煌
「希望していた高校に入れなかった。その結果がすべてじゃないかな。ピアノに関しては、時間をとられすぎているように見える。逃避ならやめた方がいい。逃げても何も変わらない」
目には見えない未完成のパズル。
互いに一つずつピースをはめていく。
伊久磨は、待っていた。目の前の相手が、ピースをはめるのを。
光樹の父である俊樹が目にしている光景はいかなるものか。
一度視線をテーブルに落とす。見えるはずもないパズルの完成図を幻視する。
つながるはずもない場所に、ちぐはぐなピースを無理やりはめられたような、違和感。
顔を上げて、目を見つめる。
「なぜ『逃げている』とお考えですか。仮にそうなのだとして、光樹は何から逃げる必要があるんでしょうか。本来安心できるはずの家にあって、『ひとりでピアノと向き合うこと』に時間を費やしているのだとすれば、その行為によって失われているのは『勉強する時間』という単純な話ではないと思います」
怒っているのだろうか。自問する。
(怒らないようにしている。まだ)
自分が描いた完成図が「正解」なんて驕るな。相手を見くびるな。「その程度」なんて思ってしまった時点で、対話は終わりだ。
おそらく、まだ本音までたどり着いていない。手の内を隠されている。それは自分が「初対面の部外者」で、心を開く相手ではないからだ。
(信じてもらわなければ。向き合って話し合うに足る人間だと)
ここにいる。あなたの話を聞くために。言葉だけではなく、その目がどこを見ているのか。呼吸は。指の動きは。そういったもの全部。見ているし、聞いている。光樹ができなかった分まで。
親子の距離感。絡まり合った感情のせいでどうしても伝えられない言葉があるのなら。
話を聞く人間としてここにいる。
「光樹。もし俺の言っていることが光樹の考えと違うなら、違うと言って良い。足りない部分があるなら足して。光樹の気持ちを想像することはできるけど、俺は光樹じゃない。今のこの会話は、光樹の気持ちにきちんと寄り添っているかな」
たしかめるように問いかけて、伊久磨は横に座る光樹に目を向ける。
俯いて聞いていた光樹は、テーブルの一点をじっと見つめていた。やがて、掠れた声で言った。
「ピアノが逃げに見えるのは、俺の『音』のせい……? 聞いても幸せな気持ちにならない。暗くて、鬱憤をぶつけているような」
行き詰まりや閉塞感。明るく軽やかに生の喜びを歌い上げる光とは、無縁の。
暗黒に挑み、叫び続ける音色。どこにも行けずに、壊してしまいたいと願う。
(「誰か」に向けて弾いている。届いてしまえば相手を追い詰め、苦しめるかもしれない、それでも弾くのをやめられないそれは)
きっと、君の声。
何度でも言うよ。一度「声」を失った俺にとって、喉の限り迸る君の「叫び」は本当に憧れだ。
雪の中に倒れて、香織に気付かれなければそのまま死ぬだけだった俺の心はあのとき、もうこの世にはいなかった。
光樹はこの世界に留まったまま、声を上げている。
逃げてなんかいない。
ここにいる。
声を届けるべき相手も、生きている。遅すぎることはなくて、こうしていま向き合えている。
絶望しても諦めずに、奏で続けてきたから。自分の指で。
それが俺をこの場まで呼び寄せている。君の声が。音が。
「この先、ピアノで食べていくのかどうかはわかりませんけど。現時点で彼はすでに、かなりの技量に達していると思います。俺は素人なので、『思う』としか言えませんが。やめた方が良いと言う前に、もう一度聞いてください。光樹、ピアノはどこに?」
がたりと椅子を鳴らして立ち上がる。目を見開いて光樹が見上げてきていた。
伊久磨は微笑みかける。
「逃げてなんかいない。立ち向かってきたひとにしか、あの音は出せない。だけど光樹、君もそのピアノを『聞いて』と言ったことがある? 偶然耳にするかもしれないのを、待っているだけじゃなかった? お金を出してもらっているわけだし、君はもう小さな子どもでもない。やめさせられたくないなら、現時点での成果を示すのは大切だ。弾いてみよう。聞いて判断してもらうんだ」
「聞いてもらうって」
戸惑いながら立ち上がる光樹に、伊久磨は頷いてみせる。
俊樹の方に顔を向け、いぶかしげに細めている目に視線を合わせた。逸らされまいと。
「聞いた上で、このピアノにお金を出せないと保護者の方が判断するなら、それは仕方ないことです。彼は未成年だし、ピアノは生活に直接関係ない『習い事』で、『勉強』『学校生活』を大切にして欲しいと親御さんが考えるのは当然のことですから。だけど芸は身を助くともいいます。他のひとにはできないことが、何か一つでもできるということは、長い目で見れば彼の人生を支えていく武器になると思います。現にこうして、仕事のスカウトがあるわけですから」
この、七面倒くさい男が家出のアシストをした挙句に、家の中に乗り込んでくる程度には。
ピアノはすでに光樹の人生の一部。出会いをもたらし、居場所を作ろうとする足掻きに力を与えている。いま彼から無理やりにはぎ取ったとて、大けがを負わせるだけ。
「ピアノ、廊下から向こうに部屋があって、そっちに一台」
光樹は躊躇いながらも、背を向けていた出入口の引き戸にちらりと視線を向ける。リビングとは反対側にもう一部屋あるらしい。
伊久磨は光樹の背に軽く手を添えて、押し出すようにしながら厳然として言った。
「まずはピアノだ。手放さないで済むように、全力で弾こう。聞いてもらうんだ、いまの光樹の音を」
(一つずつ。絡まりを解いて、状況を動かしていく)
光樹にとってのピアノ。受験期に暗雲が家庭を覆ったとき、ピアノに向き合う時間こそが彼を支え、救ったのかもしれない。逃避ではなく。生きる為に、彼が必要としていることを伝える。
生き延びて少し大人になった彼が、両親と会話をする下地を作るために今はまず。
未完成のパズル、そこにはまるピースはきっとこれだと、俺には見えるんです。
光樹のピアノを聞いてください。
* * *
他に何もない部屋に、国産の黒いアップライトピアノだけが壁付けで置いてあった。
ふたを開けて濃い赤紫色のフェルトをめくりとると、アイボリーの白鍵と黒鍵。椅子をひいて座り、光樹が指を乗せる。
すぐに鍵盤が沈み込み、瑞々しく粒の揃った音が零れるように鳴り響いた。
――ひとつだけお願いしてもいいかな。光樹はこの先きっといろんな場面で、いろんなひとを思って弾くと思う。知っている誰かを心に描きながらかもしれないし、まだ見ぬ誰かの為にかもしれない。その音で誰かを励まし、勇気づけて、生きていく力となる為に弾くこともあると思う。
これを言ったら反則なのは知っている。光樹の優しい心には重荷になる。知っているけれど。
――死んだ妹が、ピアノを好きだったんだ。ピアノの演奏を聞くと、もっと妹に聞かせたかったと思う。せめて俺の耳にしたこの音が、天国でも響いていたらいいのに。妹に、光樹の演奏を届けられたらすごく嬉しい。そのつもりで、聞いているから。
願いを託された光樹は、「応えられない」と言って逃げ出したりはしなかった。決然とした表情でひとつ頷いていた。ずっと、気にしていたせいだろう。伊久磨の家族のことを。伊久磨自身のことを。「こんなに引きずり回してしまった」「何か返したい」と思っている。
伊久磨は目を伏せて聞く。その横には、俊樹が無言で立っている。
(悪い大人だからつけこませてもらったよ。光樹が俺に何か返せるとすれば、それは弾くことだけだと)
淀みなく、清らかな音を光樹の指が奏で続けている。ピアノに向かって、自分の出来る限り、ありったけの熱情をのせて。
歌っている。
天上の銀河。炎を宿した水晶、トパーズ、星屑の堆積した天の川のほとりで両腕を差し入れて、輝きを巻き上げてきらきらと地上に降らせるかのように。
鮮やかに、笑いさざめきながら歌っている。
本当に優しい。
(ああ、光樹。俺の妹はそんなに小さくないんだ。生きていたら光樹より年上だし、死んだときだっていまの光樹と同じ年齢までは生きたんだ)
だからそんなに、小さな子どもに語り掛けるように弾かなくても大丈夫だよ。
まるで親とはぐれて途方に暮れた迷子の手をひくみたいに、そんなに優しく。
地上で迷わないでもう天国に行ったと思っているし、今は俺の心の中にいるから。
語り掛けるようにピアノは鳴り続ける。
桔梗色の澄んだ空の彼方に、その音色は駆け上る。
目を瞑ると、羽ばたく白い渡り鳥が遥か高みを飛んで過ぎて行った。遠くへ。
……弾けるんだ。そんなに優しく。
俺の中の、自分では手が届かないと思っていたすごく深いところに届いてる。辛いとか苦しいとか悲しいとか生きていたくないとか、そういうの全部が沈み込んでいて、触れてはいけないと諦めていたところだ。家族の思い出もそこにたくさんたくさん沈めていて、本当は触りたいのにどうしてもその勇気が出なかった。怖くて、二度と思い出せないと手放したことがたくさん。
この音は空の高くて暖かくて綺麗なところにも届いてるね。
弾いてくれてありがとう。
* * *
「……光樹が小学校の一年生のときかな。家に一度帰ってきてから、ふっといなくなってしまったことがあって。日暮れまで探して、警察に届けようと思ったときに突然帰ってきたんだけど」
遠くでピアノが歌っている。
空恐ろしいまでに澄んだ響きだ。
自分の声で、その音色を遮るのを躊躇うように。それでいて、今を逃しては言えないとばかりにそのひとは抑えた声で話し続ける。
「髪の長い男のひとに、『お前の家はあっちだろ』って言われて、手を繋いで連れてきてもらったって。少し、要領を得なくて。車に轢かれそうになったのを助けてもらったとか、色々……。親切なそのひとは、もうどこにもいなくて」
あの音は、ひとが触れるのを諦めてしまった、胸の底の深みに届く。
良いものも悪いものも投げ込んで、思い出すまいと目を背けているそこに。
「ずっと御礼を……。光樹を助けてくれて、ありがとうございました。あなたは……本当に優しい」
――まるであなたの父親のように。
言われなかった言葉が耳の奥で響く。幻だ。
(勘違いですよ。俺がこの家に好き好んで近づくわけがない)
しらを切り通そうと思ったのに、どうしてもその一言が出てこなかった。
目が熱い。涙が出て来そうだ。きっとこのピアノの音色に引きずられている。
このひとは、久しぶりに会って、言いたいのがそんなに昔のことなんだ、と。
どれだけ長いこと抱えてきたのかと。
(本当は気付いていた。街中で遠くから、ときどき視線を感じると、決まって)
触れ合えないと知っていながら、いつか会って話したいと思っていたのは自分だけではなく。
表情を決めかねて、結局、最終的には笑ってしまった。
陽が落ちて辺りは暗いから、見えなかったかもしれないけれど。
「優しいですよ、俺。割とね、これでも、良い育ちしてるんですよ。おかげさまで」