遅めの「あけまして」は
「フェイクなんだって?」
ランチも終わりの時間帯。どのテーブルも食事は終わり、余裕が出てきたところを見計らって、声をかけられた。
いつも一人で来店する男性客の北川。何かと伊久磨を気にかけていて、息子か孫のように思っている向きがある。
今年初の来店で、遅めの「あけまして」の挨拶以来、ゆっくり話す機会を伺っていたようであった。
指摘したのは、左手の薬指で時折鈍く光を跳ね返す、銀色の指輪。
伊久磨はにこりと微笑みかけて「全部がぜんぶフェイクというわけでも」と答えた。
「そんな話は全然聞いていなかったのに、年が明けたら結婚していたのかと、びっくりしてね。さっき藤崎さんに聞いてしまったよ」
人の良さそうな顔に刻まれたいくつもの皺が、くしゃっと笑った拍子に深くなる。
エレナには、「優しいお客様だから大丈夫ですよ。いつもおひとりで来店されますけど、お話し好きの方なので、少し話してみると良いと思います」と事前に説明していた。そのまま、今日は北川のテーブルを任せていたので、新顔として挨拶し、いくらか世間話もしたのだろう。
「年末に北川さまから頂戴したお守りは、かなり御利益がありました。その節はお世話になりました」
軽く頭を下げると、北川は軽やかに声を上げて笑った。
「あれね。ストレートに言ったら気を悪くするかと思って」
「ああ、じゃあやっぱりわざとなんだ」
厄除けのお守りと言って渡されたのが、実は「恋愛成就」だったという。
周りを見計らって、伊久磨はこっそりとスマホを取り出し、ホーム画面を表示してみせる。お守りの写真が表示されているのを見て、「あらら」と北川がおどけたような声を上げた。
「指輪の相手もたぶんこの写真を使っていると思います」
素早くスマホをポケットにしまいながら言うと、北川は柔らかく苦笑して伊久磨を見上げた。
「どうせなら相手の写真を見たかったな。無いの?」
本気というより、からかわれているのはわかったが、伊久磨は「そういえば」と一瞬真顔になってしまう。
(香織と光樹ならある)
咄嗟に、光樹の写真を出して「弟です。本人と似てます」と言おうかと考え、やめた。勝手にひとに見せるものでもないな、と自制心が働いたためだ。
「明日ちょうど会う予定があるので。写真、お願いしてみます」
「明日? 定休日じゃないけど、スタッフの人数が多くなったから、お休みのシフトもあるのかな。蜷川くんも少し休んだ方がいいからね、いつ来てもいるけど」
北川にすらっと言われて、伊久磨はいえいえ、と控え目に訂正した。
「自分は仕事ですが、彼女がご家族と食事の予定なんです。ここで」
「そうなんだ。レストラン勤務だとそういうこともあるんだね。もうご両親に挨拶を済ませたの?」
思いがけず、踏み込んだ話になってしまった。少し躊躇いはあったものの、相手が相手だけに変に隠す気にもなれず、伊久磨も慎重に言葉を選んで続けた。
「別件でお会いして話したことはあるんですけど、お付き合いに関してはまだ、これからです。明日はそういう意味でも、折を見てお話できれば良いなと思っているんですが。仕事中ですし、難しいかと」
同席するならともかく、仕事の合間に込み入った内容を話すのは至難の業と思われた。
かといって、伊久磨が業務から抜けるわけにもいかない。光樹のバイト先としてふさわしいか、「海の星」を見てもらうという当初の主旨からブレる。
それこそ、手薄になったところで、トラブルの芽を見過ごし、対応に追われたり由春が謝罪に出るなどイレギュラーな事態はなるべく避けたいのだ。
「家族を紹介するってことは、お相手さんも結婚を視野に入れてのことだろう。お顔合わせや結婚式はやっぱり『海の星』でやるの?」
きらきらと目を輝かせ、素朴な調子で尋ねられる。伊久磨はどうしようかな、と悩んでから結局正直に答えた。
「式はできたら良いですね。仕事に生かせるので、経験面でも。お顔合わせは、実質明日がそういう感じかもしれません。改めて席を設けても、呼ぶ家族がいないんです。バタバタと亡くなっていて、いまはひとりなので」
極力、わかりにくくないように、話し過ぎないように。さらりと伝えたつもり。
北川はほんのいっとき、頬を強張らせ、固い表情になった。
すぐに「そうだったの」と頷きながら呟いた。
詮索するでもなく、露骨に困った態度になるわけでもないところが、年の功を思わせる。その反応に、この対応で良かったかな、と伊久磨は悩みながらこっそり息を吐き出した。
そのタイミングを見計らっていたかのように、やや早口に北川が言い募った。
「蜷川くんはどこか苦労人っぽいところがあると思っていたけど、そうなの。大変だったねぇ。君は子どもの頃から、きちんと可愛がられてきた、愛情の強い人に見えるからね。別れは辛かったでしょう。思い出させて悪かった」
あ、やっぱりちょっとまずかったかな、と漠然とした不安が胸に広がる。
北川の気持ちは嬉しいのだが、あくまで食事に来て頂いたお客様と、ただの従業員の関係だ。「悪かった」などと謝らせてしまったのは、自分の落ち度。
「お気になさらず。うまい言い訳が思いつかずに打ち明け話になってしまいましたが、どうぞ忘れてください。大人になってからのことなので、金銭面で大きく苦労したわけでもありません。無事に大学も卒業しています」
嘘にならない程度に告げるも、北川はもうすべてお見通しかもしれない。深く頷きながら言われてしまう。
「いやいやいや。聞き出したのは私です。申し訳なさそうな顔はしなさんな。なんとなく君のことがわかった気がします。いや失礼、本当に気がする、だけですが。それじゃあまあ、明日は絶対上手く行くと良いですね」
目が合うと、にこりと笑われた。
いつまでも辛気臭い空気を作っているのは自分だと気づき、伊久磨も微笑み返す。いつも通りに。
普段なら、ここまでするするとプライベートを話すことなどないのに、やはり少し緊張や動揺しているのかもしれない。予約の話を他のお客様に伝えるというのも、本来ならありえない。自分の注意力の低下も痛感した。今更隠し立てはできないが、改めて深い後悔とともに、次は気をつけねばと自分に言い聞かせる。
今日は夜の営業が終わったら、家に帰ってゆっくり休もう、と心に決めた。
まさかこんな平日に、何か起きるなどそのときは思ってもみなかった。