“会わなければ”
門から敷地内に踏み入れる人影があったのは気付いていた。
見るとはなしに見ていたら、がくっと肩の位置が不自然に沈んだ。
(転ぶ)
今から駆け寄っても、間に合わない。わかっていたのに、考える前にドアを開けて車を下りてしまっていた。
大気が青く澄んでいる。
誰そ彼時。
どうせならもっと暗ければ良かったのに。距離があるのに、顔を上げたそのひとと目が合ってしまう。
視線に捕らえられてしまう。
耳の奥で、今日間近で聞いてきたばかりの、寄せては巌にあたり砕ける白い波濤の音が響いた。浜辺を歩いていても、何度もひたひたと足元まで迫ってきていた波。
足を濡らさぬようにと、危ういところでかわしてきたのに、逃げられない。
顔を上げたら津波がそこまで。
飲み込まれる。
「椿さん」
奥歯を噛みしめて、その声を聞いた。歯を磨滅させかねないほど力の入った顎。溜息をつくように息を吐き出して、全身の強張りを解こうと努力する。
「お久しぶりです」
可能な限り、顔を背けながら歩み寄った。そのひとは、転んだまま雪の上に座り込んでいる。手を差し伸べるのが良いのだろうか。
できない、どうしても。誰でも思いつく、簡単なことが。
(なんで自宅の敷地内で転ぶんだ。滑る場所なんかわかってるはず。大体、そんな入口で座り込んでいたら、外から車が入ってきたときによく見えなくて撥ねられる)
思いっきり違う方向を見たまま、手を伸ばした。
「立てますか」
この手を。
取って欲しいのだろうか。触れて欲しいのだろうか。自分でもよくわからない。
心臓が痛い。
微かに、指先に指がぶつかった。見ていなかったせいで、偶然なのか、それとも掴もうとはしたけど大丈夫だと思い直したのか、よくわからない。
立ち上がった気配があった。
「大きく、なりましたね」
ぎこちない、ぎくしゃくとした口調で声をかけられる。
(早く、どこかへ立ち去って欲しい)
俺を見ないで。
「今年、三十歳なので。まあ、そうですね」
何を答えていいのかわからないから。
「髪……」
「切りました」
何もかも不自然なのに、会話を続けようとしないで欲しい。
話すことなんてお互い何もないはず。こんなに近くに住んでいることは知っていたのに、数えるほどしか会話を交わしたことがない。
(覚えているから。全部)
少なすぎるから。
普通じゃない。
生まれてから三十歳になるまで、相手の言葉のすべてを覚えている関係なんて。普通じゃないんだ、だから、今さら。
「結婚、近いんですか」
ぽつりと言われて、何を言われたのか理解するまでに時間がかかった。なんだそれ、と思ってから、なんだそれ!? とようやく遅れてきた衝撃に激しく動揺して思わず相手の顔を見てしまった。
いきなり振り返った、その過剰な動作に驚いたように大きな目を丸くしながら、そのひとは邪気のない様子で言った。
「いま、女の人と暮らしてるって聞いて……」
なんだ?
なんの話をしているんだ? と、ぐるぐると考えた。おそらく、大半無駄なことを考え抜いてから、ようやく声が出た。
「詳しいんですね」
そんな、近況も近況を知っているなんて。
「……友だちがね。教えてくれるの。色々。前は、男友達と暮らしていたとか。水沢さんが帰ってきているとか。最近は、東京の彼女がこっちにきて、一緒に」
筒抜け過ぎだ。
はっきりと呆れた表情になってしまった。
「梓さんですか」
このひとの友達といえば、セロ弾きのゴーシュの店番にときどき立っている樒梓が思い浮かぶ。
「うん。何かあると、さりげなく」
何かって。
陽が落ちる直前、青みを増した空気の中で、そのひとは笑った。ああ、前に会ったときより確実に年齢を重ねて老けている、と気付いた。ときどきしか会わないせいで、そんなことがよくわかってしまう。
気まぐれの一瞬の会話からこの先、また何年も空白があるだろう。
次に会うのは。
遺影かもしれない。
物言わぬ骸。遠巻きに棺桶を見て、結局あなたの人生はどういうものでしたかと心の中で問いかける。
そんなことばかり、思い浮かぶ。
まだ生きているひとを前に。
(大体、俺のことなんか知ってどうする……)
関わり合うつもりもないくせに。身の回りのことなど、いつから。
いや、いつからなんか知りたくない。気が遠くなってしまう。手に入らない、自分はあのひとの眼中にもないのだからと言い聞かせてきたのだ。それなのに。
今になって。
今になって。
――大きく、なりましたね
(いつと比べてだよ。身長なんか高校の頃から変わってないよ)
――今年、三十歳なので。まあ、そうですね
はじまりの時点から比べているのだとしたら、大きくなったどころじゃない。
(俺は、この家のすぐそばまで来たこともあった。後ろ姿を、遠くから見ていることも。振り返って欲しくて。俺がどんな思いで見ていたかと)
誰にも知られないように。少しだけ遠回りしてこの近くを歩いてみて。ばったり会えないかと期待して。
思い出させないで欲しい。
自分が何を求めているかもわからないまま、彷徨い歩いていた幼い日々のことなど。抱えている空白の意味がわからず、何で埋められるかも思いつかず。
(違う。知っていた。何が欲しいか。何が足りないか)
遠くから、横顔を、後ろ姿ばかり見ていた。
父が死んだとき、ひとりになるのだと漠然と思った。助けてほしかった。ずっと助けてほしかった。
生きていくのが怖かった。
今でも怖いままだ。広がり過ぎた空白はもう、ブラックホールじみた、ただの闇。
誰が愛を放り込んだって、飲み込んで消滅させるだけ。ひとかけらすら、味わうことなく。
(だってわからないんだ。わかりたかったけど、わからないままきてしまった。愛がなんなのか)
会わなければ良かった。
転んでいたって、放っておけば良かったんだ。助けようなんて。
いま一言でもしゃべったら、泣いてしまう。
その思いから口をつぐんでいるというのに。
視線の先で、そのひとは涙を浮かべていた。
やめてほしい。先に泣くのはずるい。
「会わなければと、思っていて。言える立場じゃないのに」
立場? 立場ってなんだ。身分社会でもないのに、いったい何に分断されていたんだ。三十年も。
会わなければと。
呪わしいほどに耳に残る。
“会わなければ「いけない」”
自分の胸を埋め尽くしている感情とは真逆。
“会わなければ「良かった」”
顔を背ける。陽が落ちたせいで大気は群青からの紫紺。せいせいするほど冷ややかで、馴染みのある闇の気配に満ちている。
ここで断ち切るべきだ、この会話は。車に戻って、伊久磨を待とう。
待つのか?
帰ってしまってもいいんじゃないか。
(伊久磨はいずれこの家に受け入れられる。俺が永遠に足を踏み入れることがないと思っていたこの家に)
自分が欲しくても、どうしても手に入れられなかったものを、全部その手に収めていく。
心のバランスを保ったまま、祝福したい。恨みや妬みに支配されたくない。
「これで」
立ち去らせて欲しい。そのつもりで告げたそのとき。
遥か遠く。まるで空の彼方から地上に降り注ぐ星のように。
零れ落ちて胸の中に転がり込んで奥底に沈んで深淵をかき乱す流星群のような。
瑞々しく打鍵する、ピアノの音が聞こえた。