、いま、やめてください」
髪をゆるく引っ掛けた耳まで赤い。
(なんで敬語? 年下彼氏じゃないの?)
光樹には不思議でしかないのだが、静香はパクパクと口を開くも何も言えてない。
「姉ちゃん?」
思った以上に固い声が出てしまった。どことなく責めるような響き。
伊久磨がチラッと視線を流してきた。
目が笑ってる。
「弟とはいえ、これ以上見せられないかな。ちょっと可愛すぎる」
(えーっっっ)
ただの茹で蛸では?
とは、思っても言えない。
(なんかいま伊久磨さんにとんでもなく惚気られた気がするけど。可愛い……可愛い?)
一体何が引き金になったのかは知らないが、静香は色白の頬を真っ赤に染めて、うっすら涙目になっている。
その姉の姿をよく見てみようとしたところで、さっと移動した伊久磨に遮られた。
「言うのが遅くなって悪かった。俺だから。『レストランの人』。光樹はどう? シェフが良かった?」
にこり、と笑われた。花が香るほどの爽やかさで。
「どう? って聞かれても。姉貴の彼氏が誰かは、弟的にはあんまり関係ないというか」
嘘だ。
もやっとしている。理由はわからない。ただ、心の中が曇り空みたいにどんよりとしていく。
正直、あまり嬉しくないみたいだ。
(なんだろうこれ。伊久磨さんに彼女がいるのは知っていたし、その相手が姉ちゃんだとしても俺は別に)
静香に伊久磨を取られるなんて錯覚で、もとから二人は自分より先に出会っていたわけだし、大人だし、口を出すようなことでは。
ぐるぐるしたのはほんの数秒のはずだが、考えていたら気持ちが悪くなって、くらっと立ちくらみした。
その次の瞬間、大股で一息に距離を詰めた伊久磨に、両手で両腕を掴まれて支えられていた。
「光樹? 大丈夫か。具合でも悪いのか」
心配そうな声。
(やべぇ。心配されてるって錯覚しそう。俺なんて姉ちゃんのついでなのに。打ち明け話すらしてもらえない……伊久磨さんが俺に一生懸命になってくれた理由、そういうことか)
気持ちがいじけてしまいながら、ぼんやりと見上げたら、恐ろしく真摯な瞳に射抜かれた。
「びっくりしたかな。本当に悪かった。正直、光樹の件にかかりっきりのときは静香のこと完全に忘れていて」
近づいてきた静香が、すぱーん、と伊久磨の腕をはたいた。伊久磨は目を伏せて頷いている。甘んじて受け止めてから、続ける。
「連絡くらいはしていたんだけど、全然二の次になっていたから話題に出すのも失念していて。隠していたわけじゃなくて、忘れていただけなんだ」
何か。
変なこと言ってないか?
そう思ったのは光樹だけではないらしく、静香も先程のうっとりした様子とは打って変わった勢いで、伊久磨の腕をペシペシと叩いている。
「いいから! そういうの! 本人の前で二の次とか失念とかやめて! さすがに怒ってるから!」
忘れ?
というかこの二人のこの会話はなんなんだ? と思ったところで、澄んだドアベルの音が響き渡った。