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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
26 日常と非日常
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ディナータイムに一波乱

 蒼白の男性を前に、「落ち着いてくださいね」と声をかけているエレナ。

 受付の様子がおかしいと気付いて、ホールに出ていた伊久磨はすぐに足を向けた。


 ――どうしました?


 目で尋ねると、エレナがカウンターの上に置いていたパソコンの画面を開く。


「予約漏れです。Web経由で、来週の火曜日にご予約を頂戴しています。お客様もその点はご納得頂いているのですが。お相手の方には今日とお伝えしているそうで、時間にはこちらにお越しになるだろうと。ただ、今日は……」

 満席。


 キッチンもホールもスタッフはいるので、予約を取り切っている。スタートが早い席、遅い席があれば回転を見越して組み合わせ、テーブルを空けられるかもしれないが、今日はピーク時に予約が重なっている。

 余分な席はない。

(電話予約なら「言った言わない」になるが、WEB予約であればはっきり痕跡が残っている。それをたてに断りを入れることは可能だ。けど……)


 満席であれば、飛び込みの来店は断る。仕方ない。だが、日付間違いとはいえ予約自体はあって、お連れ様もそのつもりで向かって来ているとわかっていて断るのは、かなり気が引ける。

(寒空の下に放り出すことになってしまう)

 予約時に特記事項はないが、もしかしたら記念日ディナーの可能性もある。その場合、来週もう一度お越しください、という問題でもない。


「……わかりました。少しだけお待ちください」

 席を、作るしかない。


 キッチンに戻り、由春に声をかける。


「本日四名様でご予約の千葉様、個室に変更します。撞球室、昼間のうちに整えてあります、使えます。空いたテーブルには予約漏れの二名様をお通しします。食材は大丈夫ですか?」

 包丁を持っていた手を止めて、由春は伊久磨に目を向ける。


「個室を使うと、ホールに目が届きにくくなる。満席じゃない日に藤崎とオペレーションを確認しながらという話だったが。予約漏れか。お客様は大丈夫なのか」

「Web予約で、日付はお客様の入力ミスとご納得は頂いています。ただ、お連れ様が間もなくお見えになるようです。お断りしてしまうのも」

 由春は目を瞑り、数秒考えこむ。

 目を見開くと、ひとつ頷いた。


「個室には伊久磨が入れ。聖をディシャップに立たせる。藤崎ひとりで満席のホールは無理だ。可能な限り俺も気をつけるが、伊久磨も見るように。予約漏れのお客様を受け入れたいのはわかるが、それで他のお客様にご迷惑をおかけするわけにはいかない。絶対に。絶対に、だぞ」

「はい」

 もちろん、わかっている。

 今はまだ準備不足で無理とみなしていたことに、リハーサルなくのぞむ危険性。


 たとえほとんどすべてのお客様にご満足頂いたとしても、一組でも苦情(コンプレ)があったとすれば、それは反省すべき日。終わり良ければすべて良しにしてはいけない。


 オーナーシェフとしての、由春の絶対に譲れない信念。「海の星」を営業する上で、オープンから一貫して守り抜いていること。

 その理想を実現する。

 ホールを任された伊久磨にとっても、呼吸するように当たり前に染み付いた考えになっている。


 イレギュラーとわかっていても手を出す。そうと決めた時点で、もはや言い訳はしない。成功させるだけ、少しのミスも許さない。

 それは、客席全体を受け持つ伊久磨の役目。


「岩清水さんがホールに出ざるを得ない事態にはしません。シェフが気にするのは料理のことだけです。乗り切りますので、どうぞよろしくお願いします」


 スタッフの人数が増えた時点で、個室の実用化に向けて少しずつ手を入れてきた。本当は、翌日の齋勝家の予約で使うことも考えていたのだが、逆に言えばそこまで用意していた以上、あとはやるかやらないかでしかない。

 眼鏡の奥から厳しい視線を注いでいた由春は、伊久磨を真っ直ぐに見据えたまま、一言。


 行け、と。


 * * *


「お疲れ様」

 由春が何か作っているのは気付いていたが、片付けを終えて呼ばれてみれば、鉄鍋いっぱいのパエリアが出来上がっていた。

 適当に人数分、五皿に分けてステンレス台に並べていく。


「伊久磨。ワイン、開いているのがあれば飲んでいい」

 水を向けられ、伊久磨は顔をほころばせた。

「良いんですか、そんなこと言って。赤も白も開けたばっかりですよ」

 ん、と由春は一瞬眉をひそめたが、「構わない」と頷いた。

「藤崎さん、シルバーお願いします」

 グラスを並べてワインを注ぎながら、伊久磨はホールから戻ったエレナに声をかけた。


「わあ……! シェフが作ってくださったんですか。お腹空いてました!」

 ぱっとエレナは顔を輝かせる。すかさず伊久磨は「赤と白、どっちがいいですか?」と尋ねた。「白が好きです」と、にこっと微笑んでエレナが答えた。

 もともとが整った容貌だけに、すましていると冷たい印象になりがちだが、笑うと空気が色づくほどの華やかさがある。


(少し、感情が素直に出るようになってきたかも)

 白を注いだグラスを渡し、伊久磨は楽しそうに瞳を輝かせているエレナを見つめる。


「今日はありがとうございました。急な変更がいくつもありましたが、よく対応してくださったと思います。藤崎さんがいてくれることで、仕事の幅が広がって、俺もすごく助かっています」

 自分に言われていると気付いたエレナは、きょとんと眼を見開いてから、グラスを持たない右手をぶんぶんと振った。


「とんでもないです。私なんか、キッチンやりたいとか、さんざん生意気言うばっかりで。実際は足引っ張っているだけですし。あの……、本当に見捨てないで頂いてありがとうございます」

 グラスをステンレス台に置き、深々と頭を下げる。

 伊久磨も思わずグラスを置いて、向き合った。


「大丈夫ですよ。異業種ですから、戸惑いもあると思いますが、真面目に向き合ってくれていると思っています。藤崎さんにいま必要なのは萎縮しないことでしょうか。もっとのびのびとしてください。緊張はお客様にも伝わりますから」

「のびのび……」

 口の中で繰り返している。その渋い顔を見て、伊久磨は困ったなぁ、と笑みを深めてみせた。


「俺が思うに、藤崎さんの良いところは『同じミスをしないこと』です。一度したミスはよく覚えていて自分の中に蓄積していますよね。あと、毎日違うミスをすること自体は悪いこととも思いません。いろんな仕事に挑戦していれば、そうなります。大切なのは、無理を押し通してお客様にご迷惑をおかけしたり、何かあったときに自分だけでなんとかしようとして、ミスを隠してしまうことです。相談してくだされば、解決方法を一緒に考えることができますから。今日みたいな例はまさにそうですね。あそこで、自分の判断で予約漏れのお客様にお帰り頂いてしまっては、その後の展開が全然違います」


 一息に言うと、真剣な面持ちで聞いていたエレナが、ふうっと息を吐き出す。


「ああいうときの蜷川さんの判断は、本当に早くて的確ですよね」

(あれ、またちょっと落ち込んだ?)

 暗くなったとも言い切れないが、元気いっぱいでもない。その様子を見て、念のために言い添える。

「僭越ながらそこは経験の差ということで。先輩なので。だけど、後輩の教育係としては駆け出しです。藤崎さん、以前のお仕事では指導係をしたこともあるのでは」

 年齢的に、と言いかけた一言は飲み込んだ。それは余計かもしれない。

 エレナは、小さく頷いて「それはありましたけど」と控え目に口を開く。


「蜷川さんを見ていると、こうすれば良かったんだろうなと思うことばかりです……」

 不意に口をつぐんだ。なんだろう、と思いながら「伊久磨」と由春に呼ばれて中断。

 両手にグラスを持ち上げた。

 由春、聖、オリオンに配り終えて、由春が「お疲れ様」と今一度言う。全員でお疲れ様ですとばらばらと言って、飲んだり食べたりを始める。

 由春は、伊久磨に視線を向けながら唇の端に笑みを浮かべて言った。


「個室対応、今日は乗り切ったが。どうするんだ明日の齋勝家は」

 グラスを傾けていた伊久磨は、ああ、とため息交じりに答える。

「どうしましょう。個室で落ち着いて過ごして頂きたい気もしますが、ピアノのあるホールの空気を見て頂きたいわけで……」

 四人のテーブルは、話がはずめば結構な声量になる。他のテーブルのことも考えれば、個室に入れてしまうのはかなり良いと、今日一日でわかった。

(話、はずむよな? 東京から娘も帰ってくるんだし、はずむよな?)

 まさかいきなりお通夜みたいな空気になったり、スタッフが盛り上げなきゃいけない事態にはならないよな? と自分に問いかけてみる。多分に願望混じりの問いかけだ。


「個室に案内して、光樹にはホールでピアノ弾かせたらいいんじゃないか。ドア開けておけばじゅうぶん聞こえるだろ。個室から出てきてそっちに戻れば、他のお客様には『客が弾いている』とはバレないだろうし」

 全然なんでもないことのように言って、由春は片目を瞑った。


「ありなんですかそれ」

「光樹のピアノ次第だな。食事中に聞ける曲目を揃えてくるなら。あとは、本人にやる気があれば」


(ありなら、やってみたい気はするけど……)

 考え込んでから、「本人に聞きます」と言って、その場でスマホを取り出し、メッセージを送った。


 ――面白そう。明日学校終わったらそっちに行っていいですか? 親は後から来るとして。


 すぐに既読になって、返信がある。

(面白そう、か……)

 やる気ならやらせてみたいな、と悩みながら「来るのは構わない」と伝える。


 ――あ、そうだ。なんか姉ちゃんも来るらしいです! すげーヤンキーみたいな感じですけどドン引きしないでくださいね! 俺は結構ドン引きしてますけど! 金髪で背が高くて声低めで男みたいな感じです!


 伊久磨はスマホを強く握りしめた。

 訂正しろ。世界一可愛いだろ。


 思わず電話しそうになり、堪えた。

 余計なことを言っている場合ではないと。堪えすぎて、結局また言う機会を逃したと気付いたのは日付も変わってからのことだった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] なんでしょうか 仕事に向き合う真剣さとリアルな緊迫感に涙ぐんでしまいました ( ;∀;)ノ そしてラストの下りにホッコリ笑
[良い点] 冒頭、ピリリと緊張しました。 でも、さすがはいくまさん他ステラマリス面面! >行け、と。 由春さん、カッコいい〜 エレナさんの真面目な性格もよく描写されていますね。 それにしても、…
[一言] 社長がカッコイイ……だと!?(←) >(話、はずむよな? 東京から娘も帰ってくるんだし、はずむよな?) どうかなあww >訂正しろ。世界一可愛いだろ。 でもたまに忘れてるよね?( ˘ω˘…
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