この期に及んでようやく
全・集・中。
声などかけられない、演奏中の弟の後ろ姿に打ちのめされる。
(なんで勘違いするかな~。シェフはシェフでカッコイイけど、違うんだってば。親切だし、性格落ち着いているし、見た目イケメンだし、料理上手いし、レストランのオーナーだし、実家はお金持ちだし。あれ)
いちいち挙げてみて、ふと気付く。
優良物件過ぎでは?
目の前には、エレナのいれてくれた紅茶のカップ。ウェッジウッド。「海の星」のメインは「和かな」の食器類だが、それ以外にも贅沢な気分になるものを使っている。
建物にしても、内装にしても、ちょっとした個人美術館のような佇まいで、これが由春の審美眼の成果なら、かなりセンスが良いと思った。
(たしかに、シェフが彼氏だったら、納得しない人なんかいないだろうなあ)
カップを持ち上げ、少しぬるくなった紅茶を飲み干す。
トントン、と軽く肩を指でノックされた。
振り返ると、伊久磨が目配せをくれる。光樹の邪魔にならないよう、声を出さないようにしているらしい。ついてきてという意味に解釈して、静香は立ち上がってその後に続いた。
少し暗い通路を歩いて、ホールの隣にある部屋へ。先に入るように促されて、足を踏み入れる。
個室と聞いて想定していたより、ずっと広い部屋だ。
正面に、開放感のある大きな窓。外は薄暗く日が暮れはじめていて、雪をまとった木々がライトアップされている。部屋の奥には、重厚感のあるビリヤード台。食事用のテーブルにはキャンドルが置かれ、四名分セットされたシルバーと、凝った折り方をされたナプキン。アンティーク調のポールハンガーやソファまで、ゆったりと配置されていた。
カチリ、と小さな音が聞こえた。
振り返ると、後ろ手にドアをしめた伊久磨が、微笑みながら近づいてきたところだった。
「遅くなりました。なかなか時間がとれなくて。どうぞ、座ってください」
ソファに案内しようとしているようだ。距離が近づいて、間近に立たれたところで静香は腕を広げて伊久磨を抱き締めた。そのまま、胸に顔をうずめる。
「おかえりなんて言うから。その、ただいま、帰りました」
ぎゅうううう、と力を込める。
少し待っても、抱き締め返してくれない。不安になってちらりと見上げると、濡れたように艶めいた黒瞳に見下ろされていた。
大きな掌に頬を撫ぜられ、顎を持ち上げられる。
ぞくり、と背中に震えが走った。
「鍵はかけました。安心してください」
(鍵?)
目を瞬くと、親指で軽く唇を押された。
「口紅してる?」
「ううん、リップだけ」
「そう。口紅つけていくと、西條シェフあたりにすぐ気づかれるから」
その、意味。問う間もなく、身じろぎで静香の腕から逃れた伊久磨に、抱き上げられてしまう。
「伊久磨くん……っ!?」
「五分ください」
「職場ですよ! あ、あの、あの、えっと!」
つかつかと部屋を横切り、ソファの上に横たえられた。
「先に煽ってきたのは静香です」
そのまま、軽く腰のあたりに伊久磨に乗り上げられて、静香はじたばたと暴れた。
「あお、挨拶! 挨拶だってば!」
抱きついたせいで、何か凶悪なスイッチを押してしまったのかもしれないが、あくまで、あれは。
焦る静香を見下ろして、伊久磨はこの上なく優しく微笑みかけてきた。
「この部屋のビリヤード台ですが、明治時代のアンティークだそうです。建築の際に部屋に収めてから壁や屋根を作ったみたいで、ドアからは出せません。窓から出すにしても、窓枠ごとガラスを全部外さないといけないかと」
(な、なんの話をはじめたの?)
疑問いっぱいに見返すも、伊久磨は動じた様子もない。
「建物自体は大正末期に作られたのだとか。天井も凝っているんですよね。シャンデリアまわりのメダリオンまで。ゆっくりご覧になってみてください」
(だからなんの話……っ)
問いかけるまでもなく、ソファの上で手首を押し付けるように固定され、本格的に押し倒されて、視界には天井。(な、なるほど!?)と理解する運びになってしまった。
おそらく五分間。
綺麗な天井を見ているつもりだったが、実際には激しい熱に翻弄されて、全く余裕は無かった。
* * *
すごく懐いていた大型犬を振り切って家を出て、久しぶりに帰省したら、大型犬ではなく狼だったという事実が発覚。でも懐いているのは相変わらずだった、というのが感想。
(本当に食べられるかと思った……)
久しぶりどころか、二週間しか経っていないはず。
乱れた服を整えながら、静香は先程光樹にとんでもない誤解をされた件を手短に説明した。
「伊久磨くんが出ている間、シェフと話していたら仲良さそうに見えちゃったみたいで。光樹、シェフにも懐いているんだね。シェフ、カッコいいもんね」
ソファで隣り合わせに座っていたのだが、視線を感じて目を向けると、恐ろしく真剣な目で見られていた。
「岩清水さんがカッコいいのは否定しませんけど。静香はダメです」
何がどうダメなのかよくわからないまま、静香は自分のシャツの合わせ目を指でぎゅっと掴んで握り締める。
(「俺にしとくか?」ってシェフに揶揄われた話をしたら、冗談じゃ済まなくなりそう)
隠し事をする気はなかったが、故意に言い忘れることにさりげなく決定した。
「そ、そうじゃなくて。光樹の誤解とかないと。あと、うちの親にも話さないとね。話して良いんだよね、今日」
「結婚」
即座に、一言。
静香が見返すと、伊久磨はもう一度口を開く。
「そのつもりでお付き合いしていると、お伝えします。場合によっては、仕事のことや、生活の場を含めて、具体的なことを聞かれるかもしれません。静香はどう考えていますか。東京からこちらに帰ってくる覚悟はありますか」
今すぐではなくとも。
いずれ選ばなければならないときがくる。いつまでも先延ばしには出来ない。
静香は少しの間、下を向いた。東京で働く意味。
(先が見えたと言うとネガティヴな感じになるけど、東京じゃなきゃ出来ないことは、ある程度経験できたから。あとは、地方でもやっていけるのなら、執着する理由はない)
自分の中で少しずつ見えはじめていた未来図を確認し、小さく頷いた。
そして、伊久磨を見た。
「時期はまだ決められないにしても、あたしも中途半端な気持ちで付き合っては」
言いかけて、静香は息を止める。
(ん?)
心臓も、一瞬止まった気がした。
「静香?」
どうしました? と、心配そうに尋ねられる。その顔を見つめて、静香はごくりと唾を飲み込んだ。
だんだんと、心臓が忙しく鳴り始める。
いまの。
親に話し、こちらに戻ってこれるかという確認、それはつまり。
(あたし、もしかして、いま、プロポーズされてる!?)
第26話はこれにて一度区切り、引き続き次のエピソードへ……
時間を進めるのがへたくそグランプリ入賞状態のステラマリスなんですけど、
東京編(伊久磨休日・木曜日)→晩餐会(次の週の休日・木曜日)→光樹が海の星にくる・香織が家出する(金曜日)→ランチを入れ替え制ですごく忙しく働いた土日の夜、光樹家出→朝6時起きで海・齋勝家訪問・夜は山で星を見る会(月曜日)→
そして今回の第26話「海の星の日常・非日常」が火曜日・水曜日です。
イベントが山盛りですみません。
あと、今回の更新分はなろう的配慮で主に伊久磨の所業(5分間)が書けません。何かの折にムーンライトノベルズに書くかもしれません(未定)
いつもブクマ・ポイント・感想ありがとうございます!
四件目レビューも頂いてしまいました。
あっきコタロウさま、ありがとうございました!!!