破壊衝動
「その『高校生』っていうの、やめて欲しい」
海辺のレストハウスで食事中に、光樹が言い出した。
「何て呼べばいいの?」
並んで座った香織が、挑発まじりの笑いを含んだ声で聞き返す。
「ふつうに、名前とか」
光樹はやや怯みながらも言った。態度に苦手意識がじわりと滲んでいる。
(いや。苦手、なのかな?)
向かい合って海鮮丼を食べつつ、伊久磨は考えてしまった。
座席なんかどうとでもできたのだが、二人は並んで座っている。
やがてこの会話だ。
「名前ねえ。俺『齋勝』って知り合い他にもいるから呼びにくいんだよね」
「べつに下の名前でもいいけど。蜷川も、名前で呼ぶし」
初対面のときに由春の母が「光樹くん」と呼んでいて、流れでそのまま。
「お前、なんで伊久磨のことは『蜷川』呼びなの。もう少しなんかあるんじゃないの」
香織がにやにやしながらつっかかり、光樹はぐっと眉をしかめた。伊久磨はとりあえずその様子をスマホで写真に収めてみる。
撮られたことに気付いた香織が一瞬物言いたげに視線を流してきた。
結局、何も言わずにラーメンを食べ始める。
しばし沈黙。
(助け舟を出した方がいいのだろうか)
伊久磨としては、べつに光樹になんと呼ばれようと、構わない。もし「海の星」で光樹も働くのなら、職場ではさん付けで、とは言った方がいいのかもしれないが、ホール以外の場ではわりとみんな好きに呼び合っている。
オリオンに関しては、フルネームすら覚えていない。一度聞いたが、長すぎて忘れてしまった。
ラーメンをほぼ食べ終わったところで、光樹がぼそりと言った。
「伊久磨さんと、香織さん」
言うだけ言って、俯いて残りを食べる。
三人のいるその場だけ、居たたまれない静けさに包まれた。
(「椿さん」じゃないんだ)
伊久磨が「香織」と名前で呼んでいるせいだろうか。
重い沈黙ののちに香織が「へぇ」と低音で呟く。
箸を置いた。
「光樹」
ぽつりと言われて、水を飲んでいた光樹がむせた。
「って、伊久磨も呼べば?」
茶化すように言い添えられて伊久磨も「そうだな」とのんびり返事をする。
光樹は「ちょっとトイレ」と言いながら忙しない様子で席を立って、逃げた。
姿が見えなくなったところで、顔を向けてきた香織と目が合った。伊久磨が何かを言う前に、先回りするように口を開く。
「生まれたときから知ってる。高校生だって。俺も年取るわけだ」
(岩清水さんの家で顔を合わせたとき、名乗られる前から相手が誰か気付いていた)
おそらく、これまで姿を見たこともあったに違いない。同じ市内に住んでいれば、どこかで鉢合わせすることは十分考えられる。
そのたびに、心の中でその名前を呼んでいたのだろうか。
コップの水を飲み干して、伊久磨はちらりと香織に目を向けた。
「そうだよ、いいとしだ。三十歳にもなろうという大人が家出かよ」
「そろそろ帰るっつーの。お前、急に寂しくなっても知らねーぞ」
「寂しくはならない。部屋が片付くとほっとする」
「布団は置いてく。備えあれば患いなし」
伊久磨のさりげない抗議は無視され、とても力強く言い切られた。
(また来る気なのか)
味をしめられてしまった、と警戒心を抱きかけた。とはいえ、来るのは香織だけとは限らない。
光樹の件が解決した暁には親公認で泊まりがけで遊びに来てくれてもいいのにと思う。
あくまで親公認。そこにたまたま香織も遊びに来て、また三人で。
思い立って、スマホのトークアプリを立ち上げた。静香は仕事中なのか、これまで送ったメッセージや写真に既読はついていない。
そこに、先程撮った一枚を表示して、思い切って送信する。
香織と光樹が並んで食事をしている図。
どう説明しようか、一応考えた。結果、文章で書けば恐ろしく長い「大人げない大人と男子高校生の家出・サーガ」が始まってしまうと思い直して、投げた。
香織と光樹が一緒にいることと、静香の実家に行くことだけ書き込む。
静香としては気になるだろうが、伊久磨としても光樹の話題を避けられてきた件については何か言いたい気持ちでいっぱいなので、おあいこだ。おあいこということにしたい。むしろする。
光樹が戻ってきたところで、レストハウスを出た。
* * *
帰りの運転は伊久磨と最初から決まっていて、助手席は香織だと思っていた。だが、香織はさっさと後部座席に乗り込んでしまった。
同時に反対側から乗り込んでいた光樹が「なんで」と声を上げたが「自分の車の後ろに乗ることなんかないから乗ってみたいだけ。光樹が助手席乗れば」と言って動こうとせず。そのまま光樹も動かず「どうする?」と伊久磨から聞いてはみたものの「このままで」ということで、車を出した。
結局、二人はまた並んで座っている。
「光樹ってさ、友だちいないでしょ」
運転席の後ろ。窓に片肘ついてドアに寄りかかった香織が、相変わらずの挑発めいた口調で言った。
バックミラーでちらりと確認すると、光樹は嫌そうな顔で香織を横目で見ていたが、ややして、躊躇いがちに「それが」と呟く。
「家出の原因が『ピアノでバイト』の件で、何かあったら親と話すって言ってたから伊久磨のところに来た。ま、筋は通ってなくもないけど。他に誰もいなかったのかなって。学校、大丈夫なの?」
うっ、と伊久磨は心臓に痛みを覚える。
(ずけずけ言ってるけど、いまの、結局最後の「学校、大丈夫なの?」だけだから。香織が言いたいの要するにそこだから)
わかりづらいなー、と。
光樹は香織から目を逸らして、窓にごつんと頭をぶつける勢いで反対側を向いた。
黙ってしまうかと思ったが、ぼそぼそと話し始める。伊久磨はハンドルについたオーディオの操作盤をさりげなく指で操作して、車内に流れるBGMの音量を落とした。
「去年、家族が変になってすぐは、俺もそこまで深刻じゃなかったというか。願掛けたんだよね。『高校受験がうまくいったら、また元通りになる』って。落ちるつもりなかったし。だけど結果的に落ちちゃって、あ~人生ってうまくいかないな~と思って……。なんか……、そのままいまの高校に入学したけど『自分がいる場所じゃない』『こんなはずじゃなかった』そういうの。たぶん周りにもわかるんだよ。こいつ滑り止めだ、第一志望じゃないって。浮いてるっていうか」
深刻じゃなかった、というのは光樹の主観であって、実際はかなりのダメージだったのではないだろうか。
それでも、いま自分が頑張れば。結果を出しさえすればと、逃げ場のない家庭の中であがく。
両親の過去の所業で生じた歪みを、自分の努力でどうにか正そうとして。
良い話題があれば、元通りの家族の仲の良さを取り戻せると信じてすがって。
全部がうまくいくようにと、受験に願を掛けた。
(なんで落ちるかなとは思っても、落ちるときは落ちるんだよな。どんなに努力をしていても、切実な願を掛けていても、勝負事は無情なんだ)
受かった他の子たちだって、事情がある中で戦っていたのかもしれないし、誰かを恨んでも解決しない。
とはいえ「受験で落ちた」だけでなく「家族の願を掛けていたが無残に散った」とあっては、いいだけ打ちのめされたに違いない。
失敗の理由がメンタルの不調というのは誰しも考えるところだろう。思い当たる節のある両親の間で、会話がますます無くなっていく……。
光樹としては、まるで自分が家庭の不和にトドメを刺したかのように、錯覚してしまうかもしれない。
おそらく、伊久磨と同じ結論に達したであろう香織が、押し殺した声で言った。
「お前の親どうなってんだよ。俺が文句つけてやろうか」
――俺にはその権利がある。
(怒ってる)
凄まじい怒りが、空気を伝って来た。
ぐずぐずと解決しないままの家庭内の不和。かつて静香を追い詰めたそれが、今は光樹に降りかかっている。子どもたちに逃げ場はない、いつだって。
――俺が黙って身を引いていても、結局それか。
香織とは反対側のドアに寄りかかっていた光樹が、香織から立ち上る怒気にあてられたように無言になり、ただ香織を見ている。
何故ここまで怒っているのか、光樹にはわからないのだろう。
もしかしたらいつか知るのかもしれない。その意味を。
香織の、純度の高い怒りの理由。
何もかもを粉々に打ち砕いてしまうかもしれない。壊して、破壊しつくしても止まらずに。
止めない方がいいのだろうか。
香織の心の奥底にある叫び。本当に受け止めて欲しい相手に届けることがかなわず、根腐れを起こしながら香織を蝕み続けている。
(解き放てば報われるのか?)
それが香織の幸せなのだろうか。
そうなのかもしれない。だけど。
傷つけた分、香織は傷つく。より深く。それは結局香織の死期を早めるだけだ。衝動のままに壊してしまえば、香織だってきっと、生きてはいられない。
「まずは俺が話し合う。明確な虐待でないにせよ、光樹くんの状態が悪いのはわかった。幸い、ピアノの習い事があったおかげで、岩清水さんのお母さんが気付いた。だけど親御さんはそれをやめさせようとしている。そうすると、光樹くんが外に助けを求める手段がなくなってしまう。その前に、俺や香織と繋がったのは、絶対に意味のあることだ。『家庭のこと』に口出しされるのは誰しも嫌だし、口出す側だって躊躇する。でも俺は遠慮しないから」
見渡す限り前後に車がいない。一度路肩に寄せて、車を停めた。
「香織は最終手段にとっておくけど、出る幕ないうちに終わらせる」
振り返って、香織の目を見る。
まだ瞳に怒りを迸らせていた香織だが、その顔色は紙のように白い。
(怒りを抑えられないかもしれない自分が怖いんだ)
それがわかったら、全身からどっと力が抜けた。ほっとした。
その抜けた部分を、違う熱が埋めていく。
光樹の願いは「家族が元通りになること」だ。それを見誤ってはいけない。罰じゃない。忘れないように。
同時に、どうしても話が通じない、そのときは。公的機関に繋げたり、危機介入は躊躇わない。
覚悟を決めた。