勘違い
離れて暮らしていて、そんなに接点もなかったのに。
家族の足音は、なんとなくわかる。
(光樹?)
振り返ったところで、ドアベルが鳴り響く。紺色のコートの少年が勢いよく飛び込んできた。
寒い中を走り抜いてきたように、頬が染まっている。軽く息を切らしながら、黒目がちできらきらと輝く目でこちらを見て来た。
「伊久磨さん」
言った直後に、うわ、とさらに大きく目を見開く。
「ねえちゃん!? 何してんの、予約の時間全然違うけど大丈夫!?」
その「大丈夫?」は心配というより「わかってる!?」というニュアンスがありありだった。
(いきなり。一言多いようちの弟は)
「大丈夫。新幹線が早く着いたから。お店の人に、今日お世話になるご挨拶を先に」
ここは落ち着いて対応するところだ、と笑顔で言ったのに。
「新幹線は早く着かないよ、時間通りに着くってば。姉ちゃんが早く来すぎなんだよ。いま営業時間じゃないよ?」
光樹。
(怒)
矢継ぎ早に言われて、わかってるってば、と静香は唇を震わせる。
この弟の、こういうところが苦手だ。
言い返さねばと、息を吸い込んで口を開く。そのとき、ふっと店の奥から風の流れを感じた。
「フローリスト、今年初だな。あけまして。手土産ありがとう。わざわざ気を遣ってもらわなくても」
エレナから土産を受け取ったオーナーシェフの由春が、挨拶に出てきてくれたらしい。着崩れたところのない真っ白のコックコート姿で、颯爽と歩いてくる。
「あけましておめでとうございます。今日は家族でお世話になります。よろしくお願いします」
静香は素早く、丁寧に頭を下げた。
これで。
お姉ちゃんはお店の人と知り合いと、光樹も納得したはず。
顔を上げると、渡したばかりの紙袋を持った由春が破顔していた。
「『切腹最中』だ。良い趣味してる。皮肉じゃなくてな。すごく嬉しい、食べたことなかった。あとでスタッフでありがたく頂く、けど。少し多くないか。実家用も混ざってそうなんだけど」
「あ」
焦って、小分けする前に全部渡してしまった。中に小分け用の紙袋も入っていたはずなので、気づいたのだろう。静香はあちゃ~と眉をしかめる。
「ああ〜。すみません。いやでもなんかこう、一回お渡ししたものなのに」
カッコ悪いなあ、と落ち込みながら言うも、由春は特に気にした様子もない。
「変な気を回さなくて良い。家族と仲良く食事してくれた方がこっちも助かる。一箱だな」
その場で、さっと紙袋を広げて別にしてくれた。そのまま、静香ではなく伊久磨に手渡す。
そして、眼鏡の奥からちらりと優し気な視線をくれた。
「東京から真っ直ぐ来たなら疲れてるだろ。個室用意しているから、時間まで好きに過ごしていて構わない。もちろん用事があるなら出入り含めて、自由に」
さらりと、気にしていたことを先回りして言ってくれる。
(伊久磨くんもだけど、シェフもスマートなんだよなあ)
さすが伊久磨くんの雇い主と、惚れ惚れしてしまう。
「ありがとうございます。お言葉に甘えて」
しぜんと笑顔になって、由春の目を見つめる。
(これでもう。光樹も、お姉ちゃんに変なことは言わないはず)
シェフのお墨付きがあるからね、と。
妙にホッとしつつ顔を向けてみた。目があった。光樹は「ああ!」とでも言いたげな、得心した表情。
これは勝負あった、と確信した瞬間。
「もしかして、姉ちゃんの彼氏って、由春さん? えーっ、あっ、そうなんだ。レストランの人ってそういうことなんだ。うわー。シェフ、ほんとにうちの姉で良いんですか? 結構抜けてると思うんですけど」
何を言っているのかと、耳を疑ってしまった。
思わず、静香は光樹の方へと一歩踏み出す。
「いや、あのね、ちょっと待って光樹。それは勘違い。お姉ちゃんの彼氏は」
折り悪しく、伊久磨はドアの外に宅配員の姿を見つけて、出て行ってしまったところだった。
光樹はといえば一人合点して、ろくに聞いている様子がない。
「あー、由春さんか。そうなんだ。全然言ってくれないから、知らなかったー。いや、でも由春さんならうちの親も嬉しいと思います。というか出来過ぎ? すげー。なんか興奮してきた。あ、ピアノ弾かせてもらいますね」
「光樹」
なんかすっごい勘違いだからそれ、と静香に言う間も与えず、光樹は大変幸せそうにへらっと笑って「ごゆっくり」とだけ言い、店の奥へぱたぱたと駆けて行く。
「…………」
無言。
静香と由春で、壮絶な無言になってしまった。ややして、由春が小さく吐息した。それを耳にして、静香は思い切りよく頭を下げた。
「ほんっとすみません!! そそっかしいっていうか、なんだろうなぁ。ん~~、離れて暮らしていたからお姉ちゃんよくわかんないんですけど、あ、いや、お姉ちゃんていうかあたしが。変な弟ですよね。あ~……言ってこないと」
とんでもない勘違い過ぎて、それ以上フォローも思いつかず口をつぐんでしまう。
由春は首を傾げて、まぁ、と低い声で言った。
「だいたい、伊久磨がきちんと話していないのが悪い。フローリストの方はどうなんだ。光樹がわかっていないのはともかく、親とは話しているのか」
探るというより、確認のような穏やかさで。静香は額を手でおさえて呻いた。
「光樹が家出したって聞いたときに、母とは少し。あと、今日同席したいという話もしたので。だけど、お母さんがお父さんに言っているかはよくわからないです。あたしも『蜷川さんは知り合いなんだけど』くらいしか言ってなくて。言う前からなんとなく伊久磨くんのことを知っている感じはありましたけどね。たぶん、『香織と暮らしていたひと』だからかな……」
口を滑らせてしまった。香織と自分の関係は由春はよくわかっていないはず。
しかし、喋り過ぎたと萎縮している静香に構うことなく、内容のどこかに引っ掛かることもなく、由春はなるほど、と頷いていた。
「面白い勘違いだけどな。どうする。俺にしとくか?」
唇の端を吊り上げて笑われて、(はいっ!?)と内心びびりつつ、静香は動きを止める。
「シェ、シェフですか? シェフとあたしですか?」
揶揄われているのはわかっているのだが、思いがけず真摯なまなざしで見つめられて動揺しかない。
(伊久磨くん!? 伊久磨くんは!?)
慌てて視線を滑らせると、ドアベルを鳴らしながら伊久磨が戻ってきた。手には白い発泡スチロールのケースを抱えている。
「納品が正面から来てしまったのかと思ったんですけど、俺宛なんです。ホタテ」
「ホタテ?」
寸前までの会話がまるでなかったかのように、由春はいたって普通の調子で伊久磨に聞き返した。
「あの……。北川様からです。ええと、ご本人に電話してみますが」
伊久磨の返事はひたすら歯切れが悪い。「どうした?」と由春が先を促す。
観念したように、伊久磨が答えた。
「昨日ご来店された際に、少し話し過ぎてしまいました。今日、彼女の家族に会うことと、俺に家族がいない話を、ですね。それで、たぶん、これは……。わざわざ俺の実家方面から送ってきてくれているので、『相手の両親に手土産として渡すように』じゃないかと。俺の両親がいたら、お顔合わせのときに相手に挨拶替わりに渡しそうなもの、という設定かな……」
考え考え話しているのを、じっと聞いていた由春だが、そこでようやく頷いた。
「なるほどな。北川様らしい。親がいないことでお前が弱い立場にならないように、気にかけている後見人がいる、くらいの意思表示だな。お礼の電話しておけ。受け取った以上、返すわけにもいかない」
緊張した様子だった伊久磨も、そこでほっと息を吐き出した。お客様からの贈り物に、対応を決めかねて悩んでいたのかもしれない。
気を取り直したように、静香に顔を向けてくる。
「静香、齋勝家のみなさんはホタテは大丈夫? これまだ生きてるみたいだけど」
「そんなに新鮮なの? うん、みんな好き、食べると思う」
静香が答えると「いいな。料理に使うか」と由春が横から口を出す。
「それもいいかもしれませんね。四人分料理にしてもまだお渡しする分が残りそうですし。なんだったら一部は明日のまかないにまわしても、量的には大丈夫そうです。すみません、まず北川様に電話をします」
ケースをカウンターの上に置くと、伊久磨は中に回り込んでいく。
それから、視線を彷徨わせて静香を見た。
「ごめんなさい。こっちが落ち着いたら改めて顔を出しますので、休んでいてください。俺の手がふさがっているのに気づいたら、藤崎さんがお茶をいれてくれると思います。ああ、個室が温まるまで席で光樹のピアノを聞いていてもいいかも」
ホールから雨だれのようにピアノの音が響き、伊久磨が口元をほころばす。
言いたいことはたくさんあったが、たくさんありすぎて、静香は「わかった、待ってるね」と答えるにとどめた。
光樹の勘違いは、ピアノの演奏が終わったところで正しておこう。
まさか話す時間が少しもないなんて、そんなこと。
あるはずが。