座敷童(成人)
住みつかれてしまった。
香織が伊久磨の部屋に泊まり込んだその翌日。
夕方、仕事を終えた香織が「海の星」を訪れた。鍵を貸してと言われて、忘れ物でもしたのかと解釈した伊久磨が素直に貸したところ。
営業が終わり、日付が変わる少し前に伊久磨が帰宅すると、暖房がついた温かい部屋で布団にくるまった香織が安らかに寝ていた。
(ええっと……)
玄関に入ったところで香織の靴があるのは気付いていたので、「びっくり」ではない。どちらかというと「脱力」の類である。
「ふとん……」
前日はベッドを分け合って寝た。夏ならともかく冬なので、床で寝ろとも言えなかったし、二人とも翌日仕事だったので徹夜するわけにもいかず。
エアコンで室内の温度を上げつつ、伊久磨は掛け布団をかぶって壁を向いて寝て、香織はベッドの端で毛布をかぶって寝ていた。狭かったが、短時間である。早朝、香織はベッドを抜け出て顔を洗い、出勤していった。
余分なものを持っていないので、ひとが泊まりにくると大変だな、とこのとき気付いた。
部屋に来るのは静香くらいだと思っていたので、寝具が足りないという発想はなかったのだ。
(何かに備えて、毛布の一枚くらい予備を持っておくべきかとは思っていたけど……)
近所のホームインテリアの大型店で買ってきたらしい布団セット。部屋の隅に店名のロゴ入りテープの貼られた布団袋が置いてある。一緒に買って来たのか、いちおうカバーリングもしていた。いかにも薄っぺらく頼りないが、暖房を切らなければ寒さをしのげるのかもしれない。
部屋の入口に立ち、スイッチで灯りをつけたまま、伊久磨はしばらく室内をぼさっと見ていた。
「う~……ん。おかえり……」
ベッド横の床に敷かれた布団の中から、くぐもった声が聞こえる。
状況が違えば「起こしてごめん。明日も早いのに」と謝ったところだが、今はどうしても素直に言う気になれない。
「ただいま……?」
なんで布団を買ってきてうちで寝ているんだ? という疑問が、たった一言にもいいだけ染み出してしまう。
それなりに勘の良い香織には、声音だけでその辺の心情がほぼ正確に伝わったらしかった。
「セミダブルでも、二人で寝るのはちょっと無理かなと思って……」
むくりと起き上がって、眠そうな顔で微笑んできた。
「うん……? うん……」
疲れているせいか、頭が回らない。伊久磨は目を瞑り、眉間を指で軽く押してから、ようやく心の中で温めてきた言葉を口にした。
「何してるんだ?」
「寝てた。起きて待ってた方が良かった?」
咄嗟に答えられない。そんなに難しい質問だとも思わないのだが。
(何を聞かれているんだ?)
理解が追いついていない。考えて、伊久磨はゆっくり言った。
「その……。帰ってきたらひとがいる状況が久しぶりというか。寝てるのは構わないんだが。いや、構わないのか……? 布団はなんなんだ?」
「無いと不便だから、買った」
会話は成立しているのに、必要な情報が何も得られない。
立ち尽くしたままの伊久磨を見上げて、香織はにこりと笑って言った。
「顔がお疲れだよ。とりあえずなんか飲めば? ごはんは食べてるの?」
「なんかこう。なんだろう、その自然さ。一緒に暮らしているみたいだ」
「もともと一緒に暮らしていたんだし、自然なんじゃない?」
(わざと遠回りさせられている気がする)
痒い所には、絶対に手を届かせない、という決意すら感じる。
ここで退いたら、負けだ。
「うちに住む気か」
できるだけの厳しさを意識して、伊久磨は毅然として尋ねた。
黒のロンT姿の香織は、笑みを崩さずに答えた。
「伊久磨はさ、その辺つめが甘いと思う。こういうときは『帰れ』って言うんだよ、問答無用で。『うちに住む気か?』なんて、『うん♡』って答えられて終わりだってば。わかってないな」
ダメだしをされた。
「そっか……。覚えておく」
「覚えておくだけじゃなくて、実践も心がけてね。ということで俺は寝る。まぶしいのやだなぁ。間接照明にしてもいい?」
流れるように言って、ベッド横のスタンドライトをつける。布団を敷く為に移動していたローテーブルの上のリモコンを手にすると、さっさと室内灯を消されてしまった。
ふつっと暗くなり、スタンドライトの淡い光だけになる。
「おやすみ」
布団の国に帰って行ってしまう……。
見送りかけて、さすがに我に返った。
「ちょ、香織。寝るな。なんでここにいるんだ? 子どもじゃないんだ、いつまでも家出の真似事している場合じゃないだろ? だいたい、西條シェフとは何が原因で喧嘩になったんだっ」
ここで煙に巻かれるわけには、と思い立って布団のそばに膝を付き、布団越しに肩に手をかけて揺すぶる。
「伊久磨。声うるさいよ。もう夜だよ?」
寝返りを打った香織が、寝転がったまま見上げてきた。
「……喧嘩の原因。まだ言う気にならないのか」
ぐったりして、その場に座り込む。
ちなみに、聖側からも聞けていない。由春にも打ち明けないらしい。お手上げ。
やわらかな光の中、儚く笑った香織は小さく頷いた。
「俺と西條の問題だから。伊久磨を巻き込んでいる自覚はあるけど、ちょっと放っておいて」
そう言われてしまうと。
迷惑と言うほどの迷惑ではない気がするし、「もともと一緒に暮らしていた」だけのことはあり、勝手はわかっている。当時は部屋を余した椿邸での共同生活であって、一部屋で顔をつきあわせていたわけではないので、この状況には多少の不都合を感じないわけでもないが。
(電話……は、今日もできないか)
こんなことになっているとわかっていたら、帰り道に歩きながらどこかで。いや、真冬だし、深夜の屋外で長話はさすがに無理がある。
できれば、落ち着いた状態で話したい。静香が言うのを躊躇っている光樹のこと。
「わかった。とりあえず明日も仕事だよな? 寝ろよ。おやすみ」
「ありがと」
言うなり、香織は布団をかぶってしまう。朝が早いのは事実で、睡眠時間を確保したいのは偽らざるところなのは伊久磨にもよくわかる。
とりあえず、生活時間は違うし、部屋で寝起きをされるだけならたいして邪魔ではない。布団まで買ってきてはいるが、一週間も十日も長引くということはないだろう。
そう自分に言い聞かせて立ち上がり、コートのポケットからスマホを取り出した。
いつもなら、離れて暮らす恋人に電話をしている時間。きっと待っている。
少しだけでも声を聞きたい、と思いながらメッセージアプリを立ち上げる。
――友達が部屋に泊まりにきています。今日は電話できません。もしかしたら明日も。俺の方はそんな状態ですけど、急用があったら遠慮なく連絡ください。ごめんなさい。おやすみなさい。
すぐに既読がつく。「了解」というスタンプが返ってくる。
そのまましばらく見ていたが、続報もなく画面はブラックアウトした。
伊久磨は大きなため息をついてスマホをローテーブルに投げ出す。
今日も光樹の話が出来なかった。
秘密は抱え続けると、日に日に重くなるということを、知った。
せめて圧し潰される前に打ち明けなくては。
重い身体を引きずるように歩いて、キッチンへと向かった。