振り返るとそこに
妹とは少し年齢が離れていて、喧嘩らしい喧嘩をした記憶が無い。
十八歳で家を出るまで仲良く暮らしていた。
(聞かれたことがないから、言ったこともなかったな。妹のこと)
静香に。
隠すつもりではなく、単純に、この先絶対に会うことがないのはわかっていたし、話題にするきっかけもなかったのだ。
──お兄ちゃん!
冬は陽が短い。小学校も高学年になると、習い事は一人で行っていたが、帰る時間は真っ暗だ。
学校帰り、ちょうどレッスンが終わる時間帯に合わせて、妹のピアノ教室の前を通るようにしていた。街灯の下で、真っ暗な空からちらちらと降って来る雪を見上げていると、妹が見つけて駆け寄ってくる。
すぐそばまで来て、すべって転びそうになって、咄嗟に手を伸ばして腕を掴む。
――お兄ちゃん、帰るの遅いね。
――学校で色々していたらこの時間……。今日のご飯何かな。
並んで歩き出そうとして、妹が手袋をしていないことに気付いてしまう。
両方脱いで渡すと、いいよ、と言われるが「俺の方が手の皮厚いから」と適当なことを言って押し付ける。「いいよ」が「お兄ちゃんのなんか使いたくないよ」の意味だったらどうしよう、と思いながら。困るというか傷つく。
少し歩いて、妹が遅れているのに気づいて歩調をゆるめる。
急ぐとすぐに転びそうになるから、と気にして肩越しに振り返った。
* * *
振り返ったら仏頂面の光樹がもくもくと歩いてついてきていた。
「海の星」を出る時に手袋をしていないのに気づいて、無理やり伊久磨が自分のを押し付けたら、ごちゃごちゃ反発していたが、ひとまず手にはめている。
(姉弟して「手」が大切なはずなのに、大事にしない……)
若干、イラッとはした。そんなところ似るなよ、と文句をつけたい。
「蜷川のことさ」
横に追いついてきた光樹と、さりげなく立ち位置を入れ替える。歩道もないような細い道、一応保護者なので、保護対象者を車の通る側にするわけにはいかない。
「既婚者だと思ってたんだ」
前を向いたまま、ぼそぼそと言われる。
今晩は伊久磨の家で預かるという話になった際に、確認されたのだ。「家族は大丈夫?」と。
左手の薬指に指輪があったことで、ごく自然にそう考えていたらしい。
「お店のお客さんで、縁談もってきてくれたりとか、あるからな。フェイクだけど、聞かれなきゃ答えないし、そういう勘違いを狙っている部分もある」
伊久磨が種明かしをすると、妙に光樹は落ち込んだ様子だった。なんだろうと気にはなったが、そのまま帰路についてしまい、寒さのせいかお互いあまり話さないで歩き続けてきた。
アパートまで、もうすぐ。
「先生のところで初めて会ったとき、変な奴だなと思って。既婚者なのに、店の女のひとと仲良さそうに話してて。仕事の話だってのは途中でわかったけど。奥さんのいないところで羽伸ばしてんのかなって」
「ああ。そういう」
光樹は、伊久磨に対して手厳しかった。その理由の一端が、少し垣間見えた気がした。
(静香もだけど、男女関係にひっかかりを覚える傾向があるのかな)
どうして、というのは考えなくても思い当たる。香織の存在があることで、両親の関係が複雑なのは想像に難くない。
「独身一人暮らし。ワンルーム。広くはないぞ。着いた」
新築のように綺麗な二階建てアパートの、一階角部屋。
電灯が煌々と照らし出す廊下を歩いて、ドアの前まで向かう。鍵を取り出してから、ちらっと光樹に目を向けた。
躊躇いながら、ようやく切り出す。
「一人暮らしなんだけど、いまちょっと、ひとがいる」
え、と声を上げずに口を小さく開いて、光樹は瞠目した。慌てた様子で伊久磨の目を見る。
「……彼女?」
「それならもっと前に言っている。やんごとない事情で行き場のないひと。今の光樹くんと同じ」
鍵をまわして、ドアを開けようとしたところで光樹の手が伊久磨の手首を掴んだ。
「言うの遅くね?」
「悪い。とても言いづらかった」
先に他にも人がいると伝えてしまえば、光樹が遠慮して「行かない」と言い出しかねないと思ったのだ。
「まあその、害はない……? いや、あるけど。可能な限り近寄らなければ……? ワンルームだからそうも言ってられないんだけど」
「害があるってなんだよ。ええと、女の人?」
彼女じゃないけど女の人がいて未成年には害のある感じ!? と、青少年が勝手に妄想を走らせる気配を感じながら、伊久磨はドアを開ける。
「とりあえず中に。寒いから。害はあるけど俺も疲れているし、頭まわってない」
「お、おぅ……」
そんな弱音を吐かれても、と言いたげな光樹だったが、迷惑をかけている後ろめたさもあるせいか、心配そうな顔をしてついて来た。
靴を脱いでキッチンを横切り、部屋との境目のドアを開ける。
ふわっと温かな空気。間接照明がぼんやりと部屋を照らし出していた。
普段はきちっと片付いたモデルルームのよう状態なのだが、さすがに二人暮らし三日目ともなると、どことなく生活感が出ている。
スマホの充電のために電源から伸びるケーブルが増えていたり、ローテーブルの上に飲みさしのペットボトルが置いてあったり、床に布団が敷かれていたり。
「害のあるひと寝てる?」
伊久磨の背後からおそるおそる顔を出した光樹に問題発言をされてしまう。
教えたのは伊久磨なので責められない。
そのとき、布団がもぞっと動いて、香織が姿を見せた。
「ん~おかえり~」
するりと肩から布団がすべり落ちる。
妙に滑らかで、白っぽい。
裸だ。
気づいて、伊久磨は部屋の中を大股に突き進み、ベッドから布団と毛布を持ち上げて香織の上にばさっとかぶせる。
「なんでだよ。服着てろよ!」
「風呂掃除しようとしたら、シャワー間違えてひねっちゃって、頭から全部濡らしてさ。着替え余分にないからとりあえず布団に入って寝た」
「座敷童が余計なことすんな!」
座敷童? と言いながら、香織が布団をもごもごと押しのけてぷはっと姿を見せる。無駄な肉の一切ない肩の線があらわになる。
「下は」
「全部だって言ってんじゃん」
「永遠に布団から出て来るな」
はっと思い出して伊久磨は光樹を振り返った。キッチンから部屋をのぞきこんでいた。目が合うと、困ったような儚い笑みを浮かべる。
「あの、蜷川って。彼女じゃなくて彼氏がいる感じのひと」
仕草で、自分の左手の薬指を右手で摘まみ上げている。偽装指輪ってそういうことか、と示しているようであった。
「違う。これはあの日岩清水さんの家にもいた和菓子職人。椿香織」
直接会話はしてはいなかったけど、見覚えはあるはずだ、と伊久磨は一応言ってみる。だからといって彼氏疑惑が消えるわけではないと遅れて悟る。それがどうした、だ。
香織は、布団をくしゃっと胸の前で抱きしめるようにしながら、光樹の姿を確認してゆるく笑った。
「なに伊久磨。未成年連れ込んで何しようとしてんの」
「香織。その言い方はない。相手何歳だと思ってるんだ、冗談でもそういうこと言うな」
「そうだよねえ。お前にはすでに俺がいるのにこの上高校生もだなんて、爛れた生活だよね」
「はっ倒すぞ」
わざと引っ掻き回している。引っ掻き回されてなるものかと断固として立ち向かっているというのに、なぜか光樹は安らかに微笑んだままだ。
「裸で帰り待ってるって、すげーらぶらぶじゃん」
(香織の毒にあてられて真に受けている……!)
俺何か悪いことしたか? 最近運勢傾きすぎじゃないか? と伊久磨は己の所業を振り返ってしまった。
「これはただの悪い大人だ。視界に入れるな」
悪い大人がいるとわかっているのに、家に連れてきたのは自分なのだが。
「高校生はなんでこんな時間によく知らない男の家にいるの? 連れ込まれたの?」
香織がもっともな疑問を、どことなくいかがわしい言い回しで尋ねる。はっ倒したい。
「家出」
「ふーん。俺と同じじゃん。だけどさ、未成年はだめだよ。伊久磨が捕まる。家に帰れよ」
(言っていることは正しいんだけど、家出している大人に言われても説得力がない)
頭痛を覚えながら、伊久磨は香織のもとにしゃがみこんだ。
「親御さんには連絡済みで、了承も得ている。とりあえず一晩、預かることになった」
「なんで?」
目を見て尋ねられて、伊久磨は溜息を飲み込んだ。
「たとえば岩清水さんの家に預けたとして、親御さんの気が変わって通報されて岩清水さんが捕まったら、店を開けられない。その点俺だと営業にダメージが少ないし」
「なんでそんな危ないことしてんの。家に帰せよ」
伊久磨はにこりと香織に微笑みかけた。
「それを言ったら香織も帰れ。自分の家があるだろう」
痛いところを突かれたのか、香織はその場に倒れこむと、頭の上まで布団を引っ張り上げた。
win、と伊久磨は立ち上がる。
「どうしよう。俺はシャワー使うけど、光樹くんは任せる。着替えもないし、慣れない家だし無理にすすめない。顔洗うならタオル用意するし」
「あ、風呂は入ってたからお構いなく」
そう言いつつ、部屋に入って来る様子がない。なんだ、と伊久磨が目を向けると、声を潜めて言われた。
「シャワーすぐ終わる?」
「べつに時間はかからない」
光樹の目が布団に向いて、なるほど、と伊久磨は頷いた。シャワーの間、香織と二人になることを気にしているのかもしれない。
「面倒くさい以上の害はないから」
面倒はそれはそれで結構な害なのだが。
さらに言えば光樹からすると香織は血の繋がりのある実の兄なのだ。
さすがに、これ以上変なことは言わないと信じたい。
(信じていいよな?)
伊久磨もまた布団を見下ろす。
その視線の先で「そういえば」と香織がむくりと上半身を起こした。
そのまま布団をはねのけて「濡れた服そのまま風呂場なんだけど」と言いながら立ち上がり歩き出す。
一糸まとわぬ姿で。
無言のまま伊久磨は布団を持ち上げて香織を包み込み、敷布団の上に押し倒した。
有害過ぎる、すまきにでもしておこう、と心に決めた。