Scorpion
――伊久磨は今日、風邪で四十度の高熱でどうしても休むしかなかったんだ。そう思っている。そんな日もある。
苦渋に満ちた由春の声。ごめんなさいと言おうとしたところで「お前ふざけんなよ! お前がいないととんでもないぞ、藤崎が独り立ちできる日はまだまだだからな!」と割り込んだ聖の声がスマホから溢れ出し、無言で耳から遠ざけた。
そのスマホは、横から伸びて来た白い指に奪われる。
「あ~、うるせえうるせえ。西條本当にうるせえわ。まだ勤務中だろ。つべこべ言わずにしっかり働けよ」
口調は喧嘩腰だが、顔にはにやにやとした笑いが浮かんでいる。
言われた聖は受けて立ったようで、さらに何か騒いでいたが、無情にも通話は切られて終わった。
BGMのない車内には、エアコンの吐き出す温風の音と、静かなエンジン音だけが残る。
「夜の営業、出ようと思えば出られないこともないんだけど」
時刻はまだ十八時。ピークを迎える前に合流すること自体はできる。だが、予約や料理を把握していないので、いつもよりパフォーマンスは下がるだろう。それをもって由春は来なくていいと言っていたに違いない。
「一日くらい放っておけ。子どもじゃないんだ」
スマホをダッシュボードに投げ出した香織が、投げやりに言う。
伊久磨はギアに手を伸ばし、サイドブレーキをキックで解除する。軽くアクセルを踏みながら、微笑を浮かべた。
「子どもみたいに家出している大人が何か言っている。西條シェフとのことはもういいのか」
齋勝家を辞して、ひとまず近くのコンビニの駐車場にて勤め先「海の星」に連絡を入れたところ。
来なくていいと言われたので、この後の時間も自由となった。
「西條ね~。ん~。とりあえず殴り合いになることはないかな。大人だし? 俺もあいつも」
助手席で、窓に頬杖をついていた香織は、目を閉じて今さらなことを言う。
滑るように発車して、ウィンカーを出して道路を走り出す。帰宅時間なのか、暗い夜道にテールランプが連なるように灯って見えた。
「どこに行く?」
決める前に車を出してしまった。
うっすら目を開けた香織はぼんやりとフロントガラスを見つめる。そのまま、と小さく呟いた。
「このまま行くと市内を離れることに」
「いいよ。ガソリンあるでしょ。少し走らせて」
言うだけ言って、目を閉ざしてしまう。疲労の滲んだ横顔。
伊久磨は少し強めにアクセルを踏み込んで、加速する。
しばらく、会話はなかった。
やがて周囲に車もなく、ただ一台で山道を進んでいることに気付いた香織が、ぼんやりとしたまなざしで呟く。
「どこへ」
最小限の問いかけに、考えてから伊久磨はゆっくりと答えた。
「海の星がときどき使っているレストランがあるんだ。イタリアンなんだけど、飲み屋兼ねて遅くまでやっているから、うちの閉店後に行っても普通に食事ができる。そこのシェフがちょっと滅茶苦茶なひとで……。夏になるとキャンプ場に住んでるって」
「ん、なんだいまの。なんかよくわからなかったぞ」
ちらりと視線を向けられたのを感じて、伊久磨は笑いながら続けた。
「星がすごく綺麗に見えるから、だって。キャンプ場にテント張って、そこから出勤して、そこに帰るって言ってた。地面にひっくり返って好きなだけ星空を見てから寝るってさ。夏の間一ヶ月くらい」
道の両脇には、迫るような高い木々。車は傾斜のついた坂を上っている。
「突然思い出した。冬でも綺麗に見えるのかな。さすがに誰もいなそう。遭難には気を付けよう」
目的地を了解した香織が、唇にうっすらと笑みを浮かべて低い声で言う。
「遭難は洒落になんねーな。俺は伊久磨とは心中してやらないよ」
* * *
山頂付近の、ろくに雪かきのされていない駐車場に車を停める。他に一台もなく、照明すらなく、すかっと開けた頭上には満天の夜空。
星々はまるで、砕け散った虹が宝石になって夜の天鵞絨に広がったかのようだ。色彩の洪水となって明滅している。目が眩むほどの瞬き。音がしないのが不思議に感じる。
多すぎる星々の中、うっすらと白い光の筋となった銀河が空を横断している。そこかしこに、幾筋も。どれが天の川と呼ばれるものなのか、星に詳しくないせいで伊久磨にはよくわからない。
吸い込めば胸に氷の柱が立つほど、大気は鋭く冴えて冷え切っていた。
白い息を吐き出し、車にもたれかかって空を見上げていたら、反対側から車に寄りかかっていた香織がしずかな声で尋ねてきた。
「親父さんどう。話せたの」
「うん。どうだろう」
何それ、と笑われた。たしかに、中途半端なことを言ってしまった。
「伊久磨さ、児童相談所とかすごく調べていたよね。だめだと思ったら、連れ出す気でいたでしょ」
隙間時間にスマホであれこれ検索していたのは、一度覗き込まれてしまって香織にはだいたいバレている。隠しきれることでもなく、伊久磨は息を吐き出した。
「とりあえず、そこまでじゃないのはわかった。父親が聞く耳もたないほど支配的というわけでもないし、光樹が取り付く島もないほど反抗的というのも違う。ただ苦手意識というか、お互いの目を見て話すのができない状態に見えた。今回、ピアノのことは、わかってもらえたよ。やめさせない方針で。バイトに関しては、ひとまずご家族で『海の星』に予約を頂いた。店を見てもらってから。次の勝負はそこか。勝負なのかな」
首を傾げながら、腕を組む。綺麗すぎる空を見ていたら、涙が出てきそうになった。ピアノの音を思い出したせいかもしれない。
「逆に言えば『そこまで』だったら、光樹を容赦なくあの家から引き剥がしたってことだろ。考えてみると恐ろしいなお前」
「そうかな。家庭を聖域にしすぎるのも幻想というか。引き剥がすにしても、本当は『俺が引き受ける』と言えたら良いんだけど。それはいろいろと問題が」
世間的には「判断力のない未成年を無責任な大人が振り回した」ことになるだけだ。実際に、そのへんの判断は恐ろしく高度で、慎重に行われるべきものなのだろう。本人にも専門家にも難しい部分に違いない。
「そんなに焦らなくても、光樹がお前の『義弟』になるのはほぼ確定じゃん。そっちの事情棚上げにして、あそこの両親と必要とあれば刺し違えるくらいの気持ちになっているお前、本当に怖い」
腕を組んで、空を見上げたまま、おとうと、と呟いてから伊久磨は「あっ……」と呻き声を上げた。
コートのポケットに突っ込んでいたスマホを取り出そうか考えるも、身動きができず、崩れ落ちるように緩慢に項垂れる。
「静香。忘れてた」
「本当だよ。さっさと実家に乗り込んだあげく、すわ大喧嘩って、静香にどう説明する気なんだよ」
目を閉ざす。後から説明する気はあったが、後回しにしすぎた気がしなくもない。
(説明……)
どこから。何を。いますぐ電話してしまいたい気持ちと、落ち着いて話せる時間と場所を確保してからしっかり話さねばという気持ちで居たたまれなくなる。
車越しに背中合わせの香織は、そんな伊久磨に構わず、独り言のように話し始めた。
「伊久磨はわりと良い育ちをしていて、家庭の歪さには厳しいのかもしれないけど。あのひとたちはあのひとたちで、たぶん、子どもを愛しているし。不幸にしたいなんて思っていない。それは静香も光樹もわかっていると、思うんだよね。親を責めて、責任とらせようとか、二人とも考えていなさそうだし。執着していないというか、親の人生から自分を切り離している。そこは強いよ」
なんの話をしているのだろう、と伊久磨は耳を澄ませて考え込む。
静香と光樹の似ているところ?
「だからこの先、もしかしたら母親のこと、父親のこと、無理に白日のもとに引きずり出す必要はないのかもしれない。と、俺は思う。親が話したいとか、子ども側が知りたいと言うのならもちろん誰かが止められることでもないけど。その意味ではね、伊久磨が今日のところは『ピアノ』だけに成果を絞って話し合いしたのは、俺かなり評価してるんだよね」
思わず振り返った。伊久磨には香織の後ろ姿しか見えなかった。
「俺は褒められているのか?」
「さあね」
(やっぱり、声が疲れてる? 元気がないかな)
今日は一日中一緒だったけど、そこまで疲れる場面あったかな、と考えて。
ひゅっと息を飲み込んだまま呼吸を止めた。唐突に降ってわいたそれは、確信。
「香織。誰かに会ったのか?」
自分が離れていた時間。香織は、ひとりで車で待っていた。
微動だにしない背中。やがて、香織はゆっくりと首をそらして空を見上げた。
「昔のこと思い出した。薄暗い夕方に、ふらふら歩いているガキがいた。信号も何も見ないで、トラックが来てるのに向かい側に飛び出そうとしていたから、びっくりして捕まえた。『何してんだ』って。そしたら『家に帰りたい』って……。家の方角がわからなくなったみたいだった。仕方ないから連れて帰ったんだよね。俺、子どもなんか苦手なんだけど。そいつ、普通に手を繋いできてびっくりした。見ず知らずの相手だぞ。それなのに手を……。小さくて」
声が消え入りそうだ。手を。小さくて。連れて帰った。
ねえ伊久磨。
囁きの音量で、香織がひそやかに聞いてくる。空気が恐ろしいほどに澄んでいて良かった。風にかきけされることもなく聞こえる。
きょうだいって、手を繋ぐものなの?
唾を飲み込んで、答えようとした。
耳の奥で光樹のピアノが鳴り出す。
まるで小さな子どもに語り掛けるように。
息を吸い込んだら、冷たい空気が喉に刺さった。それを飲み込んでいままさに言葉を発しようとした瞬間、香織が「あ~あ」と追憶を断ち切る声を上げる。
「俺さ、星座ってよくわからないんだけど。蠍座っていまの季節見えてるの? どれ?」
「蠍座?」
星座は俺も詳しくないんだ、と思いながらつられて空を見上げる。
澄み切った空気の果てで、激しく瞬きを繰り返す星々。
この地上に光を届ける今よりもずっと昔に、遠い宇宙で燃え尽きているのかもしれない。
車に寄りかかり、ひっくり返るほどに身体をそらして空を見上げた香織は、白い息を吐き出して呟いた。
「俺の蠍は、この空のどこかで今日も燃えているかな」
* * *
「お兄ちゃん!」
冬は陽が短い。
灯は高学年になってから、習い事は一人で通っていたが、帰る時間は真っ暗だ。
学校帰り、ちょうどレッスンが終わる時間帯に合わせて、灯のピアノ教室の前を通るようにしていた。街灯の下で、真っ暗な空からちらちらと降って来る雪を見上げていると、灯が駆け寄ってくる。
すぐそばまで来て、すべって転びそうになって、咄嗟に手を伸ばして腕を掴んだ。
「お兄ちゃん、帰るの遅いね」
手を離すと、灯は少し恥ずかしそうに笑って見上げてきた。
「学校で色々していたらこの時間……。今日のご飯何かな」
並んで歩き出そうとして、灯が手袋をしていないことに気付いてしまう。
(寒いのに)
両方脱いで渡すと、いいよ、と言われるが「俺の方が手の皮厚いから」と適当なことを言って押し付ける。
(……いいよってなんだろう。「お兄ちゃんのなんか使いたくないよ」じゃないよな?)
少し歩いてから、灯が遅れているのに気づいて歩調をゆるめる。
急ぐとすぐに転びそうになるからと気にして、肩越しに振り返った。
まさに転びかけていて、凍ったアイスバーンに手をついていた。
手袋を渡していて良かった、と思いながら引き返す。
「靴がすべるのか」
「そうかも。学校帰りに濡らしちゃって、代わりがスニーカーしかなくて」
「それはすべる」
しばらくアイスバーンが続いている。迷ってから、手を差し出した。
「転ぶよりマシだから」
「えぇー……」
お兄ちゃんと……という躊躇いは大いに感じていたし、自分だって友達には絶対に見られたくないのだが仕方ない。背に腹は代えられぬ、だった。
迷いながら、渋々といった調子で灯は腕を掴む。早速転びかけて、ぐいっと体重をかけられる。
互いに無言になりかけたが、会話がないのはさすがに気まずいと思ったのか、灯がぼそりと言った。
――今日の晩御飯からあげみたいだよ。お母さんが言ってた。
――あ、そう。灯、からあげ好きだね。
――お兄ちゃん、毎週木曜日私に合わせて帰りが遅いから、二人が帰ってくる時間に合わせて作るって。
――べつに。毎週木曜日が遅いのはたまたま。
たまたま学校の帰りが遅くてレッスンの終わりと一緒になるだけで。
言い訳を飲み込んだところで、灯に明るく言われた。
――からあげ楽しみだね。早く帰ろう。
結局、「はいはい」と返事をして、家路を急いだ。
少し遅くなったり、遠回りしたり、腕を貸すことなんて、実際たいしたことがなかった。暗い夜道、灯をひとりで歩かせるよりは。
冬道は危ないから、気を付けないと。
この先いつまで一緒に歩けるのかは知らないけれど。
いつか道を違えて別れるまで、一緒に歩けるところまでは。
俺が隣を歩くよ。
長かった第23話~第25話「星の海」に、アフターSS「Scorpion」でひと段落です。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
この期間に、「50万字・1000ポイント・10万PV・200ブクマ」を達成しています。どうもありがとうございましたー!!
自分でどうにかできる数字は「50万字」だけなので、他はすべていつもよんでくださる皆さまのおかげです。
また、長らく「広告を出さず口コミとリピーターで頑張っているお店なので」という海の星のスタイルで「レビュー受付停止」にしていましたが、いくつかきりの良い数字になったところで、「そろそろマスコミ取材を受けるお店に育ってきた」という自分内設定で「レビュー受付」にしたところ続けていただけました!!
間咲正樹さま、shinobuさま、ありがとうございました!!
さて、しばらく「暗黒系ピアニスト・光樹編」でお送りしていましたが、この後はたぶん「忘れてごめんね静香!!」というウッキウキのバレンタイン編になるかと思っています。またお読み頂けると幸いにございます。
余談ですがこのエピソードに出て来た「滅茶苦茶なイタリアンのシェフ」をメインにした短編は「瞬く間に夕陽」という短編として公開済です。シリーズ管理からお読みいただけますので、もしよろしければあわせてどうぞ。
illustration:遙彼方さま(userID 828137)