デイリー
おくれ毛を垂らした女性が、指で髪を梳いたところで。
はらりと一本長い黒髪が落ちて、スープの皿に着水するところを目撃してしまった。
その瞬間に「お客様」と言えれば良かったのだけれど、息を詰めて見守ってしまっただけ。
結果、向かい合った相手と笑い合って、スプーンを皿に差し入れたその女性が、違和感とともに下を向いて浮いた髪の毛を確認し。
「いやあああああ、髪の毛入ってるぅぅぅぅ」
と、声を上げるまで動けなかった。
もちろんその状況になってから「お客様の髪の毛が落ちました」とは言い出せない。
落ちてしまったのは事故なのだし、料理を作り直したり取り替えることくらい店側としてはなんでもないのだが、「店に過失がある」と固く信じられた状態では「当然」であって「親切」とも思われない。悪くないとわかっていても、ひたすら謝るしかない。
(あの瞬間、あの瞬間に「お客様」と声をかけていたら……! 決定的なところは見ていたし、あんなに長い黒髪は店員には誰もいないのも、見ればわかることだったのに……!)
それが藤崎エレナの語る後悔。伊久磨が「海の星」にいなかった日の失敗談であった。
* * *
「それは逆に、決定的瞬間を見てしまったから悔しいのであって、忘れるしかないと思います。店に過失がないことをわかっているだけでも十分です。これからも安心して仕事をしましょう」
いまだに憔悴しきった顔のエレナに打ち明けられて、伊久磨は穏やかに言った。
(藤崎さんはミスに弱いところがあるな。必要以上に落ち込む)
店の落ち度にしないチャンスはあったのに逃したのは痛恨の極みだろうが、過ぎてしまったことは仕方ない。
「結果的に、岩清水さんが謝罪して、デザートを一品増やしていました。あと、会計からドリンク代とサービス料をカット。お代は頂いたものの完全に料理のみの値段で、実質値引き対応ですよね。昨日はべつに席数も多かったわけじゃないし、西條くんもホールに出ていて、まわらないというわけでもなかったのに。まわらなかったのは私の頭と口だけです。申し訳ありません」
朝出社して、伊久磨の顔を見て以来、ホールの掃除も心ここにあらずに切々と申し送りをしてくる。
「よくわかりました。岩清水さんが対応して、お客様が納得してお帰りになったなら、その話は終わりです。今日のお客様をお迎えする為に、藤崎さんは笑顔の練習から始めた方が良いみたいですよ」
全然笑えていないエレナに向かって、笑いかけてみる。つられて笑ってくれないかと、期待して。
「蜷川さん……、ありがとうございます。あの、留守を守れなくてすみません。精進します」
すぐに謝り始めるエレナに、伊久磨はとぼけて「『留守を守る』って『頭痛が痛い』に似ていますけど、なんて言うのが適切なんでしょうね」と流した。
エレナはきょとんとして、考え始める。
その隙に、伊久磨はキッチンへと足を向けた。
カチャカチャと調理器具の奏でる音。
もくもくと漂う温かな湯気に、いろんな匂いが混ざり合って包み込まれる感覚。
「岩清水さん。明日の夜の齋勝家のご予約ですが、娘さんも同席になったので四人に変更です。NG食材はないので、コースはそのままで」
小皿に取ったスープの味見をしていた由春は、噴き出しかけて、むせた。
げほ、ごほ、と咳をしてから胸を拳でとんとんと叩く。通りすがりの聖に「汚い」と罵られていたが、構わず伊久磨に目を向けてきた。
「娘さんって。フローリストだろ。来んのかよ」
「はい。家族で会食ですからね。仲間外れが急に寂しくなったみたいです」
伊久磨としての所感を伝えたが、由春には渋い目で見返されただけだった。
「大丈夫なのかそれは。お前、ピアノの件でやりあってる最中だろ。『光樹を海の星にください』って。その上『ついでに娘さんもください』ってちょっと盛り過ぎじゃないか」
手がふわっふわと動いている。何を山盛り盛り付けているつもりなんだろうと不思議に思いながら、伊久磨はさりげなく訂正すべく、口を開く。
「『ついでに』なんて言いません。言うわけないですよ。結果的に光樹のついでにはなっていますけど、静香のことはそれはそれできちんと考えていたと……、わかってもらえますかね?」
途中で疑問に思って、首を傾げてしまった。
「おい。馬鹿か」
横槍を入れてきたのは聖。あ、と伊久磨は小さく声を上げる。
「唯一の既婚者だ。西條シェフ、奥様のご家族に挨拶に行った経験あるんですよね。どうでしたか?」
まさか相手が伊久磨のように家族全滅ではない限り、お顔合わせのようなことはしているだろう。少なくとも西條常緑の妹は「海の星」でバイトをしていたから、いるのは知っている。家族もいるような話はしていた。
一方の聖は穂高紘一郎という保護者しか確認できていないが、そう考えると伊久磨と条件はあまり変わらない。気になる。
伊久磨の期待のまなざしを受けて、聖は薄く笑った。
「少なくとも『ついで』はだめだ」
「うわ。西條シェフが常識人みたいなこと言ってる。だけどもう、状況的に切り分けできないんですよ。静香と俺が知り合いなのを隠すのもおかしな話ですから。昨日親御さんに会ったとき、ついでに言える空気でもなかったし」
「『ついで』からいったん離れろ。だめだって言ってんだろ」
離れたいのはやまやまなんですが。
そう思いながら由春に視線を向けると、力なく首を振られた。
「そもそも、光樹は知っているのか。光樹には言ってるんだろ、さすがに」
「それが」
何か、自分が大変な非常識という扱いを受けているのをひしひしと感じつつ、伊久磨は軽く話を遮った。
「知らないんですよ」
「なんで。家に泊まってたんだ、話す時間くらいあったろ」
恐ろしくもっともなことを言われて、それもそうだと深く納得しつつ、伊久磨は隠し立てすることなく正直なところを言った。
「忘れてました」
ボウルに泡立て器でカシャカシャと何かを泡立てていたオリオンが、小さく声を上げた。うそ、みたいなことを何語かで言ったようだった。
「伊久磨、お前な。お客様が知り合いだろうがなんだろうが『要するに仕事をすればいいんですよね』みたいな、大雑把な考えしてるだろ。絶対何かやらかすぞ。絶対だ」
由春が苦々しい様子で口をはさむ。伊久磨はその顔をまっすぐに見返し、若干の焦燥に駆られて訴えかけた。
「逆にですよ、逆になんですけど、仕事する以外にどうすればいいんですか。娘も息子ももれなくもらうつもりの店員なんか、どこの人攫いだって話ですよ。もう、仕事に徹する以外にないと思うんですけど」
心の底から言ったのだが、なぜか一瞬キッチンがしん、と静まり返った。
それから、男三人はもくもくと仕事に向き合い始めた。見事に息があった無駄のない動作。寸前まで何を話していたか、もはや綺麗に忘れ去った様子。そんなわけないのに。
こういうときに何かと口出しをする心愛は本日は休み。
「えーと……、これ、もしかして面倒なことになっています?」
確認のため、今一度問いかける。
顔を上げた由春は眼鏡の奥で目を細めて、アホ、と言った。