何事もなく終わらない
「蜷川さんって、すごいですよね……」
日曜日のランチタイムが終わり、ノーゲストになったタイミングでエレナがしみじみと言った。
雪の降る日だった。
濡れた床にモップをかけていた伊久磨は、何かあったかな、と記憶を辿る。すぐに諦める。
思い出そうとすれば思い出せないこともないが、とかく忙しい日で、すでに記憶が飛びかけていた。
由春、聖、オリオンがキッチンにいて、心愛が各テーブルの進行を管理するディシャップ、伊久磨とエレナでホール。
「フルメンバーなら、入れ替えで予約とっても対応できるんじゃないか」という案は年明けから話題に出ていて、予約を取るときに「混雑が予想される日なので、お席のご利用を二時間で」とお願いし、了承を得ていた。そして、三十分のインターバルで次の席を取る。
普段なら、お客様の様子を見て料理の進行を調整するが、どんなに遅めでも一時間から一時間半でコースは終了していなければならない。幸い、ランチコースは品数も多くないので、そこは問題にはならなかった。が、一回転めでもゆっくりとしたいお客様に対して、時間が迫ったときにどうお声がけをするかというのは難問であった。
ランチにしてはそれなりの値段の店であり、かつ久しぶりに会う友人知人とのんびり過ごしたい。そういうお客様に対し、慌ただしい印象を与えぬよう、しかし次のお客様を待たせないようにするには。
結果的には、友人同士と見られる女性だけのテーブルで一組、時間を超過しても席を立つ気配がなく。
「お声がけ……しますか」
伊久磨が由春に許可を求めたところ「聖をキャッシャーに立たせておけ」という判断になった。
「ああ。たしかに。西條シェフのことは気にされてましたね」
聖は何度かホールに出ていたが、そのテーブルだけでなく、あちこちの視線をさらっていた。
「会計業務はやらねーぞ。あとで合わないと言われるのも嫌だ」
笑顔のままじわっと機嫌を傾ける聖を、まあまあといなしてホールに出し、さりげなく女性客の誘導に成功。
会計の途中で次の予約のお客様の来店が続き、息つく間もなく二回転め。
普段のランチタイムのクローズの時間を超過して、またもや残ったのは女性だけ四人の席。
これ以上は夜の営業に障ると判断したタイミングで、伊久磨がテーブル会計を申し出たところ。
個別会計。四人全員がカード。しかも同じブラックカード。
「これ……全員に間違いなく返さないといけないんですよね」
四枚のカードをエントランスのキャッシャーに持って戻った伊久磨に、エレナが「気が遠くなる」という顔をして言った。
初歩的なことだが、何も揃いも揃って、という。
「たぶん皆さんとても裕福な方だと思うんですけど、カードのポイント集めているとも思えないですし、そもそも個別会計という概念があるというのが……」
さらっと代表者がまとめて払うわけにはいかないのかな、とエレナが思わず言うと、伊久磨は「意外と、貸し借りはシビアみたいですよ」とカードを切りながら言った。
「よくご利用なさるお客様で地方銀行の頭取の奥様とそのご友人の組み合わせがあるんですけど、個別会計ではなく合計を半分にしたときに片方が十円多く払うことになっただけで『このたびはごちそうになります』なんて頭下げてましたし」
「十円……」
ブックタイプのバインダーにカードとサイン用の票を挟んで四セット。まとめて持って「行ってきます」と伊久磨はカウンターを離れ、テーブルに向かった。
名前を呼ぶこともなく、一人ずつバインダーを開いてペンを渡してサインを頂き、カードとレシートを渡して終了。
その手際の良さを、エレナは遠巻きに、ほとんど羨望のまなざしで見ていた。
夜の営業に備えて、食べられるひとからまかないを食べて、という慌ただしい時間帯、エレナはそのときのことを「すごい」と伊久磨に言ったのだった。
伊久磨はモップを片付けてきて手を洗い、食事のセットされた席に座る。
「すごい要素がよくわからないんですが」
嫌味ではなく、はて、と伊久磨が聞き返すと、エレナは微苦笑を浮かべた。
「面倒がらないところですかね。それぞれのタイミングで出されたカードとお客様の組み合わせを正確に把握しているし。ブラックカードだ、とかひるまないし。ひとつひとつは普通なのかもしれないけど、落ち着いていて絶対にミスしないところがすごいなと思うんです。私なら、顔が強張りそう」
なるほど、とようやく合点がいった伊久磨は、いただきます、と手を合わせてからエレナに向かって言った。
「確かに、暗黙の了解で、個別会計NGのお店はありますからね。ただ、ランチの女性客の場合はこういう部分はかなり重要だと思うんです。今日みたいに全員同じカードなんてそんなパターンはそうそうないですし、内心はひるんでましたけど。会計関係のミスは本当に許されませんから」
カードの金額を間違えて切ったり、サインをもらう相手やカードを返す相手が入れ替わったりすると、店の信用問題になる。実際、伊久磨も見た目はともかく緊張していた。
エレナは伊久磨の向かいに座り、「あ、どうぞ食べてください」と促してから深く頷いて言った。
「私の場合、こういうときはお店のひとに迷惑かけちゃいけないと思って、幹事役がまとめて払って、後から清算、という感じだったんですよ。だからこのお店では『あ、そういう風に個別会計良いんだ』とか、その辺からびっくりしちゃって。そこまでしてくれるんだ、みたいな」
「藤崎さんは確かにそのへん気を遣いそうですね。いいんですよ、お店のひとにはわがまま言っても。個別会計できない店は普通に断ってくると思いますから、そのときはそのときで。うちはお客様ひとりひとりの顔が見える小さな店ですし、サービス料も頂いていますから、出来る限りのことはします」
言い終えて、聖が作ってくれていたトマトベースの魚介のスープを一口。白身魚と海老とムール貝の他に、玉ねぎやじゃがいもが入っていてとにかくボリュームがある。大きくカットしたラザニアまで添えてあった。
「今まで、高いレストランに行ったこともあるんですけど、萎縮していたのかなって思います。『海の星』はお客様が本当にのびのびしていて楽しそうで、良いなって。最近わかってきました……。ということで、夜の準備行ってきます」
言うだけ言って、エレナはさっと席を立った。それから、思い出したように伊久磨の顔を見た。
「香織さん」
微妙な空気になる前に、伊久磨はコップの水を一口飲んで答えた。
「大丈夫、うちにいます。昨日布団買ってきたので居座りそうです。たぶん昼間仕事の合間に家に帰って、洗濯とか必要なことはしているんじゃないかな。西條シェフとバッティングする夜間はうちで過ごすって決めているみたいですが」
そうですか、とエレナは苦笑いをして立ち去った。
二人揃って喧嘩の理由も言わなければ、仲直りする様子もなく、膠着状態。外野にできることはない。あるかもしれないが、こうも仕事が忙しいと夜は寝るだけだし、ろくな会話もない。
ついでに言うと、静香と電話もしていない。
そこを考えると伊久磨も頭が痛くなりそうで、今は仕事に集中しよう、と割り切った。
(ええと、お客様が楽しそう、か……。うん。ブラックカードって見分けつかないし、四人全員から出されたときはかなり焦ったけど、本当は)
エレナには頼りがいのある先輩のように思われてしまったようだが、自分は自分でまだまだなんだけどな、と思いつつ、伊久磨はもくもくと食べ始めた。
そうして、忙しいなりにも平和にその日は終わっていくかのように思われたのだが。
夜の営業の最後のお客様が立ち、伊久磨は外まで見送りに出た。
あとはドアに鍵をかけ、レジ締め業務をして……と思ったところで、店に向かってくる人影があることに気付く。
「光樹くん……!?」
さすがに子どもが出歩く時間じゃないぞ、と色めきたった伊久磨の前に光樹が走りこんできて、白い息を吐き出しながら見上げてくる。
「家出てきた」
髪にも肩にも花びらのように真っ白な雪をのせて、強い目で睨みつけるように。
見返した伊久磨は固まりかけたが、しんしんと冷え込む夜気に思い至り、「中で話をきく」と辛うじて声をかけた。
光樹は、無言で頷く。
(家、出てきた……? え……っと、出てきた?)
どういう経緯でそうなったかはわからないが、ひとまず落ち着かせて、話を聞いて。
親御さんに連絡をして、家に帰さなければ。
心配しているだろうし、警察に相談が行っていた場合は、一緒にいた大人が問答無用で「未成年者略取」とか、誘拐とか。
罪になるよな? と、頭の中でさらう。そこまでは、かなり理性的に。
そんな伊久磨の心中を見透かしたように、光樹はきっぱりと言い切った。
「もう帰らない。絶対に。絶対に、家には帰らない……!」
やばい。
今日も夜が長そうだ、と伊久磨は諦念とともに目を閉じた。