君の声が
「コーヒー淹れたよ」
たっぷり五秒ほど置いて、光樹はいきなり振り返った。
「えっ……!?」
目を大きく見開いている。
(似てる)
びっくりしたときの反応。静香と。
それだけで、伊久磨は噴き出しかけながら、光樹の目を見つめて言った。
「ここ、どこかわかる? 『海の星』だよ。ずいぶん遠くまで行っていたね」
ピアノと向き合ううちに。背中を向けた彼の向こう側に、壁付けのピアノから異界の扉が開いていた。
本人も自覚があるのだろう、あわあわと辺りに視線をすべらせている。
「いま、何時……!?」
窓から差し込む陽射しはすでにほとんどない。店内は客席ごとにペンダントライトが淡く灯っており、そこかしこに置かれた観葉植物が影になっている。
「もうすぐ夜の営業が始まる時間。大丈夫? 何か予定あった?」
「そういうわけじゃ……」
「時間あるなら、タルトタタン用意してあるから。昨日甘いもの摘まんでいたし、嫌いじゃないよな。生クリームがあったから、エスプレッソにいれてウィンナーコーヒーにした」
すぐそばのテーブルを示して言うと、光樹はピアノの椅子から立ち上がり、伊久磨をぼんやりと見上げる。
「昨日……」
「ごめん。からあげはまた今度」
にこりと微笑んでみせる。光樹は何か言いたげな様子ながら、テーブルに目を向けた。バニラアイスを添えたタルトタタンと、コーヒー。
「オリオンの作り方だと、バターと砂糖で煮詰めた林檎をオーブンで焼いて、鉄ごてをあてて焦げ目をつけるみたい。甘酸っぱさの中にキャラメルっぽいほろ苦さがあるかな。パイをぱりぱりで食べられるようにいま生地にのせたところ。ピアノのお礼」
オリオンが業務の傍ら作ってテーブルまで届けて行ったところだった。
光樹の顔がばつの悪いものになる。
「その……ピアノは」
「食べながら聞いてほしいから、まず座って」
伊久磨が先に立って、椅子をひくと光樹は躊躇いながらも腰を下ろした。
その向かい側に回り込んで、伊久磨も椅子に座る。
「普段、学校が終わるとこの時間? 部活は? あ、食べて食べて」
フォークとナイフを持って、ついていけない様子で伊久磨を見つつ「なんの事情聴取」と光樹は投げやりに呟いた。それから、下を向いて「いただきます」と小声で言う。
伊久磨は低く落ち着いた声を心がけて、告げた。
「端的に言うと、ピアノが弾きたいならいつでもここにおいでって話」
一口分ナイフで切り分けて、フォークで口に運んでいた光樹はぱちっと目を瞬いた。
流れで口にタルトタタンを放り込み、何か言おうとしたまま「ん」と動きを止める。
美味しい、と態度ににじんでいる。
伊久磨は少しだけ目を細めて、微笑んだ。
「もっとピアノを聞きたい。光樹くんはどう? 練習場所に困ってない?」
ごくん、と飲み込んで光樹は伊久磨を見る。声はなかなか出ないようだった。
ややして、絞り出すように言った。
「嫌な……音じゃない?」
「全然。ずっと聞いていたいし、たくさんのひとに聞いて欲しい。少し重いけど、ものすごく綺麗だ。心の中に直接入ってくる音色だと思ったよ」
ぼやっと伊久磨を見ていた光樹は、目を逸らして俯いた。
「よくそういうこと言うよな」
伊久磨はテーブルの下で拳を握りしめて、笑顔を作った。
「何年か前、『声』が出なくなったことがある。何ヶ月も、誰とも話さなかった。そのせいかな、今は黙れって言われても黙るつもりはないんだ。たしかに、口数は多いかも」
光樹は少しだけ顔を上げた。いぶかしむような目。きっと「何を言っているのか、よくわからない」告白。そんなことはわかっている。
こんな言葉の欠片では何も伝えられない。声が出るようになった今でさえ、「伝える」のは難しい。
「俺はシェフや光樹くんのように『表現』を持たないから、閉じこもるしかなかった。叫び声を上げることもできなかった。何もできなかったから……『表現』を持つひとのことを、本当にすごいと思う。もちろん、その指の動きは一朝一夕のものじゃないよな。紛れもない『技術』だ。何年間も、毎日何時間も練習してきた積み重ねがあって、君の『声』になっている。初めて聞いたとき、すぐに好きになった。憧れかな」
失って欲しくないんだ。「気が滅入る」だなんて呪いに耳を貸すな。
動きを止めて聞いていた光樹は、思い出したようにゆっくりと頬を歪めた。笑おうとしたのに、笑いきれなかったようだった。
「憧れって、ふつう、年下相手に使う?」
表情を選び損ねて、結局はにかんだような笑みになっている。本人は気付いているのかいないのか。
言われて「ああ」と伊久磨は思わず真顔になる。
「何歳だっけ」
「高一だよ。十六。蜷川……は」
妙な間はおそらく「蜷川さん」と言いかけた。今さら言えないのだろう。
「そっか。十歳くらい違うな」
(静香は三月誕生日だから……十三歳違い?)
少しだけ腑に落ちた。ずっと心の片隅に、引っかかっていたこと。
中学生の頃香織と出会って、「家出に付き合った」と言っていた。男女で、しかも相手が香織なのに、騒ぎになったり引き離されたりしなかったのだろうかと。
おそらく、その頃両親の関心は静香にはほとんどなかったのだ。もしくは全く余裕がなかったか。
(そこからずっと冷え切ったまま? 俺にも言うのが難しいほど……?)
「ピアノ弾けるなら弾きたい……けど」
視線をさまよわせながら光樹が呟く。伊久磨は強く頷いた。
「協力は惜しまない。もっとたくさんの人に聞いてもらおう。技術的には十分なんだ」
まなざしが、揺れて、困っている。なんで、と唇が小さく動いた。
「誰が光樹くんの音を否定したかは知らない。だけど、そんな一人二人の評価なんかどうだっていい。十人聞けば一人は確実に光樹くんのファンになる。百人聞けば十人。千人聞けば百人。百人のファンがいる高校生なんか世の中そうそういない。光樹くんの音を、ものすごく好きになって、愛してくれるひとが絶対にいるよ。光樹くんが弾くのはそのひとたちと、まだ見ぬファンの為だ。たとえ今の光樹くんの音を否定したのが身近な誰かだとしても、耳を貸すな。そのひとが光樹くんのことを『一番知っている』わけじゃない。もっと自由でいいんだ」
初めて聞いたときから、誰かに向けて弾いているように感じた。
その相手に届くかはわからないし、届かないかもしれないけど。
(俺は勝手に好きになった。こんな「声」が欲しかったって。自分を否定した相手に囚われないで欲しい。いまは叫びかもしれないけど、気付かないのかな。君の「声」がどれほどうつくしいか)
指が打鍵する。音と遊びながらめくるめく世界を織り上げていく。彼の中に詰め込まれた幻想が溢れ出して空気を震わせていく。
闇なんかじゃない。無数の星々が煌き、瞬く夜空みたいだ。そこには銀河の流れがあって、川の底の奥深いところほど、星がぎっしりと集まって、白々とした光を放ち輝いている。
「『海の星』は、高校生をバイトとして雇ったことはない。ところで、俺としては、この店には生演奏があっても良いと思っているし、オーナーもその点に異存はない。曲目は少し考えよう。差し当たり、現段階ですでに満席のバレンタインのディナーでデビューはどう? 時間給の形になるけど、もちろん給料も出す」
由春とはすでに打ち合わせ済みだ。任せる、と承認を得ている。
「バイトって……」
揺れている。目が吸い寄せられるようにピアノを見た。緑に囲まれて、ほんのりと照らされたアップライトピアノ。
柔らかな光と温もりに包まれた夜の店内は、今夜のお客様を迎える予感に満ちている。キッチンからは光が溢れ、包丁がまな板を叩く音や、話し声が聞こえる。
「まだ時間あるから、考えてみて欲しいんだ。親御さんと話す必要があるなら、俺が行くから」
びくりと肩を震わせて、光樹が伊久磨を見た。
「なんでそこまで」
「言った通りだよ。もっとたくさんの人に光樹くんのピアノを聞いて欲しいし、そもそも俺が聞きたい」
君の「声」が好きなんだ。
光樹はぼんやりとしていたが、しまいに苦笑して、噴き出した。
「蜷川って、変。『俺が行くから』って、なんだよそれ。たしかにうちの親は難しいし、バイト……バイトはどうだろうな」
迷いながら、もう一度ピアノの方を見る。テーブルの上にのせられた指が見えない鍵盤を叩いた。
本人も気付いたらしく、誤魔化すようにコーヒーカップを手にする。
「まあその、聞いてみる」
「うん。連絡は直接来てくれても良いし、今日みたいに『海の星』に電話してくれても」
ちらり、と光樹が視線を流してきた。軽く睨みつけられる。
「今日出なかったよな、電話。たいてい自分が出るって言ったくせに」
「ああ、ごめん。電話番が増えたんだった」
もぞもぞ、と光樹は制服のブレザーのポケットを探り、スマホを取り出した。
「連絡先。親の説得に必要になったら、呼ぶから」
憎まれ口みたいにぶっきらぼうに。
伊久磨はくすりと声を立てて笑いながら「よろしく」と自分のスマホを取り出す。
照れを誤魔化すように光樹はがぶりとコーヒーを飲んだ。
カップを顔から離したときには、苦いエスプレッソに溶けだしていた生クリームが口のまわりについていた。
伊久磨は笑いながら胸ポケットに入れていたハンカチを差し出し、声を出さずに指で自分の唇の周りをくるっと指し示して「ついてる」と伝える。
慌てたように、光樹は手の甲でぐいぐいとクリームを拭った。