海へ
朝起きたら香織が海に行くと言い出して、そういうことになった。
「日本海? 太平洋? それとも津軽海峡?」
コーヒーを飲みながら、どちらの車でどこへ向かうのか話し合う。
「日帰りで考えると太平洋じゃないか。三陸」
伊久磨が選び、浄土ヶ浜だね、と香織は笑って言った。アウディで迎えに来るからと、適当に着込んだ伊久磨の服の上から自分のコートを羽織って出て行く。
カフェオレで黒糖饅頭を食べていた光樹は、寝起きのぼさっとした様子で大人二人のやりとりを見ていた。
午前六時。
「なんで海」
「男三人でこの狭い部屋で一日過ごすよりはマシだからかな。光樹くんも、今から家に帰っても一日暇だろうし。あ、決めつけてごめん。行く?」
そこからかな、と確認すると、もさもさ饅頭を噛んでいた光樹は無言で頷いた。
前夜は、日付が変わってもしばらく、ココアを飲みながらぼんやりと話をしていた。
(両親が揃っているときにバイトの話を切り出して喧嘩。初めての家出。休前日。まっすぐ知り合いのところにきた上で、自分を受け入れた大人たちが通報されないか気にしている)
光樹はかなり気を遣うタイプなのでは? というのが伊久磨の結論。接点はろくにないと言うが、姉弟で似るものだなぁと感心してしまった。
多少ひねくれてはいるかもしれないが、素直すぎるひねくれ方をしている。悪い大人に騙されないか逆に心配になるレベル。姉同様。
――家族なんで死んだの?
――交通事故。冬道で。
――……あの。うち家族仲が良くないというか悪いというかこんなんだけど……。贅沢な悩みだなって思ってたらごめん。
――変な角度から謝らなくて良いよ。「蜷川は家族死んでるから家族のことは相談できない」って気を遣われなくて、かえって良かった。べつに、言ってもいいんだ。俺にも家族がいたことがあるから、想像くらいはできるし。というか、大人を頼れるのは良いことだよ。大人にもいろいろいるから、人選は慎重にした方がいいけど。
――おい、高校生、なんでいまこっち見た。俺もそこそこ頼りになる大人だぞ。特に家出に関しては、一家言ある。
──大人になっても、家出癖って抜けないもんなんだな……。香織のいまの一言には、悪い大人の「悪さ」が全部詰まってる。
──つばき、さんって、いつも家出して、るんですか。
少し引き気味。距離感を掴みかねている光樹に、少し離れてベッドに寄りかかりながら一人だけマグカップでホットワインを飲んでいる香織がにやりと笑いかける。
――プロだよ。
――だめな大人の。
伊久磨が言い添える。その、呼吸。
光樹が呆れた様子で「何してるひとなんだっけ」と聞いてくる。
和菓子屋の社長で職人。答えると「社員のひと大丈夫?」と重ねて尋ねられる。
――ものすごくしっかりしているひとがいるから大丈夫。香織よりずっとよく働くし、優秀だし、頭もキレる。結婚してもうすぐ子どもも生まれるし、家も建てるって言ってた。
光樹が再び「何してるひとなんだっけ」と伊久磨に聞いて来る。多少フォローしておくか、と思い直して「これで桜モチーフの菓子は恐ろしく綺麗なもの作るんだ。その時期は一応働いている」と、嘘にはならない説明をしておく。
珍しく、香織は口を挟まないで一人で飲んでいた。
(ああ。距離感がわからないのは、香織も)
遅ればせながら思い至った。
ずっと「高校生」と呼んでいる。
光樹は香織のことをよく知らないが、香織は光樹のことを結構知っている。出会う前から。
名前。年齢。両親のこと。姉のこと。もしかしたら、ピアノのことも、住んでるところも。たくさん。
椿香織には本来、なんの罪もない。
たとえその存在が静香の家族に影を落としていたとしても。
香織はただ生まれ落ちた場所で、生きているだけだ。責められるようなことじゃない。
それなのに、こうして何度も向き合わされる。
誰にも見えない透明なナイフがその心の柔らかな部分に突き刺さり、鮮血を滴らせる。今もきっと。
――眠くなったら俺のベッド使っていいよ。というか、もう寝た方がいい。背が伸びなくなる。
――や、あの、どこでも寝れるし。この椅子でも。
伊久磨は小さく噴き出す。光樹はパソコンの椅子の背を抱くように座っていたが、そのまま寝たら身体を痛くしそうだ。
――遠慮しない。俺もう少し起きてるし。眠くなったらこのまま香織の布団奪うから。
――なにしれっと言ってんだよ。一緒に寝たいならそう言えよ。
――ん。じゃあ一緒に寝ようか香織。潰したらごめん。
――「彼女」と間違えて襲うなよ。
婀娜っぽい発言を流されて、続けて牽制をはじめた香織の一言に、伊久磨は「あっ」と声を上げてスマホを確認する。
“明日早いから今日は寝るね。電話はまた今度。おやすみなさい。”
一時間も前にメッセージが入っていた。
(話したいと思っていたのに……)
明日こそ。
痛恨の思いで、スマホに額を打ち付ける。
――電話とかしないんだなって思ってたんだけど。最近どうなの。
――たまたま香織が居候始めてから電話していないだけで良好だよ、大丈夫。
若干恨みがましくなってしまった。香織は薄ら笑いを浮かべて「ごめんね」と軽く謝ってくる。
――蜷川って彼女いんの? あの……
光樹は光樹で、また何か考えてしまっている顔になっていた。本当に気遣い姉弟だな、と伊久磨は力なく笑いかけてみる。
――大丈夫、遠距離だから。もともと頻繁に会えないし。家に合鍵持った居候に住みつかれてもたいした問題ではいや問題だな問題だよ。香織、合鍵は出て行くとき置いていけよ。
――なんだよ、二人がよろしくやってるときに邪魔でもされると思ってんの? 期待されたらやるしかねーな。合鍵が一つだけだと誰が言った?
香織には最悪の開き直りをされただけだった。
夜も遅いのを考慮しつつ、声を抑えてわーわーやりあう。しまいに、そのまま布団に寝転がって、寝た。
光樹に「彼女」を打ち明けるかは迷ったが、この件が片付いてからにしようと決めた。
そもそも、光樹とは静香関係なく出会っている。伊久磨が自分を気にかけているのが、静香絡みで下心ありだと勘違いされたくない。
まったく無関係とは言い切れないが、現実が動いているときに、違う出会いを仮定しても意味がない。
いまのこの状況が、すべてだ。
香織は伊久磨の足側から布団に潜り込んでいた。
光樹は悩んだようだが、結局ベッドで寝た。
* * *
「西條シェフとは鉢合わせしなかったのか」
走り出したアウディは、ひとまず香織の運転。市街地を抜けると途端に車が少なくなる。
オーディオはスマホと同期していて、フルート奏者のアルバムが表示されていた。やわらかな音色が車内に流れている。
「会わなかったね。いつもは起きてる時間だけど。案外、藤崎さんと寝てたんじゃない」
「……えっ」
助手席で何気なく話を振った伊久磨は、予想外の返答に絶句して運転席の香織を見た。
「あの二人……。想像がつかない。そうなのかな」
いや二人きりだし何かあってもおかしくないけど、椿邸なんか社員寮みたいなものでそれ以上でもそれ以下でもないと思っていた、という言い訳が頭の中をぐるぐるする。
赤信号を前に、滑らかにブレーキを踏み込んだ香織は、伊久磨の方へ顔を向けて、にこりと笑った。
「適当言っただけ。だけど、西條はその気になれば誰とでも寝れるって。藤崎さん次第なんじゃない」
伊久磨は後部座席を振り返った。
「お構いなく。聞いてないですから」
光樹からは、何かを言う前に取り付く島もない態度で言われる。
「香織……。もしかして西條シェフとの喧嘩って、藤崎さん絡み?」
「原因のひとつではあるね。どうすんだってのは西條も気になっているみたいだった。ま、それだけじゃないけど」
この機会にぜひその続きを聞きたいのだが、後ろの光樹も気になる。先程みたいに、急に色事めいた話が飛び出してきても、きまずい。特に、聖もエレナも「海の星」スタッフだ。ピアノのバイトに誘っているのに、人間関係に妙な先入観は持たれたくない。
ちらりとナビの画面に目を向けると、目的地の到着時刻が表示されている。二時間と少し。
解決したいことはたくさんあるのに、全部に背を向けて、一路海へ。
――海見て来ます。夕方には戻るつもりですが、夜の営業に間に合わなかったらすみません。
由春にはひとまず連絡を入れた。
静香にも。
――昨日はごめん。友達がまだ家に泊まっていました。今日は仕事が急に半日休になって、海に向かっています。あとで写真送る。夜は電話したいです。三日話さないだけで話すことがたくさんあって困る。仕事頑張ってください。
スマホの画面がブラックアウトしてから、前に向き直った。
何も片付いていないのに、海へ行く。逃避めいているのに、遠くへ行く、その実感だけで少し、気持ちが上向いてきた。
※(一時的にかもしれませんが)本日1000P到達しましたー! ありがとうございまーす!!