夜の声
巻き込まれた。
仕事帰りに軽く飲むか、といういつもの流れ。オリオンは早目に上がっており、エレナは「私は帰ります」とのことで、夜道だからと椿屋に送りがてら由春と二人で飲み屋に向かう途中。
――助けてください……っ!! はやく戻ってきてください!!
と、すぐにエレナから悲鳴のような電話が入って、椿邸に引き返した。
戻ってみれば、聖と香織が椿邸の居間で喧嘩の真っ最中。ほとんど怒鳴り合う勢いで口論しながら睨み合っていた。
「私が帰ってきたときは、ほぼ殴り合い寸前。掴みかかってて……」
青ざめたエレナが顔を手で押さえて状況を伝えてくる。
「香織? なんで」
伊久磨が声をかけても、聖を睨みつけるだけで返事もない。
聖も同様。
引き剥がした由春に背中から両腕を押さえられたまま、香織を睨みつけて、無言。
視線が絡んだところで火花が散るほどに、互いに譲る気配もなく怒りを漲らせている。
張りつめた空気の中、伊久磨は由春に目を向けた。
見るからに、「だめ」とか「無理」といった感情をのせた目で小さく首を振っていた。「了解」と伊久磨も頷いてみせる。
「とりあえずお前ら二人とも頭冷やせ。今日のところは」
由春が言いかけた瞬間、香織がそばに立っていた伊久磨の腕をぐっと掴んだ。
「泊めて。こいつと同じ空間にいたら絶対また同じことになるから」
振り返って伊久磨を見上げた香織は、にこりと明るい笑みを浮かべていた。
(意外と普通……、え、いや、どうだろう。何これ)
底の知れない笑み。絶対に腹の裡を見せる気などない、完璧な笑顔。
「家主が出て行くのか?」
探るように、ぼそりと言った由春に対し、香織はにこにことしたまま答えた。
「西條の方が安全だよ。俺は何するかわからないから、藤崎さんも落ち着かないでしょ」
何言ってるんだ、と。咄嗟に言えなかった。
香織と静香の間に不穏なことがあったとの告白は、この場にいる誰もが耳にしている。同様のことがないとも限らない。
本人が一番危惧しているのかもしれない。
「どうせ、明日も仕事で朝早いから、今から何時間かの話だよ。ホテルに行けっていうならそうするけど。さすがに外にいたら凍死しちゃう」
「俺は構わないけど……」
香織一人、どうとでもなると、伊久磨は躊躇いながら答える。そして聖に目を向けた。
いまだに由春に押さえつけられたまま、香織を睨みつけている。
もともと短気のきらいはあったが、いつもとは次元が違う。苛立ちではなく、紛れもない怒り。その背から白い湯気が立ち上っているようにも見えた。
「聖はどうする」
声をかけられた聖は、雑な仕草で由春の手を払いのけた。眉をひそめて俯き、何も言わない。
由春はさらに、言葉もなく見つめているエレナに視線を流し、目を細めた。
「潰しておこうか、こいつ。起き上がれないくらい念入りに。部屋に鍵があるならかけておいた方がいいとは思うが」
「無いよ」
即座に香織が答えた。わかった、と言った由春が聖の腕を掴んで引きずるように居間を出て行こうとする。
「落ち着くまで俺がついてるから、こっちのことはいい。そっちはそっちでどうにかしろ。伊久磨」
「はい」
何があったかの追及は後。今はこの二人を引き離したほうがいい。
意図するところを受け止めて返事をする。
由春が聖を連れて、椿邸を出て行く。距離があるはずなのにその音は、静まり返った空気の中やけに近く聞こえた。
残された三人とも、誰も口をきいていなかった。
やがて、伊久磨が息を吐き出す。
「香織も行こう。何か必要なものがあれば持って」
「なに? 歯ブラシとか? お前の部屋の洗面所に置いて行くぞ。浮気でも疑われろ」
「速攻で捨てる」
反射で言い返してから、伊久磨は香織を軽く睨む。
香織はすでに、いつものように笑っていた。だが、良く見ると頬が依然として強張っている。怒りの余韻。
(これ、「喧嘩するほど仲が良い」って言うと、「殺されたいの」って首締め上げられるな)
「藤崎さん、戸締りは気を付けてね。この家、無駄に広いから不審者が入り込んでもよくわからないし。部屋の鍵に関しては、考えておく。と言っても、ふすまの部屋ばかりなんだけど……」
苦笑いを浮かべて、香織が先に立ち居間を出て行く。
伊久磨は一瞬迷ってから、エレナに向き合った。
「大丈夫そうですか」
「はい。えっと……、一人暮らしは慣れていますし、この家でも不自由なく生活させてもらっているので。その、心配ではあるんですけど、お二人がついてくれていますし」
香織と聖が、何がきっかけで喧嘩に至ったのは皆目わかっていない。互いにいい大人で、それなりに上手くやっていたはず。断髪事件などはあったが。
(うまく……やっていたよな?)
考えると不安になるし、不安しかないが、それはあとでゆっくり聞けばいい。
「もし何かあったら、さっきみたいに遠慮なく連絡してください。あの、本当に何かあったときは警察を優先した方が良いと思いますが。ああ、湛さんは早朝から工場にいますし。藤崎さん、明日は」
蜷川さん、とエレナに遮られた。
「明日の心配はむしろ蜷川さんとシェフですよ。きちんと出社してくださいね。待ってますから。というか、私は鍵を持っていませんから、お店開けられませんし」
くどくどと言いかけていた伊久磨は瞑目して、溜息をついた。
目を開けてから、頷いて言う。
「わかりました。じゃあ、出る時に鍵はかけていきますけど、くれぐれも気を付けて」
伊久磨を見上げていたエレナは、緊張を少しだけといたようにふわりと笑い、「はい」と返事をした。
* * *
「考えてみると、伊久磨の家に来るのって初めてかも」
夜道を歩いて、アパートに向かった。
白々と光を放つ廊下の電灯の下、ドアの前で香織が感慨深げに呟く。
粉雪が音もなくちらちらと舞っていた。
鍵を開けながら、伊久磨は「そういえば」とだけ返す。
道すがら、会話はなかった。何があったのか、聞ける空気ではなかった。
これが、香織も同じ職場で明日聖と顔を合わせるなら多少無理をしてでも事情は聞いたが、そういうわけではない。あくまでプライべートだ。友人だからと言って、どこまで踏み込むかは悩みどころでもある。
玄関からキッチンスペースを通り抜けて、部屋に足を踏み入れた香織は、「綺麗だね」と笑顔で言った。
いつも通り。
だいぶ持ち直したかな、と思って顔を向けると、目が合った。
「静香も来たんだよね?」
「……」
無言のまま。
伊久磨は歩み寄って香織を正面から見下ろした。にこにこ笑みを浮かべている顎に片手をかけて上向かせる。
「なに?」
「それは俺が言いたい。何、イライラしてるんだ香織。絡み方がしつこい」
「ん。ごめん。嫉妬かな? この手は何? キスする?」
すぐに手を離した。
そのまま、キッチンに引き返す。
「エアコンつけて。リモコンそのへんにある。何か飲むか」
「どうしよう。もうあと何時間もないんだよね。酒の匂いさせて工場に行ったら湛さんにはっ倒される」
「じゃあ寝ろ。いますぐ」
「ベッド一つだよ」
「当たり前だ」
一人暮らしだっつーの、と声に出さずにつっこむ。
「寝られるかな……」
香織がぶつぶつ言っているのが聞こえて、伊久磨はドア枠に手をかけて部屋をのぞきこんだ。
「ホットミルク」
「うるせーよ」
微かに苛立った笑みを向けられる。伊久磨もつい噴き出した。
「なんだよ。カモミールティーとかの方がいいのか」
「お洒落なもの置いてんじゃん。それで」
言ったな、とお湯を沸かしはじめる。
部屋が寒いせいで、コートも脱がずに香織はラグマットに座り込んで、背をベッドに預けていた。
「部屋、ほんとに綺麗だね」
ぽつりとした声が聞こえる。
「椿邸で湛さんに怒られたトラウマかな」
ティーポットとカップ&ソーサーを、シンク上の棚から取り出しつつ答える。
少しの沈黙の後、香織が今一度呟いた。
「生活感なさすぎ。サボテンくらい置いてみたら。さすがにサボテンは枯らさないでしょ」
「そういうのはいいよ」
茶葉を詰めた缶と、スプーン。IHコンロの上で、ロイヤルブルーのホーローのヤカンがシュンシュンと音を立てる。
時間が遅いせいで、車の音もなく、静かだ。外で雪が降っているせいかもしれない。音が闇に吸い込まれていくような夜。
香織のひそやかな声が耳に届く。
「伊久磨らしい。自分がいつ死んでもいいように片付けやすい部屋にしているんだ。この部屋には、この世にお前を繋ぎ止めるものが何もない」
カップを温めていたお湯をシンクに捨てて、よく蒸らしたハーブティーを注ぐ。なんとなく、自分の分も。
二客のカップ&ソーサーを手に持って、部屋に戻る。
エアコンが温風を吐き出す、ごうごうという音がしていた。
明るい光の下、香織は足を投げ出すように座ったまま、伊久磨を見上げてきた。
奇妙に優しい笑み。
伊久磨はテーブルにお茶を置く。カチャリ、と小さな音を聞きながら言った。
「遺品整理、結構大変だったからな。あんまり迷惑かけない生き方をしないと」
香織の視線は、湯気を立てるカップに向いている。笑みがゆるりと深まった。
「静香も大変だな。お前がいつだって死ぬ準備をしていることに、ちゃんと気付いていればいいんだけど」
(そうだ、静香)
今日はさすがに静香に電話はできないな、と遅まきながら気付いた。
光樹の話は、またの機会にしなければならない。
話すつもりはあるんだ。ただ少し先延ばしにするだけで。
「早く飲んで寝ろよ」
カップに手を伸ばした香織に声をかけて、伊久磨もその場に腰を下ろした。