対峙
廊下の突きあたり。
飾り棚の上には、白磁の壺に見事な枝ぶりの紅梅と黄色い花が活けられている。
右手に引き戸があったが、先に通過した木崎が開けたままにしたらしく、リビングのような空間が広がっているのが見えた。
「失礼します」
脱いだコート片手に、伊久磨は光沢を放つフローリングに足を踏み出す。
正面に飾り棚。棚を挟んで、壁一面にカーテンのかかっていない大きな掃き出し窓。そのまま視線を右手に向けると一枚板の大きなテーブルがあった。椅子は全部で十脚。奥には暖炉があるフリースペース。ちらちらとガラス窓の中で踊る火は本物かフェイクか、距離的にわからなかった。誰もいない。
わずかに目を細めたところで、背後で微かな物音がした。
「いやあ、わざわざすみません」
男性の声。近い。
伊久磨は踵を返し、身体ごとさっと振り返る。
少しだけ、想像していた。静香は背が高いし、光樹もこれからもっと伸びるだろう。
視線の位置はそれほど下がらなかった。香織くらいの身長はありそうな男性がそこにいた。
白髪交じりの髪はワックスできちっとセットされている。眉のくっきりとした、理知的に整った容貌。身に着けているのは社名入りの作業服の上下。
「『海の星』の蜷川さんですね。話は聞いています。光樹がお世話になりました」
目を見てはっきりと言ってから、頭を下げてくる。
「こちらこそ。心配なさっていたかと思います。ご挨拶が遅くなりまして申し訳ありません」
深々と頭を下げてから、ゆっくりと顔を上げて向き合った。
(どんなタイミングで、どんな形で出会うのか。考えなかったわけじゃない)
「それにしても、ずいぶん背が高いですね。今まで会ったひとの中で一番じゃないかな。やっぱり親御さんも背が高いんですか」
光樹の父が感嘆したように言ったが、伊久磨の背後から光樹が焦った様子で飛び出した。
「親父っ。あの、伊久磨さんは」
そこで、言葉が途切れる。唇を噛みしめて、訴えるような目で父親を見ていた。
親子の会話をこのまま見てみたい気もしたが、光樹の負担にならないように、伊久磨が言い添える。
「親は二人とも事故ですでに亡くなっています。先程の質問に答えようとすると『父は背が高かったです』とか、過去形になります。光樹くんはそこを気にしてくれているんだと思いますが……、俺自身は家族の話をタブーとは思っていませんし、聞かれて困ることも特にありません」
光樹に目を向けると、溜息を飲み込んだように唇を噛みしめ、やるせないまなざしで見上げてくる。瞳が少し潤んでいるようだった。
伊久磨は笑みを浮かべて軽く頷いてみせてから、シャツの胸ポケットに入れていた名刺入れを取り出して、名刺を差し出す。受け取った光樹の父も「これは、ご丁寧に」と言って自分の名刺を渡してきた。
齋勝工藝社 代表取締役社長 齋勝俊樹
「光樹くんから、おじい様は造園業とお伺いしたのですが、こちらの会社はまた別なんですか」
力は借りたとしても、この会社はひとりの力で一から興したのかと感心してしまう。由春を間近で見ているが、起業して長く続けるだけでも並々ならぬ労力を使うのはわかる。
「ああ、まあそうです。蜷川さん、お時間よろしければ少し話しませんか。どうぞあちらにおかけください」
「ありがとうございます」
示されたのは、一枚板のテーブルの方だった。伊久磨は入口に近い一番端の椅子をさっさとひいて腰を下ろす。
視線を左手に滑らすとカウンターを備えた広めのキッチンがあって、木崎が湯を沸かしていた。
ちょっとした料理教室でも開けそうだなと見ていたところで、隣の椅子に光樹も無言で座る。
光樹の父、俊樹は、椅子をずらして二人とちょうど正面になる位置に座った。
「まずこの度は、大変なご迷惑をおかけしました」
テーブルの上に組み合わせた手を置き、頭を下げて来る。
「とんでもない。もとはといえば、こちらが光樹くんのピアノに惚れ込んで、バイトの件を持ち掛けたのが発端と、考えているのですが。ここは間違いないですか」
大前提として、そこがずれると話の方向性が定まらない。
顔を上げた俊樹は、表情に苦いものを浮かべて伊久磨を見つめた。瞳には鋭い輝きがある。
「高校生の息子に、自分でお金を稼がなければいけないほど、不自由な暮らしをさせているつもりはありません。バイトよりも、今はもっと違うことをすべきだと考えています。親として」
「親父」
横で光樹が声を上げたが、伊久磨はちらりと視線を向けて素早く言った。
「少しだけ話をさせて」
親子喧嘩はあとでごゆっくり、と目で告げる。光樹はぐっと言葉を飲み込んだように黙り、目元を歪ませて、椅子の上でもぞもぞとした。
「『親として』に関しては、この歳で親のいない俺が口を出すと反則みたいなところがあるんですけど。親はずっと子どもの面倒を見ていられませんし、いつまでというのも実は自分でも選べません。光樹くんの高校はバイトも可だと聞きました。それでも禁止するのは家庭の方針だとは思いますが、具体的に『他に何をすべき』とお考えなんですか。それと、『バイト』だからだめなのか、『ピアノ』だからなのか『レストラン』という場の問題なのか。最後の『レストラン』に関しては納得頂けるまでご説明差し上げますし、ご足労はおかけしますが、できれば一度ご来店頂けたらと考えています」
穏やかに話そうと心がけたつもりだが、やや好戦的にはなってしまったかもしれない。
渋い表情で聞いていた俊樹は、ふーっと大きく息を吐き出した。
「他に何を……。大人の間で働かなくても、同年代の友達と遊べばいいのに、とは。子どもらしく」
「単純に、遊ぶにもお金はかかります。バイト可の高校であれば、自分の小遣いは自分で稼いでいる同級生もいると思います。光樹くんもそうすることは、何も周囲から浮くこととは思いませんが」
話しながら、このひとの本音はどこにあるのだろうと、神経を研ぎ澄ませる。
(「親として」「子どもらしく」それは「役割」か? ひとりの人間として、光樹の在り方を、本当にこのひとは見ているのだろうか)
迷いが生じぬうちに、まっすぐに目を見て、口を開いた。
「光樹くん、いまの学校に友達があまりいないと聞きました。学年が変わってクラス替えがあればまた別かもしれませんけど。現状、学校に居場所はないと感じているのかもしれません」
光樹が、横で俯く気配を感じる。
テーブルの下、膝の上で自分の手を強く組み合わせながら、伊久磨は続ける。
「今はとにかく『いいから同級生に遊んでもらえ』と蹴り出すのではなく、彼が自分の居場所を作っていく過程を見守るのではいけませんか。同年代が集まっているところにいけば自然に友達ができる、というものではないと俺は考えています。ですが、今はそこで少しうまくいかなくても、他に息をつける場所があれば案外人間はなんとかやっていけたりします。リスクの分散というか。俺は光樹くんが『知らない大人』の間で働いてみたいと決意したのはすごいことだと感じていますし、それを阻んだからといって彼の生活が現時点より何か良くなるかといえば、正直疑問です。無闇に『だめだ』と道を閉ざすのではなく、伸びる方に伸ばすとはお考え頂けないでしょうか」
話す伊久磨を身じろぎもせずに見つめていた俊樹は、表情を緩めることなく言った。
「『バイト先のレストランの人』というよりも、年の離れた友人のようですね。光樹とは以前からお知り合いでしたか」
いいえ、とそのまま素直に答えようとして、伊久磨は一瞬返答に詰まった。
知り合いではなかったし、存在も知らなかったが、会った瞬間から気になっていたのは事実だ。結果的に、この短い時間で随分関係性を深めているかもしれない。
「初めて知ったのは、ピアノの音からです。感情に訴えかける、特徴のある音色だと思いました」
叫び声のような。
振り返らずにはいられない。誰が弾いているのか目が探してしまう、音。
明るく澄み渡って空へと伸びていく軽やかさとは無縁の。
そこには凛とした涼やかさと暗い翳りがあり、心の奥深い部分に届いて甘苦い感情を掬い上げていく。
「もっとたくさんの人に聞いてもらえたらと。すごく好きになりました。ご家族がピアノにも反対されていると聞きましたが、それはお父様ですか」
腕を組んで、俊樹は椅子の背に深くもたれかかる。斜め上を見て、思い巡らすような表情。
「光樹は家ではあまり話さない子で……。いきなり知らない大人の間に飛び込んで、うまくいくはずがないと、決めつけていたところはあったかな。ピアノも。高校受験の前にずっと弾いていた。高校は、希望していたところではなくてね。何か、原因を求める気持ちはたしかにあって、ピアニストになるつもりでなければそろそろ辞めても良いんじゃないかとは思っていた」
身を乗り出しそうになって、伊久磨は自制した。無言で、身の内に湧き上がってきた感情を力づくで抑え込んだ。
呼吸を整えて、唾を飲み込む。震えそうな右腕を左手でおさえて、尋ねた。
「受験のことは、ピアノが原因という認識ですか」