アゲイン
小耳にはさんだところによると。
とある会社では、単身赴任で家を出た社員に、月二回分の往復交通費が支給されるのだという。
(今はどうなんだろう。そんな景気の良い話あるのかな。費用がかさむだけだし、単身赴任が必要になるような転勤自体があまりなさそう)
月二回往復交通費なんて、距離によっては、ちょっとした家賃くらいになるんじゃないだろうか。かなり会社に体力が必要な気がする。ましてや個人事業主にとって、その出費は決して小さくない。
だけど、どれほど痛い出費でも。
人間、使うときは使わねばならない。それは間違いない。
――来るの?
彼氏であるところの蜷川伊久磨の声は、完全に引いていた。そのように聞こえた。
思えばまだ一月。年始に一緒に過ごしたあと、なんだかんだで一度東京まで来てもらっている。その二週間後に今度は静香の方から会いに行くだなんて。
でも。「でも」はだめって言われてもここは声を大にして言いたい。「でもね」
「伊久磨くん、目の前にいないとあたしのこと忘れるから……! だいたいですね、社会的に遠距離は月二回は会うべきって定められているんです!! 年末年始休みはノーカンでね!! だから今月は伊久磨くんが一回こっちにきて、あたしが一回そっちに行くのは全然だめじゃないんです!!」
――遠距離のルールが社会的に定められてる? 月二回?
不満そうなわけではない。不思議そうではあった。なんの話? と、今にも聞かれそうで。
(なんの話も何も決めたんだってば!! あたしの中で大決定したの!! 二週間に一回くらい顔見ないと……!! この先どんどん忘れられる……ッ)
気が多いとか、目移りするとか、それ以前の問題。
思い出したくもないが、奇しくも「元カノ」が言っていたではないか。「自然消滅」という忌まわしき単語を。
このままだと、自然消滅アゲイン……!!
蜷川伊久磨おそるべし。
「とにかく、伊久磨くんの視界にいないとまずいっていうのはよくわかったの。じゃないとあたし……」
光樹にまで負ける……。
(香織に負けるのはある意味仕方ないというか、シェフに負けるのも仕方ないというか、んん~~? 仕方ないのかな? いやだけど知り合った順序っていうのもあるし? あるけど? 光樹はちょっと自重して欲しいわけよ)
弟の存在を伝えていなかった非は静香にある。なんと言って良いかわからず、言えなかったのだ。折を見て伝えようと思っていた。それなのに。
いつの間にか出会ってしまった伊久磨はすでに、明らかに光樹に心を開いている。光樹、と呼んでいるし。家にも泊めたらしいし、家族との話し合いが済み次第「海の星」で働いてもらうつもりだとか。
(ちょっとやめてよ、伊久磨くんはお姉ちゃんの彼氏なんですけど~~?)
よっぽど言いたい。
言ったからどうというわけでもなさそうな気はするが。家族の反応はまったく想像がつかない。
「そもそも家族で『海の星』ってどういうこと……? あたし、あたしもそれ参加します。絶対行く」
――参加って。会合とかじゃなくて会食だけど。ほんとに来るの?
不思議そうに聞かないでほしい。
「あたしがあたしの家族と食事して何が悪いのかなっ。三人の予約を四人にするくらいできるよね。ちょうど水曜日の夜の予約なら間に合わせてそっちに帰るし。それで、伊久磨くんは次の日お仕事がお休みなわけだから」
家に泊まっても大丈夫だよね? と念押ししたいが、その一言が咄嗟に言えない。
家族で「海の星」に行った挙句、「彼氏の家に泊まる」ということは、彼氏が伊久磨だと家族に対して明らかにするイベントを挟み込むことになる。
今回のメインは光樹だ。「海の星」でバイトをするにあたって、お店を見てもらおうと伊久磨が予約をすすめて水曜日の夜と決まったらしかった。
つまり、両親に「海の星」がどういうレストランか印象付けるのが目的であり、中心人物は光樹であって、静香は思い切り無関係。いわゆる蚊帳の外。
そこにわざわざ押しかけて、「光樹だけじゃないの! 実はあたしもね!」と割り込もうというのである。問題はひとつひとつ解決したい派の伊久磨には、いささか面倒くさいことになっているのは知っている。
(面倒くさいよね。面倒くさい年上なのよあたし。本当は聞き分けよく「次はいつ会えるかな」って余裕いっぱいに言っていたいのよ。それができないの~~!)
内心、嫌われるのは怖いと思っているし、思いまくっているのだけど、引き下がれない。譲れない。
たまには「彼女」としての存在を主張しないと、彼の心の中から蹴落とされそうで不安なのだ。
その忸怩たる思いが通じたのかどうか。
電話の向こうの伊久磨は、特に動揺した様子もなく「わかりました」と言って来た。それから、と続ける。
――静香? その交通費、俺が出したいんですが。
「それはべつにいいよ! 気にしないで!!」
――片道分だけでも。
「いいの!! 大丈夫!! そのくらいは稼いでいるから!!」
さすがに月二回は厳しいなぁと悩む向きはあったが、今すぐにどうこうというほどではない。貯金もたくさんではないが、ある。
悩みを見透かしたかのように、伊久磨が低い声で言った。
――じゃあ、さっさと素寒貧にしてしまうか。早々に、俺と一緒に暮らすって言うように。
「えっと」
なんかいま一瞬怖かったんですけど。今日イチ、怖かったんですけど。
動揺しまくりの静香を差し置いて、伊久磨は「そういうわけで、光樹の件、ご実家にお邪魔した件は報告が遅くなって申し訳ありませんでした。今日はもう遅いのでこれで」と話を切り上げようとしている。
確かにその件では、おおいに言いたいことはまだまだあったが。これ以上電話でぐずぐず言うよりも、直接会ったときに話そう。それは静香も、そう望むところ。
「じゃ、じゃあ、水曜日ね。もう明後日。日付的には明日? そっちに行くから。あの、うちにも連絡しておくから。よろしくね」
その後おうちに行きたいです、までやっぱり言えない。変なところで意気地なし。
伊久磨は落ち着き払った様子で答えた。
――了解です。予約の人数変更をしておきます。ご家族には静香から話してくれるということなら、こちらからは確認電話などは入れないようにします。もし仕事の都合がつかなかったときは、ご家族でも俺でも連絡つきやすい方に連絡を入れてください。あと何か言うことはありますか?
おうちに。
(言えない)
「大丈夫です。明日、火曜日の夜はこっちも仕事遅い件があるので電話はいいです。おやすみなさい」
肝心なことは言えないまま、通話を切ろうとする。
伊久磨からもその件に関しては特にふれられなかった。いつも通りの別れの挨拶。
――おやすみなさい。