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ステラマリスが聞こえる  作者: 有沢真尋
23 星の海(前編)
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君の声が

「コーヒー淹れたよ」


 たっぷり五秒ほど置いて、光樹はいきなり振り返った。


「えっ……!?」

 目を大きく見開いている。

(似てる)

 びっくりしたときの反応。静香と。

 それだけで、伊久磨は噴き出しかけながら、光樹の目を見つめて言った。

「ここ、どこかわかる? 『海の星』だよ。ずいぶん遠くまで行っていたね」

 ピアノと向き合ううちに。背中を向けた彼の向こう側に、壁付けのピアノから異界の扉が開いていた。

 本人も自覚があるのだろう、あわあわと辺りに視線をすべらせている。


「いま、何時……!?」

 窓から差し込む陽射しはすでにほとんどない。店内は客席ごとにペンダントライトが淡く灯っており、そこかしこに置かれた観葉植物が影になっている。

「もうすぐ夜の営業が始まる時間。大丈夫? 何か予定あった?」

「そういうわけじゃ……」

「時間あるなら、タルトタタン用意してあるから。昨日甘いもの摘まんでいたし、嫌いじゃないよな。生クリームがあったから、エスプレッソにいれてウィンナーコーヒーにした」

 すぐそばのテーブルを示して言うと、光樹はピアノの椅子から立ち上がり、伊久磨をぼんやりと見上げる。


「昨日……」

「ごめん。からあげはまた今度」

 にこりと微笑んでみせる。光樹は何か言いたげな様子ながら、テーブルに目を向けた。バニラアイスを添えたタルトタタンと、コーヒー。


「オリオンの作り方だと、バターと砂糖で煮詰めた林檎をオーブンで焼いて、鉄ごてをあてて焦げ目をつけるみたい。甘酸っぱさの中にキャラメルっぽいほろ苦さがあるかな。パイをぱりぱりで食べられるようにいま生地にのせたところ。ピアノのお礼」

 オリオンが業務の傍ら作ってテーブルまで届けて行ったところだった。

 光樹の顔がばつの悪いものになる。

「その……ピアノは」

「食べながら聞いてほしいから、まず座って」

 伊久磨が先に立って、椅子をひくと光樹は躊躇いながらも腰を下ろした。

 その向かい側に回り込んで、伊久磨も椅子に座る。


「普段、学校が終わるとこの時間? 部活は? あ、食べて食べて」

 フォークとナイフを持って、ついていけない様子で伊久磨を見つつ「なんの事情聴取」と光樹は投げやりに呟いた。それから、下を向いて「いただきます」と小声で言う。

 伊久磨は低く落ち着いた声を心がけて、告げた。


「端的に言うと、ピアノが弾きたいならいつでもここにおいでって話」

 一口分ナイフで切り分けて、フォークで口に運んでいた光樹はぱちっと目を瞬いた。

 流れで口にタルトタタンを放り込み、何か言おうとしたまま「ん」と動きを止める。

 美味しい、と態度ににじんでいる。

 伊久磨は少しだけ目を細めて、微笑んだ。


「もっとピアノを聞きたい。光樹くんはどう? 練習場所に困ってない?」

 ごくん、と飲み込んで光樹は伊久磨を見る。声はなかなか出ないようだった。

 ややして、絞り出すように言った。

「嫌な……音じゃない?」

「全然。ずっと聞いていたいし、たくさんのひとに聞いて欲しい。少し重いけど、ものすごく綺麗だ。心の中に直接入ってくる音色だと思ったよ」

 ぼやっと伊久磨を見ていた光樹は、目を逸らして俯いた。

「よくそういうこと言うよな」

 伊久磨はテーブルの下で拳を握りしめて、笑顔を作った。


「何年か前、『声』が出なくなったことがある。何ヶ月も、誰とも話さなかった。そのせいかな、今は黙れって言われても黙るつもりはないんだ。たしかに、口数は多いかも」

 光樹は少しだけ顔を上げた。いぶかしむような目。きっと「何を言っているのか、よくわからない」告白。そんなことはわかっている。

 こんな言葉の欠片では何も伝えられない。声が出るようになった今でさえ、「伝える」のは難しい。


「俺はシェフや光樹くんのように『表現』を持たないから、閉じこもるしかなかった。叫び声を上げることもできなかった。何もできなかったから……『表現』を持つひとのことを、本当にすごいと思う。もちろん、その指の動きは一朝一夕のものじゃないよな。紛れもない『技術』だ。何年間も、毎日何時間も練習してきた積み重ねがあって、君の『声』になっている。初めて聞いたとき、すぐに好きになった。憧れかな」

 失って欲しくないんだ。「気が滅入る」だなんて呪いに耳を貸すな。


 動きを止めて聞いていた光樹は、思い出したようにゆっくりと頬を歪めた。笑おうとしたのに、笑いきれなかったようだった。


「憧れって、ふつう、年下相手に使う?」

 表情を選び損ねて、結局はにかんだような笑みになっている。本人は気付いているのかいないのか。

 言われて「ああ」と伊久磨は思わず真顔になる。

「何歳だっけ」

「高一だよ。十六。蜷川……は」

 妙な間はおそらく「蜷川さん」と言いかけた。今さら言えないのだろう。


「そっか。十歳くらい違うな」

(静香は三月誕生日だから……十三歳違い?)

 少しだけ腑に落ちた。ずっと心の片隅に、引っかかっていたこと。

 中学生の頃香織と出会って、「家出に付き合った」と言っていた。男女で、しかも相手が香織なのに、騒ぎになったり引き離されたりしなかったのだろうかと。

 おそらく、その頃両親の関心は静香にはほとんどなかったのだ。もしくは全く余裕がなかったか。

(そこからずっと冷え切ったまま? 俺にも言うのが難しいほど……?)


「ピアノ弾けるなら弾きたい……けど」

 視線をさまよわせながら光樹が呟く。伊久磨は強く頷いた。

「協力は惜しまない。もっとたくさんの人に聞いてもらおう。技術的には十分なんだ」

 まなざしが、揺れて、困っている。なんで、と唇が小さく動いた。


「誰が光樹くんの音を否定したかは知らない。だけど、そんな一人二人の評価なんかどうだっていい。十人聞けば一人は確実に光樹くんのファンになる。百人聞けば十人。千人聞けば百人。百人のファンがいる高校生なんか世の中そうそういない。光樹くんの音を、ものすごく好きになって、愛してくれるひとが絶対にいるよ。光樹くんが弾くのはそのひとたちと、まだ見ぬファンの為だ。たとえ今の光樹くんの音を否定したのが身近な誰かだとしても、耳を貸すな。そのひとが光樹くんのことを『一番知っている』わけじゃない。もっと自由でいいんだ」


 初めて聞いたときから、誰かに向けて弾いているように感じた。

 その相手に届くかはわからないし、届かないかもしれないけど。

(俺は勝手に好きになった。こんな「声」が欲しかったって。自分を否定した相手に囚われないで欲しい。いまは叫びかもしれないけど、気付かないのかな。君の「声」がどれほどうつくしいか)


 指が打鍵する。音と遊びながらめくるめく世界を織り上げていく。彼の中に詰め込まれた幻想が溢れ出して空気を震わせていく。

 闇なんかじゃない。無数の星々が煌き、瞬く夜空みたいだ。そこには銀河の流れがあって、川の底の奥深いところほど、星がぎっしりと集まって、白々とした光を放ち輝いている。


「『海の星』は、高校生をバイトとして雇ったことはない。ところで、俺としては、この店には生演奏があっても良いと思っているし、オーナーもその点に異存はない。曲目は少し考えよう。差し当たり、現段階ですでに満席のバレンタインのディナーでデビューはどう? 時間給の形になるけど、もちろん給料も出す」

 由春とはすでに打ち合わせ済みだ。任せる、と承認を得ている。

「バイトって……」

 揺れている。目が吸い寄せられるようにピアノを見た。緑に囲まれて、ほんのりと照らされたアップライトピアノ。

 柔らかな光と温もりに包まれた夜の店内は、今夜のお客様を迎える予感に満ちている。キッチンからは光が溢れ、包丁がまな板を叩く音や、話し声が聞こえる。


「まだ時間あるから、考えてみて欲しいんだ。親御さんと話す必要があるなら、俺が行くから」

 びくりと肩を震わせて、光樹が伊久磨を見た。

「なんでそこまで」

「言った通りだよ。もっとたくさんの人に光樹くんのピアノを聞いて欲しいし、そもそも俺が聞きたい」

 君の「声」が好きなんだ。

 光樹はぼんやりとしていたが、しまいに苦笑して、噴き出した。


「蜷川って、変。『俺が行くから』って、なんだよそれ。たしかにうちの親は難しいし、バイト……バイトはどうだろうな」

 迷いながら、もう一度ピアノの方を見る。テーブルの上にのせられた指が見えない鍵盤を叩いた。

 本人も気付いたらしく、誤魔化すようにコーヒーカップを手にする。


「まあその、聞いてみる」

「うん。連絡は直接来てくれても良いし、今日みたいに『海の星』に電話してくれても」

 ちらり、と光樹が視線を流してきた。軽く睨みつけられる。

「今日出なかったよな、電話。たいてい自分が出るって言ったくせに」

「ああ、ごめん。電話番が増えたんだった」

 もぞもぞ、と光樹は制服のブレザーのポケットを探り、スマホを取り出した。


「連絡先。親の説得に必要になったら、呼ぶから」

 憎まれ口みたいにぶっきらぼうに。

 伊久磨はくすりと声を立てて笑いながら「よろしく」と自分のスマホを取り出す。

 照れを誤魔化すように光樹はがぶりとコーヒーを飲んだ。


 カップを顔から離したときには、苦いエスプレッソに溶けだしていた生クリームが口のまわりについていた。

 伊久磨は笑いながら胸ポケットに入れていたハンカチを差し出し、声を出さずに指で自分の唇の周りをくるっと指し示して「ついてる」と伝える。


 慌てたように、光樹は手の甲でぐいぐいとクリームを拭った。


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― 新着の感想 ―
[一言] なろうでも一部の人からの心無い感想で筆を折ってしまう方を見るととても悲しくなりますよね……。 伊久磨さんみたいな方が近くにいれば、それも防げるのかもしれませんね! それにしても、伊久磨さんは…
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