文字と会話の深淵
三日間、電話をしていない。
電話をしたい気持ちは、すごくある。
自分からしちゃえば良いだけなのに、耐えている。
(べつに誰かに禁止されたわけじゃないし、伊久磨くんからもどうぞって言われているのにね)
待って待ち疲れて一人で悲しくなる。
このまま電話の回数は減っていくのかな。それも諦めて受け入れようと自分に言い聞かせて。
(だって「そばにいない」ってそういうことだよね。近くにいるひと優先になる。手の届くひと、視界に入るひと。あたしはどっちでもないから)
独りは、長かったので。
いっそ来るか来ないかわからない電話を計算に入れないで、今まで通りの生活をしようと思い始める。
悪いサイクルに入っている自覚はあるのだ。「待つ」のは「受け身」過ぎるし、たぶん「気の遣い過ぎ」で、何事もなかったように電話をすれば実際何事もない気がする。だけど、自分無しに成立している彼の生活に踏み込むのが申し訳ない。
(彼女が出来たら彼女優先、友達は二の次。そういうひとだと、彼が友達から思われるのが嫌なのかも。自分と男友達を天秤にかけて選ばせているようで)
男。
友達。
だと思う。
(家に泊まりこんでいる人。そのくらいは確認して良いかな? 鬱陶しくない? 彼女は聞く権利あるよね? 無い?)
独りの立ち居振る舞いは熟練の域に達し、堂に入ったものなのだが、「彼女」はいまいちわからない。「彼氏」の家に誰かいるならそれが「誰」なのかは聞きたい気がするのだけど……。
朝の早い時間にメッセージがあった。
半日休とか、海に行くとか。割と不思議な内容だったが、「了解」とスタンプを返して終わっている。
たまたま自分も早朝から造園業者の元へ行き、依頼していた鉢植えをいくつも引き取って、新築マンションの一室に納品しに行く日だった。作業を終えて、手入れの方法を説明して現場を後にしたのが午前十一時。
仕事の連絡が来る可能性があるので、スマホは何度か確認していたし、伊久磨からメッセージが入っているのは気づいていたが、開いて見てはいない。
(落ち着いてから見よう)
* * *
マンションを出て、静香は少し歩いた。公園を見つけてふらりと入り、ベンチに座る。
メッセージは何件も入っていた。
――県立水産科学館に行こうとしたら、休館日でした。そういえば月曜日はたいていお休みなんですよね。ここ数年、常に仕事だったので忘れていました。
――あと、冬場は休みの施設も多いみたいです。「青の洞窟」見てみたかったなあ。龍泉洞みたいな感じかな。静香は行ったことありますか。
――結局、海見て帰る感じになりそうです。浄土ヶ浜はさすがにすごく良いですね。夏も来てみたいですけど、冬の閑散とした感じもこれはこれで。天気はすごく良いです。
極楽浄土のようだ、と僧侶に言われたのが名前の由来という浄土ヶ浜の写真。空は青いが、海は寒そうな鈍色だ。どうしてまた、この真冬に海に行くことにしたのだろう。風は冷たいに違いない。
写真を一枚ずつ見ていく。
ひとが写っている。
振り返ったところをカメラに収められた、瞬間の切り取り。息が止まる。
(この人、知ってる……?)
「俺を撮ってどうするの」
耳の奥で声が聞こえたような、錯覚。
柔らかそうな黒髪が、風に靡いている。笑顔だ。見覚えのある。たしかに知っている。
背景は、浄土ヶ浜の白い流紋岩と、青空。光が差している。
その一枚を、長いこと見ていた。胸の中に刻みつけるように。
フォルダに保存しようか画面の上で指をうろうろとさせ、結局やめた。保存してしまうと、隠し持っているようで後ろめたい。どうしても見たくなったら、このトークアプリの、伊久磨とのメッセージ上から見よう。それがけじめのような気がした。
写真はまだある。風景。
食べ物は、海鮮丼と、海藻や鮑、雲丹のトッピングされた色の薄いラーメン。おそらくウニラーメン、と地元民としてあたりをつける。雲丹や鮑のお吸い物である「いちご煮」という郷土料理があり、イメージは近い。塩ラーメン。
写真だけを先に先に送って見ていたせいで、メッセージはいくつか飛ばしてしまったかもしれない。後で見ようと思いながらどんどん進めた。
それ以上先に行かない、最後の一枚で指が止まった。
並んで座って、ラーメンの麺を箸ですくい上げている二人。お互いに顔を向かい合わせているので、写真に収まっているのは両方の横顔。
「ええっ」
声が出た。
向かって右側は、先ほどの写真で見た黒髪の青年。左側は、何かからかわれでもしたのか、眉をしかめながら反論している風の少年。こちらも見覚えがある。
慌てて写真を閉じてメッセージを追う。レストハウスでラーメンと海鮮丼選びかねて両方食べています、というのどかなメッセージなどを追いかけて、最後。
――今晩、電話をしたときに詳しい説明をします。いま、光樹もいます。この後、静香の実家にも顔出しますが、光樹の付き添いなので静香とお付き合いしているという話をする予定はひとまずありません。色々と気になるかもしれませんが、帰りは俺が運転するので、メッセージの返事はすぐには出来ないと思います。またあとで。
思わず、空を仰いだ。
何が起きているのかさっぱりわからない。
かなり相当長いこと考えて解読に努めたのだが、やっぱり全然わからないままだ。
直接会ったり、電話で話すと普通なのに、相変わらず伊久磨のメッセージはわからない。どういうカラクリなのだろう? 今日はかろうじて写真があったからマシな方。文章だけよりは全然わかったが、わからない。
まだ存在も伝えていなかった実弟といつのまにか知り合ってドライブしてラーメン食べているし、そのまま実家に行くという。しかも香織まで。
(親に会うの? あたし抜きで? なんで? というか香織は? 香織はなんでそこにいるの? 光樹は何してるの?)
なんで姉を差し置いて姉の彼氏とドライブデートして観光地で名物食べてるの? あまつさえ親に紹介しようとしてるの? 完全にそれ、伊久磨くんと付き合ってるの、あたしじゃなくて光樹じゃないの?
(というかここ数日伊久磨くんの家にいたの誰? どっち? 両方? なんで?)
あまりにもわからないことが多すぎて、静香は掌で口をおさえたままブラックアウトしたスマホを呆然と見つめ続けて、ついに呟いてしまった。
「この状態であたし、夜まで待つの……?」